はじめに——「ポストモダン」を哲学の言葉にした人
ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-François Lyotard, 1924-1998)の名は、ほとんどつねに一つの言葉と結びつけて語られる。「ポストモダン」である。この語はもともと建築批評や文学批評の界隈で使われていた流行語にすぎなかった。それを哲学の概念にまで引き上げ、知識と正統化をめぐる厳密な問いへと変換したのが、1979年に刊行された小著『ポストモダンの条件』であった。
その本のなかでリオタールは、有名な一文を書きつける。極度に単純化するなら、「ポストモダン」とはメタ物語に対する不信のことである、と。この定式は驚くべき速さで世界中に広まり、一つの時代の合言葉となった。あまりにも広まりすぎた結果、リオタール自身の哲学はこの一句の影に隠れてしまったとさえ言える。彼はしばしば「何もかもが相対的だと言った人」「真理を放棄した人」として要約され、そのように批判されてきた。
しかし、この要約は的を外している。リオタールが生涯を通じて追い続けたのは、むしろ正反対の問いであった。すなわち、普遍的な基準がもはや自明でないとき、それでもなお不正義を不正義として名指すことはいかにして可能なのか、という問いである。これに正面から取り組んだのが、彼自身が本格的な哲学書と位置づけた『文の抗争』(1983)である。抗争(ディフェラン)とは、共通の裁きの規則が存在しないために公正に解決されえない係争を指す。そのとき被害者は、被害を受けただけでなく、被害を証明する手段そのものを奪われている。哲学の課題は、この沈黙を強いられた者たちのために、まだ存在しない言い回しを見出すことにある——リオタールはそう考えた。本稿では、アルジェリア体験から出発した政治的実践、知識論、言語哲学、崇高の美学、そしてAI時代における再読可能性までをたどる。
生涯——アルジェリア、社会主義か野蛮か、ヴァンセンヌ
リオタールは1924年、パリ郊外のヴェルサイユに生まれた。父は商業の外交員であり、家庭は特に学問的な環境ではない。パリのリセ・ビュフォンとルイ・ル・グランに学び、高等師範学校(エコール・ノルマル)の入学試験には失敗している。ソルボンヌで哲学を修め、1950年に哲学の教授資格(アグレガシオン)を取得した。学生時代の友人にはジル・ドゥルーズがいた。
決定的な転機は、資格取得の直後に訪れる。彼はフランス領アルジェリアのコンスタンティーヌにある高等中学校の教員として赴任した。1950年から1952年までの二年間である。そこで彼が目にしたのは、フランス共和国の普遍主義的な理念——自由・平等・友愛——が、植民地においては端的に嘘として機能しているという事実であった。宗主国の言葉で語られる「解放」は、被植民者にとっては支配の別名にほかならない。この経験が、リオタールを一人の政治的活動家に変えた。1954年11月にアルジェリア戦争が勃発すると、彼の関与はいっそう深まる。
同じ1954年、リオタールは「社会主義か野蛮か(Socialisme ou Barbarie)」に加わった。コルネリュウス・カストリアディスとクロード・ルフォールを中心とするこのグループは、ソ連を労働者国家ではなく官僚制的な階級社会として批判し、正統派マルクス主義とも共産党とも一線を画す革命論を展開していた。リオタールはこのグループでアルジェリア問題の担当者となり、十年以上にわたって現地情勢の分析を書き続ける。これらの論考は後年『アルジェリア人の戦争』としてまとめられた。
だが、この政治的献身は挫折に終わる。1964年、グループが分裂すると彼は「労働者権力(Pouvoir Ouvrier)」の側に移り、1966年にはそこからも離れた。核心にあったのは、革命の主体としてのプロレタリアート、そして歴史の意味を保証する枠組みそのものへの信頼の喪失であった。アルジェリアの独立後の展開も、彼が期待した解放の物語とは似ても似つかぬものになっていく。「大きな物語への不信」という後年の定式は、抽象的な文明論から出てきたのではなく、この十年以上にわたる政治的実践の失敗から絞り出されたものである。
