はじめに——常識に立ち返る哲学
G・E・ムーア(George Edward Moore, 1873-1958)は、20世紀哲学の出発点に立つ人物である。19世紀末の英国哲学は、ブラッドリーやマクタガートに代表される絶対的観念論——実在は精神的な絶対者であり、時間も物質も究極的には実在しないとする形而上学——に覆われていた。この支配に対して、若きムーアはラッセルとともに反逆を開始した。実在は精神から独立に存在し、机は机であり、時間は流れ、私には二本の手がある——こうした常識的な世界像を哲学的に擁護すること。それがムーアの生涯の課題であり、この反逆から、のちに「分析哲学」と呼ばれる20世紀最大の哲学潮流が生まれることになる。
ムーアの武器は、壮大な体系ではなく、分析の明晰さである。問いを可能なかぎり細かく分割し、言葉の意味を厳密に確定し、論証の各段階を検証すること。「善とは何か」「外界は存在するか」「知っているとはどういうことか」といった古来の大問題に対して、ムーアは驚くほど素朴な、しかし驚くほど精密な仕方で立ち向かった。彼は自伝の中で、自分に哲学的問題を示唆したのは世界や科学そのものではなく、他の哲学者たちが世界や科学について語った奇妙な言明だった、という趣旨のことを述べている。哲学の病を哲学の内部から治療するというこの姿勢は、後のウィトゲンシュタインや日常言語学派に受け継がれていく。
本稿では、ムーアの生涯をたどったうえで、観念論論駁、『倫理学原理』の自然主義的誤謬と直覚主義、常識の擁護と外界の証明、確実性をめぐる議論、ムーアのパラドックスという主要な思想を順に検討し、ラッセルおよびウィトゲンシュタインとの関係を経て、分析哲学と現代メタ倫理学への影響を概観する。
生涯——ケンブリッジの人、ブルームズベリーの導師
ムーアは1873年、ロンドン郊外アッパー・ノーウッドの中流家庭に生まれた。名門ダリッジ・カレッジで徹底した古典教育を受け、1892年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学する。当初は古典学を専攻したが、二学年上のラッセルとの出会いが転機となった。ラッセルはムーアの議論の才能を見抜き、道徳科学(哲学)への転向を勧めたのである。ムーアはシジウィック、ウォード、マクタガートらに学び、1894年には知的エリートの秘密討論会「使徒会(ジ・アポスルズ)」に選出された。1898年、カントの倫理学を主題とする学位論文によってトリニティのプライズ・フェローとなり、1899年の論文「判断の本性」で観念論からの離反を開始する。
フェローの任期が切れた1904年から1911年まで、ムーアは相続した資産によりケンブリッジを離れて研究生活を送ったが、1911年に講師として復帰し、以後の生涯をケンブリッジで過ごした。1921年から1947年まで英国哲学の中心的学術誌『マインド』の編集長を務め、1925年にはウォードの後任として哲学教授に就任する。1939年の退職後、その教授職を継いだのはウィトゲンシュタインであった。1940年から1944年までアメリカ各地で客員として教え、1951年にはメリット勲章を受章。1958年、ケンブリッジで没した。派手さのない、しかし英国哲学の制度的中枢を半世紀にわたって支え続けた生涯である。
ムーアの影響は講壇の外にも及んだ。使徒会での後輩にあたるケインズ、リットン・ストレイチー、レナード・ウルフらは、ムーアの『倫理学原理』——とりわけ人格的な愛情と美的享受を最高の善とするその最終章——を自分たちの信条として受け取り、これがヴァージニア・ウルフやE・M・フォースターを含む芸術家・知識人集団「ブルームズベリー・グループ」の倫理的雰囲気を形づくった。ケインズは晩年の回想「若き日の信条」で、『倫理学原理』との出会いを新しいルネサンスの始まりにも似た解放として描いている。もっとも、謹厳なムーア自身は、自らの倫理学が因習からの解放の福音として読まれることを必ずしも意図していなかった。ムーアの慎重な学説と、弟子たちの熱狂的な受容との間には、思想史にしばしば見られるずれがある。
観念論論駁——「存在するとは知覚されること」への挑戦
