T・M・スキャンロン——契約主義と「他者に対して正当化できること」

はじめに:なぜ「正当化できること」が問題なのか

道徳について考えるとき、私たちはしばしば二つの異なる問いを混同する。「どうすれば世界はより良くなるか」という問いと、「私はこの人に対してこう振る舞ってよいと言えるか」という問いである。前者に答えようとするのが帰結主義であり、後者を道徳の中心に据えたのがT・M・スキャンロン(Thomas Michael Scanlon, 1940- )の契約主義(contractualism)である。スキャンロンにとって、不正な行為とは世界の善の総量を減らす行為ではない。それは、影響を受ける一人ひとりに対して正当化できない行為なのである。

この転換は小さいようで決定的である。功利主義的な思考のもとでは、ある個人に降りかかる負担は、他の多くの人々に生じる利益によって相殺されうる。しかしスキャンロンの枠組みでは、相殺という操作そのものが疑わしくなる。原理を拒否できるのは常に個人であり、個人は「あなたの犠牲によって全体の総和が改善される」という理由づけを受け入れる必要がない。「他者に対して正当化できること(justifiability to others)」という要求は、人格の別個性を道徳理論の構造そのものに書き込む試みである。

本稿では、スキャンロンの経歴と主著『われわれが互いに負うもの』(What We Owe to Each Other, 1998)の企図を確認したうえで、契約主義の定式、ロールズとの異同、帰結主義批判、理由の実在論、価値のバックパッシング説明、救命ボートと数の問題、責任と非難の理論、寛容と平等をめぐる政治哲学的仕事を順に検討し、最後にパーフィットとの論争を含む受容と批判を概観する。難解な形式性の背後にある、きわめて日常的な道徳的直観——「そんなことをして、あの人に何と言うつもりか」——を見失わないようにしたい。

生涯とハーバードでの活動

スキャンロンは1940年、アメリカ・インディアナ州インディアナポリスに生まれた。プリンストン大学で学部教育を受けたのち、ハーバード大学で博士号を取得している。注目すべきは、彼の初期の専門が数理論理学であったことである。証明論を主題とする研究から出発した哲学者が、後に道徳哲学と政治哲学の中心的な理論家となったという経歴は、彼の議論に見られる構造への感覚——定式の一語一語がどのような含意を持つかを執拗に検討する姿勢——の由来を示唆している。彼はまたオックスフォードでも学び、英語圏の分析的伝統の中心的な訓練を二重に受けた。

1960年代後半からプリンストン大学で長く教鞭を執ったのち、1984年にハーバード大学に移り、以後アルフォード記念講座教授(Alford Professor of Natural Religion, Moral Philosophy, and Civil Polity)として、ジョン・ロールズ、ロバート・ノージック、後にはクリスティン・コースガードやデレク・パーフィット(客員として)らと同じ場で仕事をした。2016年に退職するまでの長い教育活動を通じて、彼は現代の道徳哲学・政治哲学の多くの研究者を育てている。ハーバードの道徳哲学が20世紀後半に持った影響力を考えるとき、ロールズとスキャンロンという二人の名は分かちがたく結びついている。

初期の重要な仕事として、1972年の論文「表現の自由の理論」がある。ここで彼は、表現の自由の根拠を、聞き手の自律——自分が何を信じ何をすべきかを自分で判断する存在としての地位——に求める議論を展開した。同じ時期に創刊された学術誌『哲学と公共問題』(Philosophy & Public Affairs)の編集にも長く関わり、応用倫理学と政治哲学を厳密な分析哲学の方法で扱う場の形成に寄与している。1975年の論文「選好と切迫性」では、福利を主観的選好の充足として測る立場を批判し、分配的正義の議論における客観的な基準の必要を論じた。この主観的選好への懐疑は、後の契約主義における「理由」の重視へと直結していく。