1960年代後半、リオタールはソルボンヌ、ついでナンテールで教鞭を執り、1968年の五月危機を大学の内側から経験した。1971年には国家博士論文『言説、形象』を提出する。その後まもなく、五月危機の産物として設立された実験的な大学、ヴァンセンヌのパリ第8大学に移り、1987年に名誉教授となるまで在職した。ドゥルーズ、フーコー、バディウ、シクスーらが集まったこの大学は、当時のフランス思想の最も活気ある実験場であった。
1983年、リオタールはジャック・デリダらとともに国際哲学コレージュ(Collège International de Philosophie)の創設に参加し、デリダに続く二代目の代表を務めた。既存の大学制度の外部で、いかなる学位も授けず、誰にでも開かれた場で哲学を行うというこの試みは、彼の知識論の実践的な帰結でもあった。1985年にはポンピドゥー・センターで大規模な展覧会「非物質的なもの(Les Immatériaux)」を共同で企画し、新しい技術が身体と物質の観念をどう変質させるかを問うている。晩年はカリフォルニア大学アーヴァイン校やエモリー大学でも教え、1998年4月、白血病により73歳でパリに没した。最後の著作となったのは、死の直前まで書き継がれた『アウグスティヌスの告白』である。
『ポストモダンの条件』(1979)——知の正統化の危機
『ポストモダンの条件』は、その来歴からして奇妙な本である。これはカナダ・ケベック州政府の大学審議会からの委嘱を受けて書かれた報告書であり、副題もそのまま「知についての報告」となっている。政策的な文書として構想されたものが、二十世紀後半で最も影響力のある哲学書の一つになったわけである。リオタール自身は後年、この本を自分の著作のなかで出来のよくないものと見なしていたことが伝えられており、扱った科学についての知識の不十分さも認めていた。それでもこの本が持った射程は否定しようがない。
本書の主題は、高度に発達した社会における知の身分である。リオタールが注目するのは、知識が正しいかどうかではなく、知識が正しいと認められる手続き——正統化(légitimation)——のほうである。ある命題が科学的に妥当だと社会に受け入れられるためには、その妥当性を保証する何らかの上位の言説が必要になる。科学は自分自身の正当性を科学的に証明することができない。「なぜ真理を求めるべきなのか」は科学の内部からは答えられない問いだからである。
伝統的に、この空白を埋めてきたのが物語であった。リオタールは二つの主要な正統化の物語を区別する。一つは政治的・解放的な物語であり、フランス革命に由来する。知が正当化されるのは、それが人民の解放に奉仕するからだ。学校で教えるのは、市民を無知の隷属から解き放つためである。もう一つは思弁的な物語であり、ドイツ観念論、とりわけヘーゲルと十九世紀初頭のベルリン大学構想に由来する。個別の知はそれ自体では断片にすぎないが、精神が自己を展開していく全体の運動のなかに位置づけられることで意味を得る。大学とは、この全体としての知の統一が実現される場である。
リオタールの診断は、これら二つの物語がいずれも信を失ったというものだ。解放の物語は、二十世紀の全体主義と戦争によって、そして解放を掲げた革命が新たな抑圧を生んだという経験によって傷ついた。思弁的な物語は、諸科学の専門分化が進み、それぞれが固有の言語と手続きを持つようになったことで、統合不可能なものとなった。物理学者と社会学者と文学研究者は、もはや同じ「知」を分有していない。残されたのは正統化の空白である。「メタ物語のあとに、正統性はどこにありうるのか」——これが本書の問いである。
大きな物語への不信と小さな物語の複数性
「大きな物語」あるいは「メタ物語(métarécit)」とは、個々の知識や実践に意味と正当性を与える、より上位の包括的な語りを指す。人類の解放、精神の弁証法的自己実現、労働者階級による疎外の克服、市場を通じた富の増大——これらはいずれも、歴史全体に方向と目的を与え、そのなかに個々の営みを位置づけることで正当化する物語である。