1903年、ムーアは『マインド』誌に「観念論論駁」を発表した。標的は、バークリーの有名な原理「存在するとは知覚されることである(esse is percipi)」、およびそれを何らかの形で前提する観念論の全伝統である。観念論者は、実在が精神的であることを証明するために、存在と経験されることが切り離せないと主張する。ムーアはこの一点を突き崩せば観念論の建物全体が支えを失うと考え、緻密な分析を開始する。
ムーアの分析の核心は、意識とその対象の区別にある。青の感覚と緑の感覚を比べてみよ。両者は異なるが、何かを共有してもいる——それが「意識」である。そして両者を異ならせるもの——青、緑——が「対象」である。観念論者の誤りは、この二つを混同し、対象を意識の一部ないし内容へと溶かし込んでしまう点にある。ムーアによれば、意識はいわば「透明」であり、内省しようとするとき私たちが見出すのはいつも対象の方であるため、意識と対象の区別は見過ごされやすい。しかし青の感覚を持つことは、すでに心の「外」にある何か——青——との関係に立つことなのである。だとすれば、経験されるものが経験から独立に存在することを妨げるものは何もない。
この論文は、それ自体の論証の説得力については当時から議論があり、ムーア自身、後年この論文には混乱が多いと認めていた。しかしその歴史的意義は計り知れない。「観念論論駁」は、英国観念論の支配の終わりと新しい実在論の始まりを告げる象徴的文書となり、意識の志向性をめぐるその分析は、知覚の哲学と心の哲学における長い探究——ムーア自身はセンスデータ(感覚与件)の理論をめぐって生涯格闘し続けた——の出発点となった。哲学の流れを変えたのは、結論の正しさである以上に、一つの命題を徹底的に分析するというその方法だったのである。
『倫理学原理』と自然主義的誤謬
同じ1903年、ムーアは主著『倫理学原理』を刊行した。扉にはバトラー主教の言葉——「すべてのものは、それがあるところのものであって、別のものではない」——が掲げられている。この題辞は本書全体の綱領である。倫理学の根本的な問いは「善とは何か」であり、これまでの倫理学の混乱の多くは、この問いに答える際に、善を善以外の何かと取り違えてきたことに由来する。ムーアはこの取り違えを「自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)」と名づけた。
自然主義的誤謬とは、「善い」という性質を、快楽である、より進化している、欲求されている、といった自然的性質と同一視する(定義する)誤りである。スペンサーの進化論的倫理学は「善い」を「より進化した」と同一視し、ムーアの読解によれば、ミルの快楽主義は「善い」を「快い」ないし「欲求される」と同一視する。さらにムーアは、善を神の意志や超感性的実在によって定義する「形而上学的倫理学」も、自然的性質の代わりに形而上学的性質を置くだけで同型の誤りを犯していると論じた。善はいかなる他の性質とも別のものであり、それをそれ以外の何かとして定義することはできない——バトラーの題辞はここに響いている。
ムーアがこの主張を支えるために用いたのが、後に「開かれた問い論証(open question argument)」と呼ばれる議論である。仮に「善い」が「快い」を意味するとしよう。そのとき「快いものは善いか」という問いは、「快いものは快いか」と同じく自明で空虚な問いになるはずである。しかし実際には、「快いものははたして善いのか」という問いは、どんな定義候補に対しても意味のある「開かれた」問いであり続ける。私たちはこの問いを理解し、真剣に議論することができる。このことは、「善い」がいかなる自然的性質の名とも意味を異にすることを示している——ムーアはそう論じた。この一見単純な論証が、20世紀メタ倫理学のほとんど全体を規定することになる。
善の定義不可能性と直覚主義
では善とは何か。ムーアの答えは、善は単純で、分析不可能で、非自然的な性質だ、というものである。彼はこれを「黄色」との類比で説明する。黄色を一度も見たことのない人に、定義によって黄色が何であるかを教えることはできない。黄色は単純な性質であり、直接に示すことしかできないからである。善もこれと同様に単純であり、定義によっては伝達できない。ただし黄色と違って、善は自然的性質——時間の中に存在し、自然科学や心理学の対象となる性質——ではない。あるものが善いかどうかは、見たり測ったりすることでは決定できず、知性による直接的な把握——直覚——によってのみ認識される。
