朱熹——理気二元論と居敬窮理の哲学

はじめに——東アジア八百年の知の枠組みを作った人

朱熹(1130-1200)は、東アジアの思想史においてもっとも広い影響を及ぼした哲学者である。尊称して朱子と呼ばれ、その学は朱子学、あるいは程頤との系譜を含めて程朱学、当時の呼び名では道学ないし理学と称される。元代の1313年に科挙の再開が詔せられ、朱熹の『四書章句集注』が試験の標準テキストと定められて以降、1905年に科挙が廃止されるまでの約六百年間、中国の知識人は朱熹の注釈を通じて古典を読んだ。朝鮮王朝はこれを国是とし、日本の江戸幕府もまた官学の中心に据えた。ひとりの思想家の解釈体系が、これほど長く広い範囲にわたって「読み方」そのものを規定した例は、世界の思想史を見渡しても稀である。

だが朱熹を単なる正統教学の樹立者として見るのは誤りである。彼が生きた南宋は、華北を女真の金に奪われ、儒教的世界秩序が現実に崩壊した時代であった。同時に、数百年にわたって思弁の深さで儒教を圧倒してきた仏教——とりわけ禅——に対して、儒教はいまだ十分な形而上学を持たなかった。朱熹の課題は、日常の道徳的実践を宇宙の構造そのものに根拠づけることであった。なぜ人は親に孝であるべきなのか。それは慣習だからでも天が命じたからでもなく、世界を成り立たせている「理」がそこに現れているからである——この一点を論証するために、彼は理と気、太極と陰陽、性と情、心と知という概念の全体系を組み上げた。

本稿では、朱熹の生涯をたどったうえで、北宋五子からの継承、理気二元論の構造、太極と理一分殊、性即理の人間論、心の構造論、格物致知と居敬窮理という方法論、四書の確立、陸九淵との論争、東アジアへの展開と批判を順に検討する。教科書的な「保守思想」の像ではなく、ひとつの巨大な哲学的建築としての朱子学を描くことが本稿の課題である。

生涯——南宋の官僚学者と偽学の禁

朱熹は建炎4年(1130)、福建路南剣州尤渓県に生まれた。字は元晦、のち仲晦。号は晦庵・晦翁を用いる。父の朱松は金との和議に反対して秦檜に疎まれ官途を退いた人物で、朱熹が14歳のときに没した。以後、朱熹は父の遺言に従って父の友人であった学者たちのもとで学ぶ。

紹興18年(1148)、19歳(数え)で進士に及第する。当時としては異例の若さだが、官歴は華々しいものではなかった。紹興23年(1153)に泉州同安県の主簿として初めて赴任するものの、実際に在職した期間は生涯を通じて十年に満たない。多くの時期、彼は道教寺院の管理を名目に俸給のみを受ける祠禄官の地位を願い出て、講学と著述に専念した。学問を職業として選び取った、中国史上でも際立って自覚的な学者であった。

思想形成において決定的だったのは、李侗との出会いである。同安赴任の途上に李侗を訪ね、紹興30年(1160)に正式に師事した。李侗は程頤の学統——楊時から羅従彦を経て伝わる系譜——に連なる人物であり、それまで禅や道教に強く惹かれていた朱熹は、この師のもとで儒学へ回帰する。乾道2年(1166)と乾道5年(1169)には、心の未発・已発をめぐる見解を二度にわたって根本から改める転回を経験した(中和旧説・中和新説)。この探究が、後述する心の構造論の骨格となる。

淳熙6年(1179)から南康軍の知事となり、廃墟となっていた白鹿洞書院を再興して学規を定めた。これは以後の東アジアの教育機関の範型となる。紹熙元年(1190)には漳州知事の任地で『四書章句集注』を刊行し、紹熙5年(1194)には潭州で岳麓書院を再興したのち、即位した寧宗の侍講として初めて中央に召された。だが皇帝に道学の理念を説くその姿勢は、実権を握る外戚の韓侂冑と衝突し、わずか四十数日で罷免される。

さらに慶元2年(1196)、韓侂冑一派は朱熹の学を「偽学」と断じ、これを奉じる官僚を弾圧した。慶元の党禁である。朱熹自身も官職を剥奪され、翌年には「偽学逆党」の名簿に登録された。慶元6年(1200)3月、朱熹は禁令の下にあるまま71歳で没する。当局の警戒にもかかわらず、葬儀には各地から数千人の門人が集まったという。名誉が回復されるのは死後のことで、嘉泰2年(1202)に党禁が解かれ、嘉定2年(1209)に「文」の諡を受け、淳祐元年(1241)ついに孔子廟に従祀された。生前に異端として迫害された思想が、半世紀を経ずして国家の正統となったのである。門人との対話は『朱子語類』140巻に、書簡と論説は『朱文公文集』100巻に収められ、その分量は前近代の思想家として例外的な規模に達する。