ここで注意すべきは、リオタールが問題にしているのが物語一般ではないという点である。彼はむしろ物語的な知(savoir narratif)を高く評価する。伝統的な共同体において、物語は語られることそれ自体によって正当化される。誰かがそれを語り、聞き手がやがて語り手になるという語りの実践が、そのまま物語の権威を構成しているのであって、外部の証明を必要としない。問題は、近代がこの自足性を捨て、物語をもって科学を正当化しようとしたことにある。近代の大きな物語は、物語でありながら物語であることを認めず、普遍的な真理として自らを提示した。科学的言説(真偽が問われる記述文)を物語的言説(そのようなことが問われない語り)によって基礎づけようとする以上、この正統化は最初から異種混交的なのである。
「不信(incrédulité)」という語の選択も重要である。リオタールは、大きな物語が論駁されたとも、誤りであることが証明されたとも言っていない。人々がそれを信じなくなった、という事態を述べているにすぎない。そして彼はこの事態を単純に嘆いてもいなければ、単純に祝福してもいない。大きな物語の消滅は、全体化する暴力からの解放であると同時に、社会の絆を保証していたものの喪失でもある。
大きな物語が退場したあとに残るものを、リオタールは「小さな物語(petit récit)」と呼ぶ。局所的で、限定された範囲でしか通用せず、いつでも解体されうる語り。彼はこれを、想像的な発明が取る最良の形式だと述べている。小さな物語には、自らを絶対化する装置がない。だからこそ、それは他の物語と共存でき、また新しいものに取って代わられることもできる。
この複数性を思考するためにリオタールが借用したのが、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念である。ウィトゲンシュタインは言語の意味を単一の本質に還元することを拒み、命令する、記述する、報告する、祈るといった多様な使用の形式を提示した。リオタールはこれを社会理論に転用する。社会とは共通の一つの言語を持つ全体ではなく、規則を異にする複数の言語ゲームが交錯する場である。彼が強調するのは、それぞれのゲームが固有の規則を持ち、その規則が他のゲームには適用できないという点だ。記述文(「水は百度で沸騰する」)は真偽によって評価される。指令文(「ドアを閉めよ」)は真でも偽でもなく、正当か不当かで評価される。ここから重要な帰結が出る。記述文からは指令文が導けない。ヒューム的な問題が、言語ゲームの異種性という形で再定式化されているわけである。
ではこの複数性のなかで、知はどのように正統化されうるのか。リオタールが提示するのは「パラロジー(paralogie)」による正統化である。パラロジーとは、既存の規則の枠内で正しい推論を積み重ねることではなく、規則そのものを揺さぶり、予期されなかった一手を打ち、新しいゲームを発明することを指す。彼はこれを科学自身の現代的なあり方のうちに読み取ろうとした。ゲーデルの不完全性定理、カタストロフ理論、フラクタル幾何学、不完全情報下のゲーム——現代の科学は安定した体系の構築ではなく、決定不可能なもの、不安定なもの、パラドクスを産出する営みになっている、というのである。科学の正統性は合意ではなく、合意を破る能力のうちにある。もっともこの科学理解については、当該の数学・自然科学の内容に照らして粗雑だという批判が科学論の側から寄せられ、本書の最も脆弱な部分と見なされてきた。
パフォーマティヴィティ(遂行性)による正統化の危険
大きな物語が退いた空白を、実際に埋めつつあるものは何か。リオタールの答えは明快であり、そして今日読むと不気味なほど正確である。それは「パフォーマティヴィティ(performativité)」、すなわち効率性による正統化である。
パフォーマティヴィティとは、投入に対する産出の比率を最良にすること、システムの性能を最適化することを指す。この基準のもとでは、ある知識が正当化されるのは、それが真であるからでも解放に寄与するからでもなく、システムの性能を高めるからである。研究費は成果の見込みによって配分され、成果は測定可能な指標によって評価され、測定できないものは存在しないものと見なされる。「それは真か」という問いは、「それは何の役に立つか」「それは売れるか」「それは効率的か」という問いに置き換えられる。