ここからムーアの立場は倫理学的直覚主義と呼ばれる。内在的価値についての根本命題は自明であり、証明することも反証することもできない。ただし注意すべきは、ムーアの直覚主義が、後のプリチャードやロスの義務論的直覚主義とは異なる構造を持つことである。ムーアにおいて直覚されるのは「何が内在的に善いか」のみであり、「何をなすべきか」は直覚の対象ではない。正しい行為とは最大の善を生み出す行為である、とムーアは定義する。つまり彼の規範理論は帰結主義であり、快楽ではなく多元的な善の最大化を求める点で「理想的功利主義」と呼ばれる。何が善いかを判定する際には、それが絶対的な孤立において存在しても価値を持つかを問う「孤立法」が用いられ、また全体の価値は部分の価値の総和に一致しないという「有機的統一の原理」が導入された。
そして『倫理学原理』の最終章「理想」で、ムーアは内在的な善の頂点に立つものを挙げる——人格的な交わりの喜びと、美しいものの享受である。私たちが想像しうる最大の善は、この二つの領域にほぼ尽きるとムーアは言う。この結論こそ、ブルームズベリー・グループが熱狂的に受け入れたものであった。他方、理論としてのムーアの直覚主義には早くから批判が向けられた。非自然的性質なるものをどうやって認識するのかという認識論的不安、直覚の不一致を裁定する手段がないという方法論的不安、そしてフランケナが1939年の論文で指摘したように、自然主義を「誤謬」と呼ぶこと自体が論点先取ではないかという疑義である。これらの批判は、しかし、ムーアの問題設定の枠内で展開された——その意味で批判者たちもまたムーアの土俵の上にいたのである。
常識の擁護——1925年の宣言
1925年、ムーアは論集『現代英国哲学』第2輯に「常識の擁護」を寄稿した。のちにウィトゲンシュタインが晩年に繰り返し検討することになる、20世紀認識論の記念碑的論文である。ムーアはここで、一見哲学論文とは思えない仕方で、自明の真理(トゥルーイズム)の長いリストを提示する。いわく——現在、私の身体である一つの生きた人間の身体が存在する。この身体は誕生以来ずっと、地表の上またはその近くに存在し続けてきた。地球は私の誕生よりはるか以前から存在していた。私のほかにも多くの人間の身体が存在し、彼らもまた経験や思考を持っている——等々。
ムーアの主張は二段構えである。第一に、私はこれらの命題が真であることを確実に知っている。そしてほとんどすべての人が、自分自身についての対応する命題を同様に知っている。これが「常識の世界像」であり、それは単に広く信じられているのではなく、知られているのである。第二に——ここがムーアの独創だが——これらの命題の意味を私たちは完全に理解しているにもかかわらず、その正しい分析が何であるかは未解決の哲学的問題である。「地球が存在する」ことを私は知っているが、この命題をセンスデータや物理的対象の概念によってどう分析すべきかは、まったく別の困難な問いなのだ。哲学の仕事は、常識的知識を疑うことではなく、それを分析することである。
この論文の反懐疑論的な含意は強力である。時間は実在しない、物質は存在しない、他人の心は知りえない——こうした主張をなす哲学者たちは、ムーアによれば、自らの主張と両立しない常識的知識を自分自身も持っている。「時間は非実在である」と論文に書く哲学者は、朝食のあとで執筆し、締切の前に投稿する。彼の生活そのものが彼の学説を裏切っているのである。哲学的論証が常識的確実性と衝突したとき、捨てるべきは常識ではなく論証の方だ——この推論の逆転は、今日「ムーア的転回」「ムーア的応答」と呼ばれ、常識に反する結論を導く論証への標準的な応答戦略として、現代認識論と形而上学に定着している。
外界の証明——「ここに片方の手がある」
