はじめに:科学としての哲学という夢
1920年代のウィーンで、哲学史上まれに見る知的実験が行われていた。数学者、物理学者、社会科学者、哲学者が毎週木曜の夜に集い、哲学を形而上学的思弁から解放し、現代論理学と経験科学の厳密さの上に築き直そうと試みたのである。ウィーン学団(Wiener Kreis)と呼ばれるこの集団が掲げた立場は、論理実証主義——後年はより穏当に論理経験主義とも呼ばれる——の名で20世紀哲学史に刻まれることになった。
その理論的中心にいたのがルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap, 1891-1970)である。フレーゲに論理学を学び、ラッセルの構成の理念を受け継いだカルナップは、学団の綱領を最も体系的に遂行した哲学者であった。検証できない命題は無意味であるという挑発的なテーゼ、形而上学の「克服」の宣言、そして言語の選択における「寛容の原理」——これらはいずれも、哲学を科学と同じ意味で進歩する協同の営みに変えようとする一つの夢の表現である。
本稿では、ウィーン学団の成立とカルナップの生涯をたどったうえで、『世界の論理的構築』、検証主義と形而上学批判、『言語の論理的構文論』、プロトコル文論争、意味論への転回、帰納論理という思想の展開を順に検討し、クワインの批判とその後の再評価までを見届ける。それは一つの哲学運動の興亡の物語であると同時に、その「死」の物語がどこまで正確なのかを問い直す試みでもある。
ウィーン学団の成立——シュリックと「科学的世界把握」
ウィーン学団の物語は、1922年、モーリッツ・シュリック(Moritz Schlick, 1882-1936)がウィーン大学の帰納科学の哲学講座——かつてマッハとボルツマンが占めた由緒ある講座——に着任したところから始まる。プランクのもとで物理学の学位を得ていたシュリックは、相対性理論の哲学的解明で名声を博した科学派の哲学者であり、彼の周囲にはまもなく、数学者ハンス・ハーン、社会科学者オットー・ノイラート、そしてカルナップらが集う討論サークルが形成された。もっともその土壌は新しいものではない。世紀初頭にはすでにハーン、ノイラート、物理学者フィリップ・フランクらが、マッハやポアンカレ、デュエムを論じる集まり——今日「第一次ウィーン学団」と呼ばれる——を持っていたのである。
学団の思想的触媒となったのが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』であった。学団はこの難解な書物を一行ずつ読み進める輪読を行い、シュリックとヴァイスマンは著者本人との対話の機会も得た。論理学の命題はトートロジーであり世界について何も語らないという洞察は、経験主義の宿年の難問——数学の確実性をどう説明するか——への解答として熱狂的に受け入れられた。ほかにヘルベルト・ファイグル、ヴィクトール・クラフト、カール・メンガー、そして若き日のゲーデルも会合に出席している。
1929年、学団は宣言書『科学的世界把握——ウィーン学団』を公刊する。主にノイラートが起草し、ハーンとカルナップが手を入れたこの文書は、形而上学の拒否、論理分析の方法、統一科学の理念を掲げ、シュリックに献呈された。翌1930年にはカルナップとベルリンのライヘンバッハを編集者として機関誌『認識(Erkenntnis)』が創刊され、国際会議が組織されていく。ここにおいて木曜夜の私的な談話会は、明確な綱領を持つ国際的な哲学運動へと変貌したのである。
カルナップの生涯——イェーナからロサンゼルスへ
カルナップは1891年、ドイツ西部のロンスドルフ(現ヴッパータール)に生まれた。イェーナ大学とフライブルク大学で物理学、数学、哲学を学び、イェーナではフレーゲの論理学講義を聴講した数少ない学生の一人となる。第一次大戦への従軍を挟んで、1921年に学位論文『空間』を完成させた。カント的な空間論と現代幾何学を調停するこの論文には、形式的方法への傾倒と新カント派的な問題意識の双方が刻まれている。決定的だったのはラッセルとの出会いである。推論された実体を論理的構成物で置き換えよというラッセルの格率は、若きカルナップの哲学的綱領そのものとなった。