北宋五子の継承——道学の系譜

朱熹の独創性は、無からの創造にではなく、先行する諸思想の統合の仕方にある。彼は北宋の周敦頤・邵雍・張載・程顥・程頤——後に北宋五子と呼ばれる人々——の断片的な思索を、ひとつの整合的な体系へと編み上げた。

周敦頤(1017-1073)からは『太極図説』と『通書』を受け取った。「無極にして太極」の一句から陰陽・五行・万物の生成を語るこの短い文章に、朱熹は詳細な注(『太極図説解』)を付し、自らの宇宙論の基礎に据えた。張載(1020-1077)からは、宇宙を気の凝集と拡散として捉える気の哲学と、「天地の性」と「気質の性」という人間論の枢要な区別、そして「心は性情を統ぶ」という命題を受け継いだ。天地を父母とし万民を同胞とする世界観を説く張載の『西銘』を、朱熹は道学の根本文献として重んじている。

しかし最も深く継承されたのは、程顥(1032-1085)・程頤(1033-1107)の二程、とりわけ弟の程頤である。程顥は「天理」の二字を自らの体得によって取り出したと語り、程頤は「性は即ち理なり」と定式化し、「涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り」という修養の二本柱を示した。朱熹の体系は、この程頤の諸命題を精密化したものと言ってよい。邵雍(1011-1077)の象数学は、一定の評価を受けつつも体系の中心には置かれなかった。

淳熙2年(1175)、朱熹は友人の呂祖謙とともに、周敦頤・張載・二程の言葉を主題別に編集した『近思録』を編纂した。「近思」とは『論語』の「切に問いて近く思う」に由来し、身近なところから思索を始めよという意である。この書は道学入門書として東アジア全域で読まれ、朱熹自身の思想の見取り図としても機能した。さらに彼は『中庸章句』の序において、堯・舜から孔子・孟子へ伝えられた「道統」が孟子以後に断絶し、周敦頤と二程によって再び継がれたと述べる。仏教の法統に対抗する儒教の正統系譜を構築し、そこに暗黙のうちに自らを位置づけたのである。

理と気——理気二元論の構造

朱熹の哲学の中核は、あらゆる存在を「理」と「気」の二契機から説明する枠組みにある。黄道夫に答えた書簡において彼は、天地の間には理があり気がある、理とは形而上の道であって物を生ずる本であり、気とは形而下の器であって物を生ずる具である、と述べている。

理とは、事物がそうである根拠(所以然の故)であると同時に、そうあるべき規範(所当然の則)である。ここに朱熹の思想の要諦がある。西洋近代の思考では自然法則と道徳規範は峻別されるが、朱熹においてこの二つは同じ「理」の二側面にすぎない。火が熱いのも、子が親を愛するのも、ともに理の現れである。事実と価値がひとつの原理に統合されているからこそ、道徳は主観的な取り決めではなく、宇宙の構造そのものに根ざしたものとなる。

気とは、この理が具体化するための質料であり、エネルギーであり、運動でもある。陰陽の二気と五行として展開し、凝集して物体をなし、拡散して消滅する。気には清濁・厚薄といった差異があり、この差異が万物の多様性と、個々の人間の資質の違いを生む。

両者の関係を朱熹は「不離不雑」と表現する。理と気は現実にはけっして分離して存在せず(不離)、しかし概念としては混同されない(不雑)。理は気なしには宿る場所を持たず、気は理なしには秩序を持たない。しばしば「二元論」と呼ばれるが、二つの実体が並立するデカルト的二元論とは異なる。『朱子語類』において朱熹は、理には情意も計度も造作もなく、ただ清らかで広やかな世界であるにすぎない、と語っている。実際に凝集し造作するのは気の側であり、理はその内在的な条理にほかならない。

やや厄介なのが「理先気後」の問題である。朱熹は、天地がまだ存在しない以前にも畢竟この理があった、と述べる。しかし同時に、理と気に時間的な前後を論じることはできない、とも言う。この一見した矛盾は、彼が語っているのが時間的先行ではなく論理的先行であると理解すれば解ける。ある事物が成立する以前から、それが成立するための条理は成立の根拠として想定されねばならない——そういう意味での「先」である。とはいえ、運動も意志も持たない理がいかにして気を生ずるのかという問いは、朱熹の体系に残された最大の難問であり、後の朝鮮儒学における理気論争は、まさにこの一点をめぐって展開することになる。