1939年、ムーアは英国学士院で「外界の証明」と題する講演を行った。出発点はカントである。カントは『純粋理性批判』第二版で、私たちの外なる物の存在が信仰に基づいてしか受け入れられず、その証明がいまだ与えられていないことを「哲学と普遍的人間理性のスキャンダル」と呼んだ。ムーアはこのスキャンダルを終わらせると宣言し、聴衆の前で次のような証明を実演する——右手を挙げて「ここに片方の手がある」と言い、左手を挙げて「ここにもう片方の手がある」と言う。手は外的事物である。ゆえに、少なくとも二つの外的事物が存在する。証明終わり。
冗談のように見えるこの証明を、ムーアは大真面目に厳密な証明だと主張した。彼によれば、証明が満たすべき条件は三つある。前提が結論と異なること、前提が知られていること、結論が前提から帰結すること。「ここに手がある」は「外的事物が存在する」と異なる命題であり、私は講演のその瞬間、自分が手を挙げていることを確実に知っており、手があるなら外的事物はある。三条件はすべて満たされている。これ以上に厳密な証明は幾何学にもない、とムーアは言う。ただし彼は率直に認める——この証明の前提そのものを証明することは、私にはできない。前提を証明するには、自分が夢を見ていないことの証明が必要になるが、それは与えられない。しかし、証明できないことは知らないことを意味しない。私は証明できない多くのことを、確実に知っているのである。
この講演の評価は今日まで分かれている。懐疑論者はまさに「ここに手がある」を疑っているのだから、この証明は論点先取だとする批判が一方にあり、他方には、ムーアの狙いはそもそも懐疑論者の説得ではなく、証明・知識・確実性という概念の働き方を明るみに出すことにあったとする読解がある。文脈主義の認識論は、日常的文脈では「手がある」と知っていると言えるが懐疑論的文脈ではそうでないと論じることで、ムーアの証明の説得力と限界の両方を説明しようとする。いずれにせよ、わずか数ページのこの講演が、知識・証明・懐疑をめぐる現代の議論の交差点であり続けていることは疑いない。
確実性について——懐疑論との対決
晩年のムーアは、懐疑論との対決をさらに推し進めた。アメリカ滞在中の1941年にカリフォルニア大学で行った講演「確実性」と、論文「懐疑主義の四つの形態」は、その到達点である。懐疑論の典型的な論証はこう進む——お前は自分が夢を見ていないことを知らない。夢を見ていないことを知らないなら、いま自分が服を着て立っていることも知らない。ゆえにお前は、自分が立っていることを知らない。ムーアはこの論証の妥当性を認めたうえで、驚くべき応手を打つ。この論証は逆向きにも読めるのである——私はいま自分が立っていることを知っている。ゆえに、私は自分が夢を見ていないことを知っているのだ、と。
どちらの読み方を採るべきかは、前提と結論のどちらがより確実かにかかっている。そしてムーアにとって答えは明白である。「私はいま立っていることを知っている」という個別的な確実性は、「夢の可能性を排除できなければ知識はない」といった哲学的原理よりも、はるかに確実である。懐疑論の論証がどれほど巧妙でも、その前提のどれかが、攻撃対象である常識的知識よりも確実であることはありえない。ゆえに懐疑論の論証は、どこかで誤っているに違いない——たとえ、どこが誤っているのかを特定できなくとも。哲学的原理と生きられた確実性が衝突するとき、退場すべきは前者なのである。
ムーアのこの戦略を最も深く受け止めたのがウィトゲンシュタインであった。死の直前まで書き継がれ、死後1969年に『確実性の問題』として刊行された遺稿は、ムーアの「常識の擁護」と「外界の証明」の徹底的な検討から生まれている。ウィトゲンシュタインは、ムーアが「私は知っている」という表現をこれらの命題に適用するのは誤用だと批判した。「ここに手がある」「地球は昔から存在する」といった命題は、検証や疑いの対象となる通常の知識ではなく、疑うという営みそのものを可能にする「蝶番」——すべての探究が回転するための不動の軸——なのだ、と。これはムーアへの批判であると同時に、これらの命題の特権的地位というムーアの洞察の継承でもある。ムーアの答えが正しかったかどうかはなお論争的だが、彼が指さした現象が本物であることは、批判者自身が証明したのである。
ムーアのパラドックス——言えないが矛盾ではないもの