リオタールはここで、知識の身分が根本的に変わったと述べる。かつて知識は、それを身につけた人間の陶冶(ビルドゥング)と不可分であった。知ることは人格の形成であり、知識は知る主体に内在していた。だが情報化が進むにつれ、知識は主体から切り離され、外在化され、譲渡可能な商品となる。彼の有名な一文——知識は売られるために生産されるし、これからも生産されるだろう——は、まさにこの事態を指している。そしてコンピュータの言語に翻訳可能な知識だけが流通し、翻訳不可能なものは捨てられていく。
さらにリオタールは、この効率性による正統化が権力と直結することを指摘する。性能を上げるには資金が要り、資金を持つ者は性能を買うことができ、性能は真理を認定する権力をもたらす。真理と正義と豊かさとが、パフォーマティヴィティという一点に収斂する。これは新しい種類の全体主義である。大きな物語のような公然たるイデオロギーの形をとらず、誰も反対しにくい「効率」の名において、あらゆる言語ゲームを一つの基準に従わせるからだ。彼が「テロル」と呼ぶのは、この過程における排除である。あるプレイヤーがゲームから追い出されるのは、その主張が反駁されたからではなく、ゲームに参加する能力を失うからだ。効率に貢献しないものは論駁されるのではなく、単に相手にされなくなる。1979年の報告書が描いたこの見取り図は、その後の四十年余りの高等教育と知的労働の変貌をほとんど予告している。
『文の抗争』(1983)——抗争(ディフェラン)とは何か
リオタールは『ポストモダンの条件』を委嘱された報告書と位置づけ、自身の本格的な哲学書としては『文の抗争』(Le Différend)を挙げた。二百六十を超える番号を振られた断章と、プロタゴラス、アリストテレス、ヘーゲル、カント、レヴィナスらについての「覚え書き」から構成されるこの書物は、読みやすい本ではない。しかし、彼の思想の中核はここにある。
まず用語が変わっている。『ポストモダンの条件』の「言語ゲーム」は、ここでは「文(phrase)」「文の体制(régimes de phrases)」「言説のジャンル(genres de discours)」という語彙に置き換えられた。理由がある。「ゲーム」という語は、規則を選び手を打つプレイヤー——すなわち主体——の存在を含意してしまう。リオタールが考えたいのは、主体に先立って文がある、という事態である。文は起こる。この出来事性こそが一次的であり、送り手も受け手も指示対象も意味も、文が構成する宇宙のなかの一項として、文とともに立ち上がる。
ここから彼の最も基本的なテーゼが導かれる。文を否定することはできない。「文はない」と言うこと自体が一つの文である。沈黙もまた文である。そして一つの文が起こったあとには、必ず次の文が続く。「連結せねばならない(il faut enchaîner)」。連結しないという選択も、それ自体が一つの連結である。しかし、どのように連結するかは決まっていない。ある文のあとにどの文を続けるかをめぐって、複数の言説のジャンルが競合する。対話のジャンル、教育のジャンル、経済のジャンル、司法のジャンル——それぞれが異なる目的を持ち、異なる連結を要求する。
そして「抗争(différend)」の定義が与えられる。抗争とは、少なくとも二つの当事者のあいだの紛争であって、両者の論拠に等しく適用できる裁きの規則が存在しないために、公正に解決することができないものである。裁きの規則が一方の当事者の言語に属している場合、その規則を適用して下される判決は、たとえ手続き上は完璧であっても、他方にとっては不正義である。しかもその不正義は、当の裁きの言語のなかでは不正義として現れることができない。哲学の使命はここから出てくる。抗争を既存の枠組みに翻訳して片づけてしまわないこと。そして、抗争を証言するための新しい言い回し(idiome)を探すこと。文学も、哲学も、そしておそらくは政治も、賭けられているのはこれである。
裁ける係争と裁けない抗争——証言の不可能性