太極と理一分殊

理は個々の事物にそれぞれ宿る。では理は無数に存在するのか、それとも一つなのか。この問いに答えるのが「太極」と「理一分殊」の議論である。

朱熹によれば、天地万物の理を総合したものが太極である。太極は理の総体であり、同時にそれぞれの事物に宿る理でもある。彼は「人ごとに一太極あり、物ごとに一太極あり」と言う。直観に反するのは、個々の事物が太極の断片を分け持つのではなく、全体をまるごと具えているとされる点である。これを説明するのが有名な「月印万川」の比喩である。月は天にただ一つあるだけだが、その光が江や湖に散らばって映るとき、いたるところに月が見える。しかしそれをもって月が分割されたとは言えない——理と個物の関係もこれと同じだというのである。

「理一分殊」という定式そのものは、程頤が張載の『西銘』を弁護した際に生まれた。楊時が、万民を同胞とする『西銘』は墨子の兼愛に近いのではないかと疑ったのに対し、程頤は、理は一つだが分(それぞれの立場と関係)は異なるのだ、と答えた。親への愛と他人への愛はともに同じ仁の理の現れであるが、現れる関係が違うがゆえに厚薄の別が生じる。ここでは形而上学が、同時に儒教倫理の差等愛を根拠づける装置として働いている。

なお周敦頤の「無極にして太極」の句をめぐっては、その語が道家に由来すると批判する陸九淵との間に論争が生じた。朱熹は、太極が形も場所も持たない原理であることを示すために「無極」の語が要ると反論する。理とは、感覚的に把捉できるいかなる物でもないという否定的規定を経なければ正しく理解されえないものだったのである。

性即理——本然の性と気質の性

理気の枠組みを人間に適用したものが、朱熹の人間論である。その根本命題が程頤に由来する「性は即ち理なり」——性即理である。人間の本性とは、天地の理が個体に賦与されたものにほかならない。孟子の性善説は、ここに至って宇宙論的な基礎を得た。人が善であるのは経験的な観察の結果ではなく、人の性がそのまま理だからである。仁・義・礼・智という四つの徳は、性の内容として本来的に具わっているとされる。

しかし現実の人間は明らかに善ではない。この落差を説明するのが、張載・程頤に由来し朱熹が精緻化した「本然の性」と「気質の性」の区別である。本然の性(天地の性)とは、理のみに即して言われた純粋な善なる本性である。気質の性とは、その理が具体的な気の中に宿った状態、すなわち理と気とを混じえて言われた現実の本性である。気には清濁があり、清明な気を稟けた者は理が透けて現れやすく、濁った気を稟けた者は理が覆い隠される。悪は本性に由来するのではなく、気質による理の遮蔽から生じる。

この二重構造は、朱子学の修養論に決定的な意味を持つ。もし悪が本性そのものであるなら救いはないが、悪が単なる遮蔽であるならば、遮蔽を取り除くことによって本来の善が回復されうる。「変化気質」——気質を変化させること——が修養の目標とされるのはこのためである。朱熹はこの区別を、孟子の性善説と荀子の性悪説をともに包摂しうる枠組みとして高く評価した。

これと結びつくのが「天理」と「人欲」の対比である。朱子学はしばしば「天理を存し人欲を滅す」という標語で禁欲主義的に理解されてきたが、朱熹の言う人欲は欲望一般ではない。『朱子語類』で彼は、飲食することは天理であり、美味を求めることが人欲である、と説明している。生命を維持する自然な欲求は理そのものであり、否定されるのは、理の均衡を破って際限なく肥大する私的な欲——利己性——である。もっともこの区別は実践においてきわめて曖昧であり、後世の批判者たちが集中攻撃を加える点となった。

心統性情——心の構造論

性が理であるとして、では心とは何か。ここで朱熹は張載の「心は性情を統ぶ」という命題を引き受け、自らの心の構造論を立てる。

朱熹において、心は理ではなく気に属する。心は気のうちでもっとも精妙なもの(気の精爽)であり、『大学章句』の言葉を借りれば「虚霊不昧」——空虚で霊妙で曇りのないもの——であって、あらゆる理を具えてあらゆる事に応じる働きを持つ。ここが陸九淵・王陽明の「心即理」との決定的な分岐点である。心は理を宿す器であって理そのものではない。だからこそ心は誤りうるし、だからこそ修養が必要になる。