『われわれが互いに負うもの』の企図

契約主義の最初の体系的表明は、1982年の論文「契約主義と功利主義」である。アマルティア・センとバーナード・ウィリアムズが編んだ論集に収められたこの論文で、スキャンロンはすでに定式の骨格を提示していた。しかし彼はその後16年をかけて、この着想を一冊の書物へと練り上げる。1998年に刊行された『われわれが互いに負うもの』は、単に契約主義的な正・不正の判定基準を提出するのではなく、その基準を支える価値論・行為論・実践理性論を一挙に展開する、きわめて野心的な著作である。

書名が示すのは、この理論が扱う領域の限定である。スキャンロンは、道徳全体を契約主義で説明しようとしているのではない。「道徳」と呼ばれる領域には、他者への義務のほかにも、自分自身の生を善く生きること、動物や自然に対する態度、自己完成の要求など、性格を異にする多様な考慮が含まれる。契約主義が説明するのは、そのうち「われわれが互いに負うもの(what we owe to each other)」という中核部分——他者に対する義務、正・不正という狭義の道徳——だけである。この自己限定は、道徳一元論を避けるための重要な戦略であり、同時に「では他の領域はどうなるのか」という批判の的にもなった。

本書の構成そのものが、スキャンロンの方法論を語っている。彼は契約主義の定式を最初に提示するのではなく、まず「理由」と「価値」と「福利」を扱う三つの章を置き、そのうえで正・不正の議論に入る。この順序は偶然ではない。契約主義における「合理的に拒否できる」という中心概念は、「拒否する理由がある」という規範的な概念を前提としており、その理由概念が何であるかを先に明らかにしなければ、理論全体が空回りしてしまうからである。つまり『われわれが互いに負うもの』は、道徳理論であると同時に、理由をめぐる一般的な規範理論の書なのである。

契約主義の定式——合理的に拒否できない原理

スキャンロンの定式はこうである。「ある行為が、その状況下で、情報を与えられたうえでの強制なき一般的合意の基礎として、誰も合理的に拒否することができないような、行動の一般的規制のための原理の集合によって許容されないならば、その行為は不正である」。短い文の中に、複数の重要な装置が組み込まれている。順に解きほぐそう。

第一に、判定の対象は個々の行為ではなく「原理」である。契約主義は、目の前の行為の帰結を直接に計算するのではなく、その種の行為を許容する(あるいは禁じる)一般的な原理が、影響を受けうる人々にとって受け入れ可能かを問う。第二に、鍵となるのは「合意」ではなく「拒否」である。もし全員の積極的な合意を要求すれば、非現実的なほど厳しい条件になるうえ、無関心や無知による同意も含んでしまう。拒否に定位することで、理論は各人が持つ異議申し立ての力に焦点を合わせることができる。第三に、この拒否は「合理的(reasonable)」でなければならない。単なる気まぐれや、他者の正当な要求を無視した強欲は、拒否の理由として通らない。

そして最も論争的なのが「誰も(no one)」という語である。拒否するのは常に単数の個人であり、複数の人々の不満を足し合わせた集合的な主体ではない。これがスキャンロンの言う個人主義的制限(individualist restriction)である。ある原理を評価するとき、私たちは各人がその原理のもとで負う負担と、代替原理のもとで負う負担とを、一人ひとりのレベルで比較する。したがって「多数の人が被る小さな不利益の総和」が「一人が被る重大な不利益」を上回る、という形の論証は、契約主義の内部では原理的に構成できない。功利主義との分岐点はここにある。

もう一つ見落とせないのは、この定式が単に判定基準であるだけでなく、道徳的動機の説明でもある点だ。スキャンロンによれば、道徳的に行為する動機とは、義務感でも共感でもなく、「他者と相互に正当化可能な関係に立ちたい」という願望である。他者が合理的に拒否できないような仕方で振る舞うこと、それ自体が、私たちが価値を認める一種の関係——相互承認の関係——を構成する。道徳の規範性は、外から課される命令ではなく、この関係の価値に内在するのである。