抗争を理解するために、リオタールはそれを「係争(litige)」と対比させる。係争とは、両当事者に共通に適用できる裁きの規則が存在する紛争である。契約をめぐる争いは、契約法という共通の規則のもとで裁くことができる。原告と被告は同じ言語で語り、同じ基準に訴え、裁判所が判定を下す。負けた側は不満を抱くかもしれないが、裁きの正当性そのものは共有されている。損害(dommage)は法的に認定され、賠償されうる。
抗争においては、この構造が成り立たない。原告の被った害は、それを訴えるための手段の剥奪をともなっている。リオタールはこの場合の害を「不当(tort)」と呼び、法的に処理可能な「損害」から区別する。そして、不当を被り、かつそれを立証する手段を奪われた者を「犠牲者(victime)」と定義する。犠牲者とは、単に害を受けた人ではない。害を受けたと語る資格そのものを奪われた人である。
この構造を最も鋭い形で示す例として、リオタールは『文の抗争』の冒頭でホロコースト否定論の論法を取り上げる。ロベール・フォリソンは、ガス室の存在を認める条件として、それが人を殺すのを実際に自分の目で見た証人を要求した。しかしガス室の内部でそれを見た者は、そのことによって死んでいる。生き残った証人は内部を見ておらず、内部を見た者は証言できない。したがって、この証明の要求は原理上決して満たされえない。証拠がないという結論は、証拠の定義そのものによってあらかじめ用意されている。
リオタールがこの議論を引くのは、もちろん否定論に与するためではない。まったく逆に、絶対的な不正義がいかにして「証明の不在」として現れうるのかを示すためである。彼はアウシュヴィッツを地震に喩える。それは家屋や人命を破壊するだけでなく、地震の大きさを測定する装置そのものをも破壊してしまうような地震である。だからこそ、それを計測する語彙は既存の言語のうちには見出されず、新しい言い回しが探されねばならない。証言できないという事態そのものを、いかにして証言するか。
同時にリオタールは、アウシュヴィッツをヘーゲル的な思弁的物語に対する反証として位置づける。すべての否定性は最終的により高次の統合へと止揚され、歴史は結果において意味を回復する——この構図が成り立つためには、絶滅を「結果」のうちに数え入れることができなければならない。だが絶滅は、それを語り継ぐべき「我々」そのものの抹消を狙ったものであった。ここには弁証法が回収しえない残余がある。大きな物語への不信は、この経験と切り離せない。なおこの主題は1988年の『ハイデガーと「ユダヤ人たち」』でも追求された。リオタールはそこで、括弧つき小文字で表記される「ユダヤ人たち」を、西洋の思考が構造的に忘却してきたもの——忘れたことすら忘れてしまうもの——の名として用い、ハイデガーの戦後の沈黙をその忘却の徴候として読んでいる。
崇高の美学——カント再読と前衛芸術
大きな物語も普遍的な基準も使えないとすれば、判断はいかにして可能か。リオタールが手がかりを求めたのは、カントの『判断力批判』、とりわけ「崇高の分析論」である。彼は1991年に『崇高の分析論についての講義』を刊行しており、後期の仕事の中心はここにあると言ってよい。
カントによれば、美しいものの経験においては、構想力(想像力)と悟性とが自由に調和し、快が生じる。これに対し崇高の経験は、調和の破綻から生じる。荒れ狂う大海、測り知れない山塊、無限の広がりを前にしたとき、構想力はそれを一つの直観のうちにまとめて提示することができない。にもかかわらず理性は、絶対的な全体性という理念を要求する。提示せよという要求と、提示しえないという無能力。この葛藤から生じるのは、快と不快が入り混じった独特の感情である。崇高とは、提示しえないものが存在するということを、提示の失敗を通じて感じ取る経験なのだ。
リオタールはここに、抗争の美学的な対応物を見出す。崇高において、私たちは表象の体系の内部に収まらないものと出会う。そして重要なのは、この出会いが規定的判断——普遍的規則のもとに個別を包摂する判断——ではなく、反省的判断——規則なしに個別から出発し、規則を探し求める判断——において成立するという点である。規則が与えられていないまま判断する。これこそ、大きな物語のあとに残された唯一の判断のあり方である。