「心統性情」の「統」には二つの意味が読み込まれる。ひとつは「統べる」、すなわち心が性と情を主宰するという意。もうひとつは「兼ねる」、すなわち心が性と情の両方にわたっているという意である。性は心の本体であり、まだ発動していない状態(未発)に対応する。情は性が事物に触れて発動した状態(已発)である。惻隠・羞悪・辞譲・是非という四端は、仁義礼智という性が発現した情にほかならない。心はこの未発と已発の両局面を貫いて存在する。

この構図は、朱熹が四十歳前後に到達した「中和新説」の成果である。それ以前の彼は、心をもっぱら已発と捉え性のみを未発とする見解(中和旧説)を採っていたが、それでは未発の段階における修養が成り立たない。心が未発・已発の双方にわたるとしたことによって、未発のときには心の本体を涵養し、已発のときには発動した情の当否を吟味する(省察)という、二段構えの修養論が可能になった。理論的な整理が、そのまま実践の方法を規定しているのである。

もうひとつ重要なのが、『中庸章句』序で論じられる「人心」と「道心」の区別である。人心とは身体的な欲求から生じる意識、道心とは理から発する意識である。朱熹は人心を悪とはしない。危ういのは、人心が道心の統御を離れて暴走することである。人心を消し去るのではなく、道心を主とし人心を従わせること——これが修養の実質的な内容となる。

格物致知と居敬窮理——認識と修養の方法

朱子学の方法論は、しばしば「居敬窮理」の四字にまとめられる。これは程頤の「涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り」を承けたもので、修養は内面の姿勢(敬)と外に向かう探究(窮理)の両輪によって進むという主張である。

窮理の具体的な作業が「格物致知」である。これは『大学』の八条目——格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下——の最初の二つにあたる。朱熹は「格」を「至る」、「物」を「事」と解した。すなわち格物とは、事物に即してその理を窮めることである。彼は『大学』の伝にこの部分の解説が失われていると判断し、みずから「格物補伝」を書き加えた。そこでは、天下の物にはことごとく理があり、人の心にはことごとく知があるのだから、既知の理をもとに一つひとつの事物についてその理を窮めてゆけ、と説かれる。そして力を用いること久しくして、ある日ついに豁然として貫通するに至れば、あらゆる事物の表裏精粗が明らかとなり、わが心の全体と大用が明らかにならないところはなくなる、と結ばれる。

この叙述には二つの側面がある。一方には、個別の事物を一つずつ探究してゆく漸進的・累積的な過程がある。他方には、その蓄積がある臨界点で質的転換を起こす「豁然貫通」という飛躍がある。この後者を禅の頓悟に似ていると評する見方は古くからあるが、朱熹自身は、飛躍は日常的な学習の積み重ねなしにはありえないと繰り返し強調した。地道な蓄積を経ない直観への信頼こそ、彼が最も警戒したものである。

一方の「敬」は、この探究を支える心の姿勢である。朱熹は先行する説を集めて敬を多面的に定義する。程頤の「主一無適」——心を一つに集中して他へ散らさないこと、「整斉厳粛」——外面の挙措を整えること、謝良佐の「常惺惺」——心をつねに目覚めさせておくこと。要するに敬とは緊張と覚醒を保った意識の状態であり、これが未発のときの涵養にあたる。朱熹はこれを、外物との交渉の有無を問わず貫かれるべき「一生の工夫」と位置づけた。

窮理の主要な手段は読書である。朱熹は、順序を追って段階を踏むこと(循序漸進)、熟読精思、先入見を空しくして文脈に浸ること(虚心涵泳)、読んだ内容を自分の問題として検証すること(切己体察)といった具体的な読書法を残した。とりわけ切己体察は重要で、朱子学の読書は知識の収集ではなく、テクストを鏡として自己を照らし出す実践であった。

四書の確立と経学の再編

朱熹の思想史的影響を実際に担ったのは、その形而上学以上に、彼が行った古典テクストの再編成であった。

漢代以来、儒教の中心テクストは五経(易・書・詩・礼・春秋)であり、その研究は文字と制度の考証を主とした。これに対し朱熹は、『論語』『孟子』と、『礼記』から独立させた『大学』『中庸』の四篇を「四書」として一組にまとめ、五経に先立って学ぶべき基礎テクストと位置づけた。『大学』『中庸』を重視する傾向は二程にすでにあったが、四つを体系化し、統一的な注釈を与えたのは朱熹である。