ロールズとの異同

スキャンロンの契約主義は、しばしばロールズの契約説の道徳理論版として紹介される。実際、両者の近さは明白である。ともに社会契約の伝統をカント的に読み替え、功利主義に代わる代替理論を構築し、「合理的(rational)」と「理に適った(reasonable)」の区別を重視し、人格の別個性を擁護する。スキャンロンはロールズの同僚であり、その影響を隠さない。しかし理論の構造には、無視できない相違がある。

第一の相違は対象領域である。ロールズの『正義論』は、社会の基本構造——主要な政治的・経済的制度——の正義を主題とする。個人が日常の相互行為において何をすべきかは、直接には扱われない。スキャンロンの契約主義は逆に、個人間の道徳を主題とし、制度の正義については(『なぜ不平等が問題なのか』などで別途論じるものの)主要な焦点を置かない。第二に、装置が違う。ロールズの原初状態には無知のヴェールがあり、当事者は自分の地位・才能・善の構想を知らないまま、相互に無関心な合理的選択を行う。スキャンロンの当事者にはヴェールがない。各人は自分が置かれうるさまざまな立場を知ったうえで、その立場に固有の理由に基づいて原理を拒否する。

この違いは重要な帰結を生む。ロールズの枠組みでは、無知のヴェールの背後での選択が不確実性下の意思決定問題となり、格差原理を導くために最小最大化(マキシミン)というルールへの訴えが必要になった。スキャンロンにはこの決定理論的な迂回がない。彼が比較するのは、確率で重みづけられた期待値ではなく、それぞれの立場の人が持つ拒否の理由の強さそのものである。したがって「なぜ危険回避的な選択をするのか」というロールズへの標準的批判は、スキャンロンには当たらない。代わりに、「理由の強さをどう比較するのか」という別の困難が引き受けられる。

第三に、拒否の理由は「一般的(generic)」なものでなければならない、という制約がある。原理の評価にあたって考慮されるのは、特定の個人の固有の事情ではなく、その原理のもとで人が典型的に置かれる立場——「重い病を負う者の立場」「他人の援助を必要とする者の立場」といった類型——に伴う理由である。この一般性の要求は、理論に扱いやすさを与えるが、同時に「では類型はどう画定されるのか」という新たな問いを開く。ロールズが制度設計の水準で答えた問題を、スキャンロンは原理の一般性という水準で引き受けているのである。ロールズの理論の全体像についてはロールズの稿を参照されたい。

帰結主義批判——送信室のジョーンズ

契約主義の直観的な力を最もよく示すのが、『われわれが互いに負うもの』に登場する「送信室(transmitter room)」の事例である。あるテレビ局の送信室で、技師のジョーンズが事故により機器の下敷きになり、高電圧の部品に触れて激痛を受け続けている。彼を救出するには送信を15分間停止しなければならない。しかしいま放送されているのはワールドカップ決勝であり、数億人がそれを楽しんでいる。ジョーンズは死にはしない。15分後には確実に救出される。その間、彼はきわめて強い苦痛に耐えることになる。

集計主義的な思考にとって、この事例の答えは明白である。数億人の楽しみの中断という損失は、一人の15分間の苦痛をはるかに上回る。したがって放送を続けるべきだ——功利主義がこう答えざるをえないことは、多くの功利主義者自身も認める。しかしスキャンロンは、この結論が私たちの道徳的判断とあまりに乖離していると指摘する。放送を続ける側は、ジョーンズに向かって何と言うのか。「あなたの苦痛は理解するが、視聴者の総和がそれを上回った」という説明は、正当化として彼に差し出せるものだろうか。契約主義は、この「彼に向かって言えるか」という問いを理論の中核に据えることで、直観を体系的に説明する。

もっとも、スキャンロンの反集計主義は諸刃の剣でもある。個人主義的制限を厳格に適用すれば、「一人の死を防ぐこと」と「百万人の軽い頭痛を防ぐこと」を比較する場合、常に死の防止が優先されることになる。多くの人はこれを正しい答えと感じるだろう。しかし数を極端に増やしていったとき——たとえば全人類が生涯にわたって軽度の不快を被る場合でも一人の死が常に優先されるのか——という問いに対して、契約主義がどこまで踏みとどまれるかは、今日なお活発に議論されている。これは「集計の問題」と呼ばれ、契約主義への最も執拗な批判の系列を形成している。