この崇高論を、リオタールは二十世紀の前衛芸術の読解に接続する。抽象絵画、とりわけバーネット・ニューマンの作品について彼が繰り返し論じたのは、絵画がもはや何かを表象するのではなく、「何かが起こっている」という出来事そのものを提示しようとしている、ということであった。ニューマンの巨大な色面と垂直の線は、何を描いているのでもない。それが提示するのは、「それは起こっているか(Arrive-t-il ?)」という問いであり、何かが到来しつつあるという剥き出しの事実である。前衛芸術の課題は、提示しえないものがあるということを提示することにある。
ここからリオタールは、「ポストモダン」の定義を美学的に洗練させる。1982年の論考「ポストモダンとは何か」において、彼はポストモダンをモダンのあとに来る時代区分としてではなく、モダンの内部にある一つの契機として捉え直す。モダンな芸術は、提示しえないものを、失われた全体への郷愁という慰めとともに提示する。それに対しポストモダンな芸術は、提示そのもののうちに提示しえないものを差し出し、慰めを与えることを拒む。したがってポストモダンはモダンに先行するのであって、作品はまずポストモダンであることによってはじめてモダンになりうる。この論考は次の言葉で結ばれている——全体性に対して戦争を仕掛けよう、提示しえぬものの証人となろう、抗争を活性化し、名の名誉を救おう。
『言説、形象』と『リビドー経済』——欲望の哲学の時期
『ポストモダンの条件』以前のリオタールは、まったく異なる語彙で書いていた。1971年の国家博士論文『言説、形象』は、当時フランスを席巻していた構造主義への批判である。構造主義は、意味を差異の体系としての言語構造に還元しようとした。ソシュールの記号論を範型として、あらゆる文化現象がテクストとして、すなわち読解されるべき構造として扱われる。
リオタールはこれに対し、「形象(figure)」の次元を対置する。形象とは、見ることに属し、厚みと深さを持ち、言説の透明な秩序に還元されないものである。メルロ=ポンティの現象学とフロイトの夢理論を援用しながら、彼は、意味には言説的に分節される層と、それを内側から歪め、脱臼させる層とがあると主張する。夢は言語のように構造化されているだけでなく、夢の仕事(凝縮、置換、造形的な形象化)によって言説を変形する力でもある。芸術における線や色彩の働きも、この形象的なものに属する。構造では捉えきれない出来事性への注目という点で、この初期の仕事はすでに後年の崇高論を準備している。
続く時期には、フロイトとニーチェを結び合わせた欲望の哲学が展開された。『マルクスとフロイトからの漂流』(1973)を経て、1974年の『リビドー経済』は最も激越な著作である。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972)と同じ気圏にありながら、リオタールはさらに徹底した立場を取る。彼が標的にしたのは、批判という身振りそのものであった。資本主義を批判する理論は、批判する主体を特権的な外部に置く。しかしそのような外部は存在しない。批判理論は、自分が告発しているシステムのエネルギーで動いているのである。
そこでリオタールは、批判に代えて強度の肯定を掲げた。彼が描くのは、閉じた身体でも構造でもなく、表と裏の区別なく捻れて連続する一枚の「巨大な儚い皮膜」であり、そこを流れるリビドー的な強度である。この本には、労働者の苦痛すらも一種の享楽として語る挑発的な箇所があり、刊行当時から強い反発を招いた。リオタール自身、後年これを「私の邪悪な書物」と呼び、距離を取っている。
とはいえ、この時期を単なる逸脱と見るのは正確ではない。批判の特権的な立場を疑うこと、体系に回収されない強度や出来事に注目すること、そして正義を理論的な基礎づけからではなく個別の状況における判断から考えること——これらは形を変えて後年の仕事に受け継がれた。1977年の『異教的教示』や、1979年にジャン=ルー・テボーとの対話として刊行された『正義について』は、大きな物語なき正義をどう考えるかという移行期の思考を示している。そこで語られるのは「基準なき判断」であり、あらかじめ与えられた規則に従うのではなく、その都度の状況において判断を下し、その責任を引き受けるという実践である。