「外は雨が降っている。しかし私は、雨が降っているとは信じていない」。この文を真剣に主張する人を想像してみよ。明らかにどこかおかしい——しかし、どこが? 論理的矛盾はどこにもないのである。雨が降っており、かつ私がそれを信じていない、ということは完全にありうる。実際、他人については「雨が降っているが、彼はそう信じていない」と問題なく言えるし、自分の過去についても「雨が降っていたが、私はそう信じていなかった」と言える。不合理が生じるのは、一人称・現在形で主張されたときだけである。ムーアが1940年代の論文や学会発表で提起したこの問題は、「ムーアのパラドックス」として知られる——この命名はウィトゲンシュタインによる。
ウィトゲンシュタインはムーアの発表を聞いてただちにその重要性を見抜き、興奮してムーアに手紙を書いた。彼の考えでは、このパラドックスはムーアの最も重要な発見であり、論理と心理の交差点——「私は信じる」という一見心理学的な文が、論理に似た仕方で振る舞う場所——を照らし出すものだった。『哲学探究』第二部にはこのパラドックスの検討が含まれている。「雨が降っている」と主張することと「私は雨が降っていると信じる」と言うことは、真理条件は異なるのに、主張としてはほとんど同じ働きをする。だからこそ、前半で主張したことを後半で打ち消す文は、矛盾ではないのに自己破壊的なのである。
このパラドックスは現代でも生きた研究主題である。言語行為論は、主張という行為が話し手の信念を表明する規約を含むことからパラドックスを説明しようとし、認識論は、自分の信念への一人称的アクセスの特異性(信念の透明性)の手がかりとしてこれを扱い、認識論理学は「pだが私はpと信じない」型と「pだが私はpでないと信じる」型の二形態を区別して形式的分析を与えてきた。日常のありふれた文型に潜む深い謎を、誰よりも先に立ち止まって見つめたこと——それはムーアの哲学的スタイルそのものの縮図である。
ラッセルとウィトゲンシュタイン——二人の天才のあいだで
ムーアの生涯は、20世紀の二人の哲学的天才と分かちがたく絡み合っている。まずラッセル。トリニティで出会った二人の関係は相互的だった。ラッセルが古典学徒ムーアを哲学に導き、そして観念論からの離脱においては、ラッセルが後年回想するように、ムーアが先導し、ラッセルがそれに続いたのである。命題とその構成要素が心から独立に実在するというムーアの「判断の本性」の実在論は、ラッセルの論理学的哲学の形而上学的土台を提供した。もっともその後の二人は、同じ陣営に属しながらも対照的な道を歩む。論理学と科学に定位し華麗な学説転回を重ねるラッセルと、日常の確実性に定位し一つの問題を何十年も抱え続けるムーア。ムーアはラッセルの多くの学説に批判的で、個人的な関係にも生涯を通じて一定の緊張があったが、初期の共同の反逆が分析哲学を生んだという歴史的事実は揺るがない。
ウィトゲンシュタインとの関係は、さらに屈折に富む。1912年にケンブリッジに現れたこの若きオーストリア人は、ムーアの講義に出席し、やがてムーアを自分の議論相手として求めるようになった。1914年、ムーアはノルウェーの僻村に隠棲するウィトゲンシュタインを訪ね、その口述を筆記した——「ムーアに口述されたノート」として今日読める文書である。しかしムーアが、この覚書は序文や註を欠くため規程上学位論文と認められないと伝えると、ウィトゲンシュタインは激烈な手紙を送りつけ、関係は断絶した。再会は1929年、ウィトゲンシュタインがケンブリッジに復帰したときである。『論理哲学論考』を学位論文とする異例の博士審査で、ムーアはラッセルとともに審査員を務めた。ムーアが審査報告に、本論文は天才の作品であり、いずれにせよケンブリッジの博士号の水準は優に満たしている、という趣旨の言葉を記したという逸話は名高い。
1939年、ムーアの教授職を継いだのはウィトゲンシュタインだった。ウィトゲンシュタインは、ムーアの哲学的才能への評価においては辛辣な言葉も残しているが、その底なしの誠実さ——理解できないときに理解できないと言い、困惑をどこまでも困惑として持ちこたえる能力——には特別の敬意を抱いていたと伝えられる。そして晩年のウィトゲンシュタインが最後の力を注いだのは、ほかならぬムーアの常識論文と証明の検討だった。ムーアのパラドックスと『確実性の問題』——ウィトゲンシュタイン後期の二つの主要な関心が、いずれもムーアに由来することは、この寡黙な哲学者の影響の深さを何より雄弁に物語っている。