「理由」の基礎性——理由の実在論

スキャンロンの道徳理論を支えているのは、規範的な「理由(reason)」を基礎的とみなす立場である。彼はこれを、理由を他の何か——欲求、心理状態、自然的性質——に還元しようとするあらゆる試みへの拒否として提示する。理由とは「何かを支持する(counts in favor of)という関係」であり、この関係はそれ以上分析されない原初的なものである。理由についてのこの立場は「理由基礎主義(reasons fundamentalism)」と呼ばれる。

とりわけスキャンロンが標的とするのは、「欲求こそが理由を与える」という広く共有された見方——彼が「標準的な描像」と呼ぶもの——である。私がコーヒーを飲む理由を持つのは、コーヒーを飲みたいという欲求があるからだ、という説明。スキャンロンはこれを転倒として退ける。むしろ、コーヒーの香りや覚醒作用といった、コーヒーを飲むことを支持する諸特徴を認識しているからこそ、私はそれを飲みたいと思うのである。欲求とは、独立した動機の源泉ではなく、「何かを支持する考慮に注意が向かい続けている状態」——彼の表現では「指令的な注意の方向づけ(directed attention)」——にほかならない。欲求は理由の根拠ではなく、理由の認識に伴う現象なのだ。

この理由の実在論をスキャンロンは、2009年のロック講義に基づく『理由について現実的であること』(Being Realistic about Reasons, 2014)で本格的に展開した。彼の立場は認知主義的・非自然主義的である。規範的判断は真偽を持ち、規範的真理は自然的事実に還元されない。しかし彼は、規範的性質が時空の外に存在する奇妙な実体だとするような重厚なプラトニズムを避ける。彼が採るのは領域相対的なアプローチであり、数学的言明の真理性が数学という領域に内在する基準によって定まるのと同様に、規範的言明の真理性も規範という領域に内在する基準によって定まる、と考える。存在論的な「上乗せ」を要求しないこの穏健な実在論は、マッキーの「奇妙さからの論証」やシャロン・ストリートらの進化論的暴露論証への応答としても構想されている。

価値の buck-passing 説明

『われわれが互いに負うもの』第二章でスキャンロンが提示した「バックパッシング説明(buck-passing account of value)」は、彼の理由基礎主義を価値論に適用したものであり、彼の仕事の中で最も広く議論されている論点の一つである。通常私たちは、「これは価値がある。だからこれを大切にする理由がある」と考える。価値が第一で、理由は価値から派生する、という順序である。スキャンロンはこれを逆転させる。

彼によれば、「善い」「価値がある」という述語は、それ自体では行為を導く独自の性質を指してはいない。ある対象が価値を持つとは、その対象が「それに対して一定の仕方で振る舞う理由を与える他の諸性質」を持つということにほかならない。価値の語は、規範的な仕事を自ら引き受けるのではなく、その仕事を対象の具体的な諸性質へと「手渡す(pass the buck)」のである。友情が価値あるものだというとき、実質的な内容は、友情が持つ具体的な諸特徴——相互の関心、共有された歴史、信頼——が、友を大切にし、時間を割き、忠誠を尽くす理由を与える、ということに尽きる。

この説明には二つの利点がある。第一に、「価値」という一枚岩の概念に訴えることをやめれば、価値の多様性——友情の価値と芸術作品の価値と人格の価値が、それぞれまったく異なる仕方で私たちに応答を要求すること——を自然に扱える。第二に、G・E・ムーア以来の「善さとは何か」という問いを、より扱いやすい「どのような性質がどのような理由を与えるか」という問いへと置き換えられる。他方、この説明には有名な難点がある。「誤った種類の理由の問題(wrong kind of reasons problem)」である。邪悪な独裁者が「この皿を賞賛しなければ殺す」と脅すとき、私はその皿を賞賛する強い理由を持つが、皿が価値を持つわけではない。理由の「種類」を、価値概念に訴えずに区別できるか——この問いは今日まで未決着のまま論争を生み続けている。