ハーバーマスとの論争、そして相対主義批判への応答
リオタールの立場が最も鮮明になるのは、ユルゲン・ハーバーマスとの対決においてである。ハーバーマスは1980年のアドルノ賞受賞講演「近代——未完のプロジェクト」において、近代の啓蒙的理性を放棄すべきではないと主張し、フランスのポスト構造主義的思潮を「若き保守主義者」と呼んで批判した。理性の病理は理性そのものによって、すなわちコミュニケーション的合理性の再構成によって治療されるべきである、というのが彼の処方であった。
ハーバーマスにとって、言語には目的論が内在している。私たちが誰かに何かを主張するとき、私たちは暗黙のうちに、その主張が理由によって支持され、対等な条件下での討議において承認されうることを要求している。この妥当要求の構造を掘り起こせば、支配なきコミュニケーションという規範的理想が取り出せる。合意(コンセンサス)は討議の目標であり、正統化の源泉である。
リオタールの応答は根本的な拒絶であった。彼にとって合意は「時代遅れで疑わしい価値」である。理由は二つある。第一に、討議によって普遍的合意に到達しうるという想定は、すべての言説のジャンルを一つのメタ言語に翻訳できるという前提に立っている。だが言説のジャンルは異種的であり、翻訳の失敗こそが抗争を生む。合意を目標に据えることは、翻訳不能なものを不可視にすることである。第二に、リオタールは合意への志向がパフォーマティヴィティによる正統化と共犯しうると考える。システムはつねに、摩擦のない同意を欲しているからだ。
ではリオタールは、正義について何も言えないのか。ここに「相対主義」という最も頻繁な批判が向けられる。すべてが局所的な言語ゲームに相対的なら、ナチズムを批判する根拠もなくなるのではないか。加えて、いわゆる遂行的矛盾の指摘がある。「大きな物語は終わった」という主張自体が、歴史全体についての一つの大きな物語ではないのか。この批判はハーバーマスのみならず、フレドリック・ジェイムソン、テリー・イーグルトン、アレックス・カリニコスら多くの論者から提起された。
リオタールの応答は、大きく三点にまとめられる。第一に、抗争の哲学は「どの立場も等しく正しい」という主張ではない。むしろ逆に、公正でない裁きが公正なものとして通用しているという事態を名指すための概念である。相対主義であればそもそも「不当」を語ることができない。第二に、正義は普遍的規則の適用ではなく、規則なき反省的判断において求められる。この判断は恣意ではない。何が抗争であり、誰が沈黙を強いられているかを見分ける繊細さを要求するからである。第三に、彼が拒否するのはすべての普遍性ではなく、認識を基礎づけ全体を統合するタイプのメタ物語である。カント的な意味での「理念」——決して実現されず、決して直観に対応物を持たないが、判断を方向づける規制的な観念——は残る。リオタールにとって、抗争を証言せよという要請は、この規制的理念に近い位置にある。それはレヴィナス的な、他者からの召喚に応じる義務の形式でもあった。この論争はリチャード・ローティによっても取り上げられたが、決着はついていない。むしろ、普遍主義的な正義論と差異への感受性のあいだの緊張として、今日まで政治哲学の主要な対立軸であり続けている。
現代への影響——芸術・教育論、そしてAI時代の知識論
リオタールの影響は哲学の外部に広く及んだ。まず芸術と建築である。「ポストモダン」という語は建築批評から哲学に入り、哲学を経由して再び芸術一般へ還流した。単一の様式の支配の終わり、引用と折衷の肯定、大文字の進歩史観の放棄——こうした主題は、リオタールが与えた理論的な語彙によって整理されることになる。ただしリオタール自身は、様式としての折衷主義には冷ややかであり、それを消費社会における「なんでもあり」の別名として批判した。彼が擁護したのは、あくまで提示しえないものに向かう前衛の厳しさのほうである。「非物質的なもの」展の企画者としての仕事や、デュシャン、ニューマン、ダニエル・ビュラン、荒川修作といった作家についての多数の論考は、彼が理論家であるだけでなく実践的な批評家でもあったことを示している。