1926年、シュリックの招きでウィーン大学の私講師となったカルナップは、教授資格論文として『世界の論理的構築』を提出し、学団の理論的支柱となる。1931年にはプラハのドイツ大学の自然哲学教授に転出するが、ナチズムの台頭は学団の運命を暗転させた。1934年にハーンが病没し、1936年にはシュリックが大学の階段で元学生に射殺される。1938年の独墺合邦により学団は事実上消滅し、メンバーの多くが英米へ亡命した——この離散こそが、皮肉にも論理実証主義を英語圏哲学の主流へと押し上げることになる。
カルナップ自身は1935年末にアメリカへ渡り、1936年からシカゴ大学教授、プリンストン高等研究所を経て、1954年からはライヘンバッハの後任としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教授を務めた。クワイン、ヘンペル、タルスキとの対話を続けながら、意味論と帰納論理の研究に晩年を捧げ、1970年、サンタモニカで死去した。生涯を通じてカルナップは、個人的な論争においても穏和と公正を貫いた人物として知られ、思想上の最大の批判者クワインさえ、その追悼文で師友としての敬愛を隠さなかった。
『世界の論理的構築』——構成の体系
1928年に刊行された『世界の論理的構築』(通称『アウフバウ』)は、カルナップの前期を代表する著作である。その企ては、世界のあらゆる概念を、少数の基礎概念から論理的に「構成」する体系の素描にほかならない。カルナップが基礎に選んだのは「基礎体験」——瞬間的な体験の全体——と、「類似性の想起」というただ一つの基礎関係であった。この乏しい素材から、準分析と呼ばれる手法によって感覚の質、視覚野、物理的対象、他者の心、文化的対象までが段階的に定義されていく。重要なのは、体系が個々の体験の内容ではなく関係の構造のみに依拠する点である。科学の客観性は、主観的な質の共有ではなく、構造の共有によって保証されるというのがカルナップの洞察であった。
基礎として自分自身の体験を選ぶこの方法をカルナップは「方法論的独我論」と呼んだが、それは形而上学的な独我論の主張ではない。認識論的な近さのゆえに自己心理的基礎が選ばれたにすぎず、物理的対象を基礎とする体系も同等に可能であると彼は明言している。ここにはすでに、基礎の選択は真理の問題ではなく目的に応じた選択の問題だという、後の寛容の原理につながる発想が芽生えている。
『アウフバウ』の解釈は今日でも分かれている。クワインやグッドマンに代表される伝統的読解は、これを現象主義的経験論の壮大な——そして失敗した——試みとみなしてきた。これに対し1990年代以降、フリードマンやリチャードソンらは、この書の中心課題は経験への還元よりもむしろ客観性の構造的説明にあり、新カント派の問題圏に深く根ざしていると論じた。両解釈のいずれを採るにせよ、『アウフバウ』が示した構成的方法の理念は、チャーマーズ『世界の構成』(2012)による再演にいたるまで、哲学的想像力を刺激し続けている。
検証可能性原理と形而上学の克服
論理実証主義の旗印となったのが検証可能性原理である。命題の意味はその検証の方法である——シュリックがウィトゲンシュタインに帰したこの定式によれば、原理的に経験による検証が不可能な文は、偽ですらなく、そもそも認識的に無意味である。数学と論理学の命題はトートロジーとして、経験科学の命題は検証可能な仮説として意味を持つ。しかし伝統的形而上学の命題——絶対者、物自体、世界の根拠をめぐる言明——は、そのいずれでもない。
カルナップは1932年の論文「言語の論理的分析による形而上学の克服」でこの帰結を最も鋭利に突きつけた。標的に選ばれたのはハイデガーの「無そのものが無化する」という一文である。カルナップによれば、この文は「無」という論理的語彙(否定的存在量化)を名詞として扱う統語論的錯誤の産物であり、いかなる検証条件も持たない疑似命題である。形而上学は認識ではなく「生の感情の表現」であり、形而上学者は——彼の辛辣な比喩によれば——音楽の能力を欠いた音楽家なのである。表現としての価値は芸術に譲るべきであり、理論の衣装をまとうべきではない。