救命ボートと数の問題——トレードオフをめぐって

個人主義的制限は、有名な難問に契約主義を直面させる。二つの島に遭難者がおり、一方には一人、他方には五人がいる。ボートは一方にしか向かえない。どちらを救うべきか。功利主義の答えは明快だが、契約主義は各人の拒否の理由を個別に比較する。一人の側の人が持つ「見捨てられない理由」の強さと、五人の側の各人が持つ「見捨てられない理由」の強さは、一人あたりで見れば等しい。総和が禁じられているなら、多数を救うべきだという結論をどう導くのか。ジョン・タウレックが1977年の論文「数は問題になるべきか」で提起したこの問題は、非集計的な道徳理論すべてに突きつけられた挑戦である。

スキャンロンの応答は、フランセス・カムに由来する「同数分の打ち消し(tie-breaking)」の議論である。まず、一人の側の一人と、五人の側の一人とを対にする。この二人の要求は釣り合い、互いを打ち消す。しかし五人の側には、対応する相手を持たない四人が残る。この残余の四人の要求は打ち消されないまま残り、したがって五人の側を救うべき理由となる。重要なのは、これが「五人分の善を足し合わせた」からではないという点だ。各人の要求はあくまで個別に考慮されており、ただ釣り合いの構造から多数救助が帰結するにすぎない。この議論により、スキャンロンは集計を導入することなく数の重要性を確保しようとする。

この解決が成功しているかについては、依然として論争がある。批判者は、対を作って打ち消し合わせるという操作そのものが、暗黙のうちに人々の要求を通約可能なものとして扱っており、集計の裏口からの導入ではないかと問う。また、要求の強さが等しくない場合——一人の側が死に、五人の側が重傷にとどまる場合——にこの手続きがどう働くのかも明確ではない。数の問題は、契約主義が「人格の別個性の尊重」と「多数救助の直観」の両方を同時に満たせるかを試す試金石であり続けている。

責任と非難の理論

スキャンロンの仕事のもう一つの柱が、責任と非難をめぐる理論である。『われわれが互いに負うもの』第六章で彼は、しばしば混同される二つの責任概念を区別する。一つは「帰属としての責任(responsibility as attributability)」であり、ある行為や態度が、その人の判断や評価的態度の表れとして、その人に帰属し、道徳的評価の対象となりうるかという問題である。もう一つは「実質的責任(substantive responsibility)」であり、ある結果の負担を誰が引き受けるべきかという、分配に関わる問題である。この区別により、「彼はその行為の責任者だ(帰属)」ということと「彼はその損害を自分で負うべきだ(実質)」ということが、独立の問いであることが明確になる。

実質的責任について彼が提示するのが「選択の価値(value of choice)」説である。ある人が自らの選択の帰結を引き受けるべきなのは、その選択が「自由意志」という形而上学的能力の行使だからではない。そうではなく、その人に選択の機会を与えるような制度・原理が、他の代替原理と比べて、当人にとって価値があるからである。警告板を立てて危険区域への立ち入りを各人の判断に委ねる原理は、そこに入って傷ついた人にとっても、立ち入りを一律に禁じる原理よりも価値がありうる。だからこそ、警告を無視して入った人は、拒否の理由を弱められる。決定論をめぐる形而上学的論争を迂回しつつ責任を基礎づけるこの戦略は、契約主義の面目躍如というべき手つきである。

さらに『道徳の諸次元——許容可能性・意味・非難』(Moral Dimensions, 2008)で、スキャンロンは非難の理論を展開する。彼によれば、ある人を非難するとは、その人に苦痛を与えることでも、否定的感情を表出することでもない。それは、その人の行為が「私たちの関係が損なわれた」ことを示していると判断し、それに応じて関係についての自分の意図や期待を修正することである。友人の裏切りを非難するとは、もはや以前と同じ信頼を寄せないという態度の変化にほかならない。この「関係の毀損」モデルは、非難を制裁から切り離す点で、P・F・ストローソンの反応的態度論に対する重要な代替案となっている。