分析哲学への影響とメタ倫理学の現在
分析哲学には二つの源流があると言われる。一つはフレーゲからラッセルに至る論理分析の伝統であり、もう一つがムーアの概念分析の伝統である。論理記号を用いず、日常の言明の意味を忠実に分析し、哲学的主張を常識の法廷で吟味するムーアのスタイルは、オックスフォードの日常言語学派——ライル、オースティンら——の先駆となり、「哲学の仕事は分析である」という分析哲学の自己理解そのものを形づくった。分析が正しければ自明で情報を与えず、情報を与えるなら分析として不正確である、という「分析のパラドックス」も、ムーアの仕事をめぐって定式化された問題である。彼の常識擁護の戦略は、チザムの認識論における方法論的保守主義を経て、今日では懐疑論・観念論・虚無主義など常識に反するあらゆる学説への「ムーア的応答」として、現代認識論の標準装備となっている。
メタ倫理学への影響は、それ以上に決定的である。『倫理学原理』は、規範の内容ではなく道徳的言語と道徳的性質の身分そのものを問う「メタ倫理学」という分野を事実上創設した。その後の展開は、ムーアへの応答の歴史として書ける。エイヤーやスティーヴンソンの情動主義は、善が自然的性質に還元できないというムーアの批判を受け入れつつ、非自然的性質という存在論的負担を拒否して、道徳的言明は事実の記述ではなく感情の表出だとする非認知主義へ進んだ。ヘアの指令主義もこの系譜にある。他方、20世紀後半のコーネル実在論は、クリプキとパトナムの意味論を援用し、「水はH2Oである」が定義上の真理でなくとも性質の同一性でありうるように、善と自然的性質の同一性も開かれた問い論証では排除できないと論じて、自然主義の再建を図った。
そして興味深いことに、21世紀のメタ倫理学では、ムーア自身の立場——非自然主義的実在論——が有力な選択肢として復権している。パーフィットの『重要なことについて』(2011)やイーノックの頑健な実在論は、規範的真理が自然的事実に還元されない独自の身分を持つと論じ、規範性の「規範らしさ」を手放さないためには結局ムーア的な立場に戻らざるをえないと主張する。もちろん進化論的暴露論証や認識論的反論など、非自然主義への挑戦も更新され続けており、決着はついていない。しかし一世紀を経て、ムーアが引いた戦線——自然主義、非自然主義、非認知主義——が今なおメタ倫理学の基本的な地図であり続けていることは、『倫理学原理』という書物の途方もない生命力を示している。
結論
ムーアは、カントやヘーゲルのような体系の建築家ではなかった。彼が残したのは、いくつかの論文と、二冊ほどの主著と、そして何よりも一つの態度である——問いを分割せよ、言葉の意味を確定せよ、論証がどれほど壮麗でも、それが「ここに手がある」という確実性と衝突するなら、疑うべきは論証の方である、という態度。観念論論駁は分析哲学の出生証明となり、自然主義的誤謬と開かれた問い論証はメタ倫理学の百年を規定し、常識の擁護と手の証明は懐疑論をめぐる議論の恒久的な参照点となり、ムーアのパラドックスは言語と心の哲学に汲み尽くされぬ問題を遺した。体系なき哲学者としては、異例なほどの遺産である。
ムーアの限界もまた明らかである。非自然的性質の認識論は未完成のままだったし、彼の「証明」が懐疑論者を改心させたという話も聞かない。しかし、哲学的思弁が常識を蹂躙しようとするとき、立ち止まって「本当にそうか」と問い直す権利を万人のために確保したこと——それは哲学の歴史の中で決して小さな功績ではない。ラッセルの華麗さもウィトゲンシュタインの深淵もないその文章は、しかし、誠実さだけで哲学がどこまで行けるかを示す稀有な記録である。常識は哲学の出発点であって、哲学によって廃棄されるべきものではない。ムーアのこの確信は、専門化と技巧化が進む現代の哲学に対しても、静かな警告であり続けている。
ムーアが切り開いた潮流の全体像については分析哲学入門を、ともに観念論への反逆を担った盟友についてはバートランド・ラッセルを、『倫理学原理』以後のメタ倫理学の展開については分析倫理学を参照されたい。