しかし検証可能性原理そのものが深刻な困難を抱えていた。「すべてのカラスは黒い」のような普遍法則は、有限の観察によって完全には検証できない。また原理それ自身は検証可能でも分析的でもないから自己論駁的ではないか、という古典的批判もある。カルナップは1936-37年の論文「テスト可能性と意味」で原理を大幅に緩和し、完全な検証に代えて「確証」の可能性を意味の基準とし、傾向性概念を導入するための還元文の理論を展開した。厳格な検証主義から穏健な経験主義への軟化——それは誠実な自己修正であったが、意味の基準を精確に定式化する試みはその後も難航を続け、この綱領の限界を示すものともなった。
『言語の論理的構文論』と寛容の原理
1934年の『言語の論理的構文論』は、カルナップの中期を画する著作である。ここで哲学は「科学の論理学」として再定義される。哲学に固有の領域は存在せず、その正当な仕事は科学の言語の論理的構造——語彙、形成規則、変形規則——を研究することに尽きる。伝統的な哲学的言明の多くは、言語について語る文が対象について語る文であるかのように装う「内容的話法」の産物であり、「形式的話法」に翻訳することで疑似問題は解消するとされた。
この書の最も影響力ある寄与が「寛容の原理」である。「論理学に道徳はない。各人は自らの論理を、すなわち自らの言語形式を、望むままに構築してよい」とカルナップは書いた。当時、論理主義・形式主義・直観主義が数学の基礎をめぐって争っていたが、カルナップによればこれは真理をめぐる争いではない。異なる言語枠組みの間に「正しい」ものは存在せず、あるのは目的に応じた実用性の差だけである。彼は実際に、直観主義的な制限を課した「言語I」と古典数学を許容する「言語II」の二つの体系を構文論的に構築してみせた。
寛容の原理は、カルナップ哲学の最も深い一貫した動機を表現している。哲学的論争の多くは、事実をめぐる理論的問いと、言語をめぐる実践的提案とを混同することから生じる。混同を解けば、独断的な争いは、目的と手段をめぐる冷静な工学的検討に変わる——この発想は後年の「内的問い/外的問い」の区別にまで持続する。なお、ゲーデルの不完全性定理をいち早く受け止め、対象言語とメタ言語の区別や算術化の手法を哲学に導入した点でも、この書は時代の最先端にあった。
プロトコル文論争——ノイラートとの対立
1930年代前半、学団の内部では科学的知識の基礎をめぐる激しい論争が戦われた。争点は「プロトコル文」——観察の直接的記録となる文——の性格である。シュリックは、知識には経験との直接の接点となる揺るがぬ基礎(彼の言う「確認」)が必要だとする基礎づけ主義の立場を守った。これに対しノイラートは、いかなる文も改訂を免れないと主張する。科学は確実な土台の上に建てられるのではない。「われわれは、自分の船をドックで解体して最良の部材から組み立て直すことができず、大海の上で船を修理し続けねばならない船乗りのようなものだ」——このノイラートの船の比喩は、基礎づけ主義に対する整合主義・可謬主義の立場を象徴するものとして、後にクワインが愛用することになる。
カルナップの立場はこの論争のなかで大きく動いた。当初は『アウフバウ』の路線に沿って現象的な基礎言語を想定していたが、ノイラートの批判と物理主義——科学の言語は間主観的な物理的言語でなければならないという主張——を受け入れ、さらに1932年の「プロトコル文について」では、何をプロトコル文とするかは事実の問題ではなく言語形式の選択の問題であるという徹底した規約主義に達する。ポパーの示唆を認めつつ、カルナップはいかなる文も——プロトコル文でさえ——改訂可能であることを承認した。
この論争は、単なる内輪もめではなく、経験主義の根本問題——経験は知識をどのように制約するのか——をめぐる原理的対立であった。シュリックの基礎づけ主義、ノイラートの整合主義、カルナップの規約主義という三つの選択肢は、その後の認識論における基礎づけ主義対整合主義の論争を先取りしている。同時にこの論争は、「論理実証主義」がしばしば描かれるような一枚岩の教説ではなく、内部に鋭い緊張を抱えた生きた探究の共同体であったことの何よりの証拠でもある。
意味論への転回と様相論理
構文論の時代のカルナップは、意味や真理への言及を疑似概念として避けていた。この態度を変えさせたのがタルスキである。1935年前後、タルスキの真理定義が、真理概念を厳密なメタ言語のなかで無矛盾に扱いうることを示すと、カルナップはためらいなく方針を転換した。亡命後の『意味論序説』(1942)に始まる意味論三部作で、彼は指示、真理、論理的帰結といった概念を体系的に再建する。かつての同志ノイラートはこの転回を形而上学への退行として非難したが、カルナップにとってそれは、寛容の原理の当然の適用——有用な道具を禁じる理由はない——にすぎなかった。