同書ではまた、意図と許容可能性の関係についての独創的な議論が展開される。二重結果論は、害を意図して引き起こすことと予見しつつ引き起こすことを区別し、前者をより悪いとみなす。スキャンロンは、行為者の意図が行為の許容可能性そのものを左右するという主張を退ける。許容可能性を決めるのは、行為を支持し反対する客観的な理由の重みである。ただし意図がまったく無関係なわけではない。意図は、その行為が行為者と被害者の関係にとって「何を意味するか」——彼の言う行為の「意味(meaning)」——を左右し、非難の適切さを決める。許容可能性と意味という二つの次元を分けることで、二重結果論をめぐる長い論争に新たな整理が持ち込まれた。

寛容と平等論

スキャンロンは純粋理論のみに留まる哲学者ではない。論集『寛容の困難』(The Difficulty of Tolerance, 2003)に集められた諸論考は、表現の自由、刑罰、人権、価値の多様性といった具体的問題を扱う。表題論文で彼は、寛容がなぜ「困難」なのかを掘り下げる。寛容とは、単に他者の生き方を放置することではない。それは、自分が誤っていると考える生き方を選ぶ人々を、社会の性格をともに形づくる平等な参加者として受け入れることである。この受容は、自分の価値観が社会において多数派であり続ける保証を手放すことを意味するがゆえに、心理的にも実践的にも負荷が大きい。寛容の困難は、この地位の平等の承認に伴う困難なのである。

晩年の主著の一つ『なぜ不平等が問題なのか』(Why Does Inequality Matter?, 2018)では、平等をめぐる議論が展開される。スキャンロンの戦略は特徴的だ。彼は「平等それ自体が価値である」という単一の前提から出発しない。むしろ、不平等が問題となる複数の異なる理由を列挙し、それぞれを個別に検討する。不平等は、屈辱的な地位の差異を生み出すがゆえに問題である。富裕層に他者の生を支配する不当な権力を与えるがゆえに問題である。政治過程への影響力の不平等を通じて手続的公正を損なうがゆえに問題である。機会の平等を実質的に掘り崩すがゆえに問題である。そして、生み出された経済的成果の分配を規定する制度が、それ自体正当化されえないがゆえに問題である。

この多元的アプローチは、平等主義に対する標準的な批判——「なぜ全員が等しく貧しい状態のほうが、全員が豊かだが不平等な状態より良いのか」という水準低下批判——を回避する。不平等が悪いのは、平等からの逸脱それ自体のゆえではなく、上に挙げたような具体的な害悪を伴うからである。ここでもスキャンロンは、抽象的な価値概念から具体的な理由へと「バックパスする」手法を採っている。この方法論的一貫性——価値であれ平等であれ、抽象名詞に仕事をさせず、その背後の理由を数え上げるという姿勢——は、彼の哲学全体を貫く特徴である。

影響と批判——パーフィットとの論争を含む

契約主義への批判は、刊行直後から複数の方向から寄せられた。最も繰り返されるのが「余剰性の批判(redundancy objection)」である。サイモン・ブラックバーンやコリン・マッギンらが定式化したこの批判はこう問う。ある原理を「合理的に」拒否できるかどうかを判定するには、すでに何が道徳的に重要かを知っていなければならない。だとすれば、契約主義の定式は道徳的判断の根拠を与えるのではなく、独立に得られた道徳的判断を言い換えているにすぎない。契約主義は空回りしている、というわけだ。スキャンロンの応答は、「合理的に拒否できる」という概念が、拒否の理由を個人ごとに検討させ、集計を排除するという実質的な構造を課している点を強調するものである。定式は結論を導出する機械ではないが、道徳的思考が従うべき形式を規定している。