教育論への影響も大きい。『ポストモダンの条件』の後半で、リオタールは高等教育の変質を予測した。大学の目的が「真理の探究」や「人格の陶冶」から、システムの性能に必要な技能の供給へと移行するという診断である。教師は知識の伝達者から、データバンクへのアクセス方法を教える者へと変わり、教育は測定可能な成果によって評価される。今日の大学における評価指標の氾濫、外部資金への依存、人文学の縮小といった現象を論じるとき、この四十年以上前の報告書はいまだに最も鋭い参照点の一つであり続けている。
そして今日、最も切実な文脈は人工知能である。リオタールは1979年の時点で、知識が主体から切り離されて外在化し、コンピュータ言語に翻訳可能なものだけが流通し、翻訳不可能なものは捨てられていくと書いていた。彼が「明日の百科事典」と呼んだデータバンクは、いまや検索とモデルの形で日常のインフラとなっている。知識が「誰かが知っていること」ではなく「利用可能な情報」として再定義されること、知の正しさが真理ではなく有用性と効率によって測られること——リオタールの診断は、生成モデルが知的生産の一部を代行する現在において、むしろ精度を増している。
1988年の『非人間的なもの』で彼が提起した問いは、さらに直接的である。リオタールはそこで二種類の「非人間的なもの」を区別する。一つは、システムの発展そのものが持つ非人間性であり、人間を性能向上の一要素として扱う運動である。もう一つは、人間の内部にありながら人間の統御に服さないもの——彼が「幼年期(enfance)」と呼ぶ、まだ言葉を持たず、規定されず、脆いままにとどまる次元である。前者に抵抗しうるのは後者だけだ、というのが彼の賭けであった。「身体なしに思考は続きうるか」という同書の問いは、思考を情報処理に還元しようとするあらゆる企てに対する試金石として、いまなお有効である。
結論
リオタールの思想を一本の線でたどるなら、それは「まとめあげようとする力への抵抗」の哲学である。アルジェリアで彼が見たのは、普遍的理念が現地の現実を覆い隠す様子であった。「社会主義か野蛮か」で彼が離れたのは、歴史全体の意味を保証する物語であった。『ポストモダンの条件』で彼が診断したのは、正統化の空白を効率という単一の基準が埋めていく過程であった。『文の抗争』で彼が概念化したのは、共通の裁きの言語が存在しないために不正義が不正義として現れえない構造であった。そして崇高の美学で彼が求めたのは、提示の体系に収まらないものを、その収まらなさにおいて感じ取る経験であった。
これらはすべて同じ一つの関心の変奏である。すなわち、異質なものを単一の尺度に還元してはならない、という要請。この要請は、しばしば誤解されてきたように、判断の放棄を意味しない。むしろ逆に、あらかじめ用意された規則に寄りかからずに、その都度判断を下すという困難な課題を引き受けることを意味する。基準なしに判断すること。これがリオタールの残した最も重い宿題である。
彼の議論のすべてが説得的なわけではない。科学についての記述は不正確であり、大きな物語の終焉というテーゼ自体が一つの物語ではないかという批判にも完全には答えきれていない。ナショナリズムや宗教的原理主義といった新たな「大きな物語」の再興を、彼の枠組みがうまく捉えられるかどうかも議論の余地がある。しかし、彼が立てた問いは生き延びている。共通の基準がない者たちのあいだで、いかにして不正義を語りうるのか。効率が唯一の正統化原理となった社会で、それでは測れないものをどう擁護するのか。言葉を持たない者の言い分を、いかにして聞き取るのか。四十年余りを経て、これらの問いはいっそう差し迫ったものになっている。
より広い思潮のなかでの位置づけについてはポストモダニズムの哲学を、リオタールが批判的に継承した先行世代の枠組みについては構造主義とポスト構造主義を、そして最大の論敵の思想についてはハーバーマスを参照されたい。