意味論期の頂点をなすのが『意味と必然性』(1947)である。カルナップはここで、表現の「外延」(指示対象)と「内包」(意味)を区別する方法を体系化し、可能な世界のひとつの形式的代理物というべき「状態記述」を用いて、論理的真理(L-真)と必然性を定義した。必然的に真であるとは、すべての状態記述において真であることにほかならない。この構想は、様相論理に意味論的基礎を与える最初期の試みであり、1950年代末以降にクリプキらが完成させる可能世界意味論の重要な先駆となった。様相概念そのものを哲学的に疑わしいとみなすクワインとの対立は、ここでも二人を分かつことになる。
カルナップの意味論の遺産は、直接の弟子筋にも及んでいる。UCLAでカルナップに学んだデイヴィッド・カプランは指標詞の意味論を築き、内包と外延の区別を精緻化したモンタギューの形式意味論は言語学に革命をもたらした。分析哲学の中核に位置する現代の形式意味論・様相形而上学の系譜をさかのぼれば、その源流の一つは確実に『意味と必然性』に行き着くのである。
確率と帰納論理
晩年のカルナップが最大の情熱を注いだのが帰納論理の構築である。『確率の論理的基礎』(1950)で彼は、確率概念を二つに区別した。ひとつは相対頻度としての確率であり、これは経験的な統計の概念である。もうひとつは、証拠が仮説を支持する度合い——確証度——としての論理的確率であり、カルナップの目標は、演繹論理が前提と結論の間の必然的関係を扱うのと同様に、証拠と仮説の間の部分的支持の関係を精確に測る論理を築くことであった。帰納は心理的習慣ではなく、論理の問題として扱われるべきなのである。
カルナップは状態記述の技法を用いて確証関数を定義し、さらに『帰納的方法の連続体』(1952)では、経験からの学習の速さを表すパラメータによって無数の確証関数が一望のもとに整理できることを示した。しかしこの企ては深刻な技術的困難にも直面する。よく知られているのは、無限領域において普遍法則の確証度がゼロになってしまうという問題であり、ポパーらはこれを帰納論理の破産の証拠とみなした。ヒンティッカらによる修正の試みが続いたものの、唯一の「正しい」確証関数を選び出すという当初の理想は、次第に、合理的な信念度の枠組みの探究というより穏健な事業へと変貌していった。
帰納論理の綱領は、そのままの形では実を結ばなかったというのが大方の評価である。しかし、信念の度合いを確率論によって規律するという発想そのものは死ななかった。現代の形式認識論とベイズ主義的な確証理論は、多くの点でカルナップの問題設定の直系の後継であり、晩年の彼自身、主観的確率の理論との対話のなかで自らの立場を柔軟に発展させていた。失敗した体系というより、未完のまま受け継がれた研究プログラムと呼ぶ方が公正であろう。
クワインの批判——分析・総合の区別をめぐって
論理実証主義の「死亡記事」として最も頻繁に引かれるのが、クワインの論文「経験主義の二つのドグマ」(1951)である。クワインが標的としたのは、第一に、言語の意味のみによって真である分析的言明と、事実によって真偽が定まる総合的言明との区別、第二に、個々の言明がそれぞれ単独で経験的検証の単位となりうるという還元主義である。クワインによれば、分析性の概念は同義性や意味といった同様に不明瞭な概念による循環的説明しか持たず、また検証の単位は個々の文ではなく信念の体系全体である——「経験の法廷に立つのは、個々の言明ではなく、科学の総体」なのだ。この全体論のもとでは、論理や数学さえ原理的には改訂可能となり、分析と総合の境界は消失する。
カルナップの応答の核心は、すでに1950年の論文「経験主義、意味論、存在論」に示されていた。彼はそこで、言語枠組みの内部で答えられる「内的問い」と、枠組みそのものの採否をめぐる「外的問い」とを区別する。「数は存在するか」という問いは、数の言語の内部では自明に肯定され、外的問いとしては真偽ではなく実用性の問題である。分析性もまた、特定の言語枠組みに相対的に精確に定義できるのであって、クワインの要求する枠組み独立の説明は、そもそも求めるべきものではない——カルナップはそう考えた。二人の論争は1963年のシルプ版カルナップ論文集でも続けられたが、決定的な決着を見ることはなかった。