第二の批判は範囲の問題である。契約主義は、拒否の理由を持ちうる存在者だけを道徳的配慮の直接の対象とする。すると、動物、重度の認知障害を持つ人、将来世代、そして胎児をどう扱うのかが問題になる。スキャンロン自身は、認知能力を欠く人については「代弁者(trustee)」による拒否という発想に触れ、動物については契約主義の外にある道徳的考慮が働くと述べるが、これらは示唆にとどまり、多くの論者は不十分と考えている。マーサ・ヌスバウムが潜在能力アプローチを契約論の代替として提示した際、彼女が挙げた「社会契約論が解決できない三つの問題」——障害、国境、種の境界——は、この批判線と重なる。

そして最も注目を集めたのが、デレク・パーフィットとの論争である。パーフィットは『重要なことについて』(On What Matters, 2011)において、カント的な普遍化原理、スキャンロン的契約主義、規則帰結主義という三つの理論が、正しく定式化されるならば同一の原理に収束すると論じた。彼の「三重理論」である。この収束論証の一環としてパーフィットは、スキャンロンの契約主義を単独で見ると、集計を禁じるがゆえに誤った答えを出す場合があり、また定式が独立の説明力を持たない場合があると批判した。スキャンロンは同書第二巻に寄せた論考「私はいかにしてカント主義者でないか」で応答し、収束の主張を退けつつ、契約主義が正・不正の説明として独自の役割を果たすことを擁護している。

興味深いのは、両者が対立しつつも、メタ倫理学においては近い立場に立つことである。パーフィットもスキャンロンも、規範的真理の客観性を擁護する非自然主義的認知主義者であり、規範的理由を還元不可能なものとみなす。相違は、その実在論をどこまで存在論的に重く受け取るかにある。パーフィットは規範的真理が「存在論的に重くない」意味で存在するという定式を用い、スキャンロンは領域相対的な真理概念を採る。二人の思想の関係についてはパーフィットの稿も参照されたい。

積極的な影響も広範である。ラーヒ・クムールの『契約主義と倫理学の基礎』をはじめとする若い世代の理論的展開、医療倫理や公衆衛生倫理におけるリスク配分の議論、気候変動をめぐる世代間正義の議論において、契約主義の枠組みは繰り返し用いられている。とりわけ「集計を許さずにリスクをどう扱うか」という問題——多数に薄く広がるリスクと少数に集中する危害をどう比較するか——は、契約主義的枠組みが現実の政策論議に接続する結節点となっている。

結論

スキャンロンの契約主義は、道徳哲学に一つの構えを取り戻した。それは、道徳的判断を世界の状態についての計算としてではなく、他者との関係における応答責任として捉える構えである。「あなたはなぜそうしたのか」と問われたとき、私たちが差し出さなければならないのは、集計された善の量ではなく、その人自身に向けて語りうる理由である。この単純な要求を理論の骨格にまで彫り上げたことが、彼の最大の功績であった。

同時に、彼の哲学は道徳理論の外へも広がっている。理由を基礎的な規範的概念として据える立場は、実践理性論と価値論の全体を書き換える提案であり、価値のバックパッシング説明は美学から福利論に至る議論の地形を変えた。責任を形而上学から切り離して「選択の価値」に定位する戦略、非難を関係の毀損として捉える理論、そして不平等を単一の価値ではなく複数の具体的害悪の束として分析する手法——いずれも、抽象的な大概念に仕事をさせず、それを支える具体的な理由へと遡行するという、一貫した方法論の産物である。

残された課題は少なくない。集計をどこまで排除できるのか。理由の強さの比較はどのように可能なのか。拒否の理由を持たない存在者に対する義務はどう説明されるのか。これらの問いに決定的な答えが出たとは言い難い。しかし、未解決の問いを残すことは、理論が生きていることの証でもある。スキャンロンが提示した「他者に対して正当化できること」という基準は、抽象的な理論の内部にとどまらず、日常の道徳的思考の中に確かに働いている。私たちが何かをためらうとき、そこで問われているのはしばしば、その行為が誰かに向かって説明できるものかどうかなのである。

契約主義が対決した功利主義の系譜と道徳理論全体の見取り図については倫理学入門を、正義論の文脈についてはロールズを、規範的理由の実在論をめぐる論争についてはパーフィットを参照されたい。