その注釈が『四書章句集注』——『大学章句』『中庸章句』『論語集注』『孟子集注』——である。彼はこの書に生涯を捧げた。紹熙元年(1190)の刊行後も改訂を続け、死の直前まで『大学』誠意章の注に筆を入れていたと伝えられる。朱熹は読む順序も定めた。まず『大学』によって学問の規模と全体構造をつかみ、次に『論語』でその根本を立て、『孟子』でその発展を見、最後に『中庸』で先人の微妙な意を求めよ、というのである。四書は単なる書物の集合ではなく、精神の階梯として設計されたカリキュラムであった。

この再編は同時に、大胆なテクスト改変を伴った。朱熹は『大学』の本文の順序を組み替え、経一章・伝十章という構成に整理し、失われたと判断した部分には自作の補伝を書き入れた。古典の権威に対するこの介入は、後に王陽明が改訂前の「古本大学」に立ち返って朱熹を批判する際の主要な争点となる。

朱熹の学問はここに尽きない。『詩集伝』は『詩経』を漢唐の政治的寓意解釈から解放し、『周易本義』は『易』を占筮の書として読み直した。『資治通鑑綱目』は歴史叙述に大義名分の評価軸を導入し、『家礼』は冠婚葬祭の作法を士大夫の家庭で実行可能な形に整理して、東アジアの家族儀礼に長く影響を及ぼす。哲学者であると同時に、彼は稀有な編集者であった。

陸九淵との鵝湖の会——朱陸論争

朱熹の思想は、同時代の批判者との対決を通じて輪郭を得た。最も重要な論敵が陸九淵(象山、1139-1193)である。

淳熙2年(1175)、呂祖謙の斡旋により、信州鉛山の鵝湖寺で朱熹と陸九淵・陸九齢兄弟が会した。鵝湖の会である。争点は学問の方法であった。陸九淵は、まず本心を確立すればよく、経書の読解や事物の理の探究は枝葉であると主張した。この会で陸九淵が詠じた詩の一句、「易簡の工夫終に久大、支離の事業竟に浮沈」——簡易な工夫こそ久しく大きく、こまごまと分岐した営みは結局は浮き沈みするだけだ——は、朱熹の学問を「支離」と評した痛烈な批判として知られる。朱熹の側は逆に、陸九淵の学を「太簡」——あまりに簡略にすぎ、禅に近い——と見た。会談は決着を見ないまま終わった。

両者の隔たりは、心と理の関係の捉え方に由来する。陸九淵にとって「心は即ち理」であり、宇宙はそのまま吾が心、吾が心はそのまま宇宙であった。「六経は皆我が註脚」という有名な言葉が示すように、経書は本心を確認するための補助にすぎない。これに対し朱熹においては、心は気に属し、理は心に具わりつつも心と同一ではない。だからこそ心の外の事物に即して理を窮める作業が不可欠となる。認識論上の差異が、そのまま学問の方法と教育の制度をめぐる差異へと直結していた。

もっとも二人の関係は敵対一色ではなかった。淳熙8年(1181)、南康軍知事であった朱熹は陸九淵を白鹿洞書院に招いて講義を依頼している。陸九淵が『論語』の「君子は義に喩り、小人は利に喩る」の一章を講じたとき、聴衆は深く動かされ、朱熹自身も涙を流したと伝えられ、後にその講義録を石に刻ませた。淳熙15年(1188)以降には「無極にして太極」の解釈をめぐって激しい往復書簡が交わされる。互いを認めながら妥協しないこの応酬は、東アジア思想史における最も水準の高い哲学的論争のひとつである。

朱熹はまた、歴史における「覇道」の功績を評価する陳亮とも論争しており(王覇義利論争)、そこでは彼の体系がもつ厳格な理想主義が鮮明になる。他方、陸九淵の系譜は後に王陽明によって「陸王心学」として大成され、以後の中国思想は程朱と陸王という二つの極の間で展開することになる。