通説では、クワインの勝利とともに論理実証主義は崩壊したとされる。しかしこの物語は今日、少なからず修正を迫られている。グライスとストローソンは早くも1956年に分析・総合の区別の擁護を試みたし、近年の研究は、寛容の原理に立つカルナップの立場がクワインの批判を実はかなりの程度すり抜けること、両者の対立の核心は個別の論証よりも哲学観——哲学を工学とみるか、科学と連続する探究とみるか——の相違にあることを明らかにしつつある。「クワインがカルナップを葬った」という教科書的図式は、少なくとも一面的なのである。
論理実証主義の遺産——科学哲学と分析哲学への影響
論理実証主義は、その批判者たちを通じてすら20世紀哲学を形づくった。ポパーの反証主義は検証主義との対決から生まれ、クワインの自然主義はカルナップとの論争のなかで彫琢され、クーンの『科学革命の構造』は——歴史の皮肉というべきか——ほかならぬ学団の遺産である『統一科学国際百科全書』の一巻として刊行された。しかも近年の研究によれば、当時この百科全書の編集に関わっていたカルナップはクーンの原稿に好意的であり、両者の対立という通念自体が再検討されている。ヘンペルの説明理論と確証のパラドクス、ネーゲルの還元論など、20世紀後半の科学哲学の主要議題の多くは、学団が設定した問題圏の内部で展開されたのである。
分析哲学への影響はさらに広い。哲学の中心的方法としての言語の論理分析、形式的手法の駆使、明晰性の規範——これらはカルナップたちが英語圏に移植した遺産である。『意味と必然性』に発する内包の意味論は可能世界意味論と形式意味論に結実し、帰納論理はベイズ主義的認識論に受け継がれ、「内的問い/外的問い」の区別は、存在論的問いの深さをめぐる現代のメタ存在論論争——量化の多義性や「容易な存在論」をめぐる議論——のなかで明確に復権している。1990年代以降、フリードマン、リチャードソン、カルースらによる歴史的再評価は「カルナップ・ルネサンス」と呼ばれる規模に達した。
ノイラートに由来するもう一つの遺産も忘れるべきではない。統一科学の運動、科学の社会的機能への関心、そして哲学を特権的な高みから引き下ろし、協同的で可謬的な営みとして再定義しようとする志向である。近年の研究は、初期の学団——とりわけノイラート、ハーン、カルナップの「左派」——が持っていた社会的・政治的な改革志向を掘り起こし、冷戦期のアメリカで論理経験主義が非政治化されていく過程を跡づけている。論理実証主義の歴史は、思想の歴史であると同時に、20世紀の政治史でもあったのだ。
結論
ウィーン学団と論理実証主義の歩みは、しばしば壮大な失敗の物語として語られてきた。検証可能性原理は精確な定式化に失敗し、還元主義は放棄され、分析・総合の区別は攻撃に晒され、帰納論理は未完に終わった——それは事実である。しかし、自らの中心的教説を経験と論証に照らして修正し続け、最終的にその多くを手放したこと自体、学団が掲げた可謬主義的な探究の理念の実践であったとも言える。反証され改訂されることは、疑似科学ではなく科学の証なのだとすれば、論理実証主義は自らの基準を満たすほとんど唯一の哲学運動だったのである。
カルナップの生涯を貫くのは、寛容と厳密という一見相反する二つの徳の結合である。言語と枠組みの選択においてどこまでも寛容に、選ばれた枠組みの内部ではどこまでも厳密に——この態度は、独断と曖昧さの双方に対する解毒剤として、今日なお有効性を失っていない。形而上学の「克服」という彼の宣言は過激に過ぎたかもしれない。だが、主張の意味を明確にせよ、その根拠を示せ、言葉の争いと事実の争いを区別せよという要求は、哲学が存続する限り繰り返し立ち戻るべき規範であり続けるだろう。
論理実証主義をめぐる系譜は、分析哲学の歴史そのものと分かちがたく絡み合っている。分析哲学の全体像については分析哲学入門を、学団以後の科学哲学の展開については20世紀の科学哲学を、カルナップ最大の対話者についてはクワインを、学団に決定的な影響を与えた哲学者についてはウィトゲンシュタインを参照されたい。