東アジアへの展開と批判者たち

朱熹の死後、その学は驚くべき速度で正統の地位を獲得する。元代に四書と朱注が科挙の基準とされて以降、朱子学は官僚制度と一体化し、明・清もこれを継承した。

朝鮮では、高麗末に伝わった朱子学が朝鮮王朝(1392-1897)の建国理念となった。仏教を退け、朱子学的な儀礼と統治を全面的に実装したという点で、朝鮮は中国以上に徹底した朱子学国家であった。その理論的水準も高い。李滉(退渓、1501-1570)は、四端と七情がそれぞれ理と気のいずれから発するかをめぐって奇大升と長期の論争を行い、理そのものに能動性を認める「理気互発説」を唱えた。理は運動しないという朱熹の規定を踏み越えてでも、道徳原理の主体性を確保しようとしたのである。李珥(栗谷、1536-1584)はこれに対し、発するのは気であり理はそれに乗るとする「気発理乗一途説」を主張する。この四端七情論争は、朱熹が残した理と気の関係という難問を東アジア思想史上もっとも精密に掘り下げた作業として評価され、李滉の『聖学十図』などは日本にも伝わって深い影響を与えた。

日本では、五山禅林で読まれていた宋学が近世に入って独立した学問として展開する。藤原惺窩に学んだ林羅山(1583-1657)は徳川家康以下四代の将軍に仕え、林家が幕府の学問を世襲的に担う体制の礎を築いた。その家塾はのちの昌平坂学問所につながる。山崎闇斎(1618-1682)は朱子学の厳格な祖述を旨とし、『易』に由来する「敬義」を修養の中心に据えて崎門学派を形成した。闇斎が李退渓を高く評価したことは、朝鮮を経由した受容の一例として注目される。ただし朱子学が江戸初期から幕府の公式イデオロギーであったという通説は近年修正されており、その優位が制度的に確認されるのは寛政2年(1790)の寛政異学の禁を待たねばならない。

批判もまた活発であった。中国では王陽明(1472-1529)が、庭前の竹の理を窮めようとして果たせなかった経験を語りつつ、外物に理を求める格物説を退け、心即理・知行合一・致良知を掲げた。清代の考証学は朱熹の解釈を文献学的に検証し、戴震(1724-1777)は、酷吏が法をもって人を殺すように後儒は理をもって人を殺す、と述べて、天理・人欲の二分が抑圧の道具と化したことを弾劾した。日本でも、伊藤仁斎(1627-1705)が『語孟字義』において、理とは事物の条理を指す語にすぎず天地はむしろ一つの活きた生成であると論じ、荻生徂徠(1666-1728)は、道とは古代の聖王が制作した礼楽刑政の制度であるとして朱子学の形而上学そのものを解体した。

近代以降、朱子学は「封建的」思想の代名詞として長く否定的に扱われた。丸山真男が『日本政治思想史研究』(1952)において、朱子学的な自然的秩序の思考が徂徠学によって解体される過程に近代的思惟の発生を見た構図は広く知られるが、この図式はその後の渡辺浩らの研究によって再検討されてきた。近年では、朱熹の哲学を主体性と規範の問題を思考した独自の体系として、また自然と道徳を統一的に把握しようとした試みとして読み直す研究が、中国・韓国・日本・欧米で並行して進んでいる。

結論

朱熹の哲学は、三つの層の統合として理解できる。第一に、理と気による存在論。あらゆるものは、そうであるべき条理としての理と、それを実現する質料としての気から成る。第二に、性即理と心統性情による人間論。人間の本性はそのまま宇宙の理であり、心はその理を宿しつつも気に属するがゆえに、覆われもすれば澄みもする。第三に、格物致知と居敬窮理による方法論。理は探究によって明らかにされ、敬によって保たれる。この三層は、事実と価値、宇宙と人間、認識と実践を一つの原理で貫こうとする単一の意志の三つの現れにほかならない。

その体系がもたらしたものは両義的であった。一方でそれは、身分秩序を宇宙的必然として正当化し、多様な思想を異端として排除する装置としても機能した。他方でそれは、人はみな聖人になりうるという普遍的可能性を宇宙論的に基礎づけ、書院という学びの場と、知識人が現実政治を批判しうる根拠を東アジアに供給した。慶元の党禁において迫害されたのが朱熹自身であったという事実は、この思想の潜在的な批判性を証言している。

朱熹が立てた問いは、いまなお開かれている。事実の秩序と価値の秩序は同じ根を持つのか。道徳的な確信は個人の内面から湧くのか、それとも世界の探究を経て獲得されるのか。宇宙論と読書法を同じ体系のうちに配置しながら八百年前の南宋の学者が考え抜いたのは、この問いであった。

朱熹に先立つ思想的土壌については古代中国哲学を、儒教・道教・仏教を含む中国思想の展開のなかでの位置づけについては中国哲学の全体像を、アジアの思想伝統という広い文脈については東洋哲学の全体像を参照されたい。