はじめに——哲学者としての道元
道元(1200-1253)は、日本曹洞宗の開祖であるとともに、日本思想史上もっとも哲学的な思想家と評されてきた人物である。長いあいだ道元は、一宗の祖師として宗門の内部で仰がれる存在であり、その主著『正法眼蔵』も宗学の秘典として扱われてきた。状況を一変させたのは、1920年代に和辻哲郎が発表した「沙門道元」(『日本精神史研究』所収)である。和辻は、宗派の祖師としてではなく「人類の道元」としてそのテクストを読むことを宣言し、道元を日本が生んだ第一級の思想家として哲学の土俵に引き出した。続いて田辺元が『正法眼蔵の哲学私観』(1939)で道元の思索を西洋哲学と正面から突き合わせ、以後、京都学派の哲学者たち、さらに海外の研究者たちによって、道元は「哲学者」として繰り返し読み直されることになる。
実際、『正法眼蔵』が扱う主題——存在と時間、自己と世界、修行と悟り、言語と真理——は、西洋哲学が近代以降に主題化した問題群と驚くほど重なり合う。とりわけ「有時」の巻の時間論は、ハイデガー『存在と時間』との比較を誘い続けてきた。しかし忘れてはならないのは、道元自身は「哲学」を書こうとしたのではないということである。その思索はすべて坐禅という一つの実践から発し、そこへ帰っていく。思索と実践のこの不可分性こそ、道元を読む際の出発点であり、また最大の難所でもある。本稿では、道元の生涯をたどったうえで、本証妙修と只管打坐、修証一等の思想、『正法眼蔵』の世界——現成公案・有時・仏性・道得——を順に検討し、最後に現代哲学との対話の現状を概観する。
生涯——比叡山の疑問から永平寺へ
正治2年(1200)、道元は京都に生まれた。伝統的な伝記によれば、父は内大臣久我通親、母は摂政関白藤原基房の娘伊子とされる(父については通親の子通具とする説もある)。最上流の貴族の家に生まれながら、幼くして父を、8歳で母を失い、世の無常を深く感じたと伝えられる。建暦2年(1212)、比叡山麓に住む叔父の良顕を訪ねて出家の志を告げ、翌建保元年(1213)、天台座主公円について剃髪受戒した。
比叡山で道元は、生涯を決定づける疑問に突き当たる。天台の教学、とりわけ当時の本覚思想によれば、人は本来さとりの本性を具え、生まれながらにして仏にほかならない。もしそうであるなら、なぜ過去・現在・未来の諸仏は、あらためて発心し、艱難の修行をしたのか。すでに仏であるなら修行は不要のはずであり、修行が必要であるなら「本来仏である」という教えは空語ではないか。伝記『建撕記』が伝えるこの疑問への答えを山内に見いだせなかった道元は山を下り、建仁寺に入って明全——栄西の弟子——に師事する。そして貞応2年(1223)、明全とともに宋に渡った。
宋では天童山の無際了派に参じたのち諸山を遍歴するが、真の師に出会えないまま歳月が過ぎた。転機は宝慶元年(1225)、天童山の新たな住持となった長翁如浄との相見である。道元は如浄を生涯ただ一人の「先師」と仰ぎ、その門下で決定的な体験を得た。暁天の坐禅中、居眠りする僧を如浄が「参禅はすべからく身心脱落なるべし」と叱咤するのを聞いて大悟し、「身心脱落」——身も心も脱け落ちること——の印可を受けたと伝えられる。安貞元年(1227)に帰国した道元は建仁寺に戻り、同年、坐禅の意義と作法を万人に説く『普勧坐禅儀』を漢文で著した。持ち帰ったのは経典でも仏像でもなく、正伝の坐禅そのものであった。
寛喜3年(1231)には深草の安養院で最初の和文の書『弁道話』を著し、天福元年(1233)、深草に興聖寺を開いて日本初の本格的な禅の僧堂を構えた。「現成公案」をはじめ『正法眼蔵』諸巻の執筆が本格化するのはこの興聖寺時代である。しかし旧仏教勢力との緊張もあり、寛元元年(1243)、俗弟子波多野義重の勧めによって越前(現在の福井県)に移る。翌年に大仏寺を開創し、寛元4年(1246)これを永平寺と改称した。晩年の道元は、深山での厳格な修行共同体の建設に力を注ぎ、洗面や食事の作法にいたるまで修行として律する清規を整えた。宝治元年(1247)には執権北条時頼の招きで鎌倉に下ったが、約半年で永平寺に帰っている。やがて病を得て、建長5年(1253)、療養のため上洛した京都で示寂した。54歳であった。『正法眼蔵』は未完の大著のまま、懐奘ら弟子たちに託された。
本証妙修——「すでに仏であるのになぜ修行するのか」への答え
比叡山で道元を出立させた疑問——本来仏であるならなぜ修行が必要なのか——に対する答えは、『弁道話』において与えられている。それが後に「本証妙修」と呼ばれる思想である。道元によれば、修行は悟りを獲得するための手段ではない。もし修行が手段であり悟りがその結果であるなら、悟る前の衆生と悟った後の仏とは別のものになり、修行とはまだ仏でない者が仏になるための投資となる。道元はこの図式そのものを拒否する。『弁道話』は言う——「修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり」。修行(修)と悟り(証)を別のものと考えることこそ、仏法の外の見解なのである。
この立場から、冒頭の疑問は問いの立て方ごと転換される。修行は、まだ持っていない悟りを手に入れる営みではなく、本来の悟り(本証)がおのれを現す妙なるはたらき(妙修)である。すでに仏であるからこそ修行するのであり、修行しないならば本来の悟りはどこにも現れない。悟りが先にあって修行が続くのでも、修行が先にあって悟りが後から来るのでもなく、坐禅するその当処において、本証は現に行じられている。かくして「すでに仏であるのになぜ修行するのか」という問いは、「すでに仏であるとは、修行することにおいてしかありえない」という答えへと反転する。本覚思想が修行の不要へと傾きかねなかったところで、道元は本覚の立場を保ちつつ修行の必然を打ち立てたのであり、これは中世日本思想における最も鋭利な理論的達成の一つである。
只管打坐——手段ではない坐禅
本証妙修の思想が具体的な形をとったものが、只管打坐——「ただひたすらに坐る」——である。道元が如浄から受け継いだ禅は、公案の工夫によって悟りの体験を目指す当時の主流の禅(看話禅)とは性格を異にする。如浄は「参禅は身心脱落なり」と説き、焼香も礼拝も念仏も修懺も看経も用いず、只管に打坐することのみを教えた。坐禅は、悟りという目的のための手段ではなく、それ自体が身心脱落であり、それ自体が仏のふるまいである。『普勧坐禅儀』はこれを「いはゆる坐禅は習禅にはあらず、ただこれ安楽の法門なり」と表現する。坐禅は禅定の技術の習得ではなく、仏がすでに仏であることを行じる「安楽の法門」なのである。
坐禅中の意識のあり方について、道元は薬山惟儼の故事を引いて「非思量」を説く。坐禅とは何かを考えることでもなく、考えを無理に消すことでもない。「箇の不思量底を思量する」——思量と不思量の対立以前の地平に坐ることが、非思量である。それは意識の特殊な状態の追求ではなく、身体をととのえ、呼吸をととのえて、ただ坐るという全身の行為そのものである。道元において悟りは意識の内容ではなく、坐るという身のふるまいにおいて現成する。この意味で只管打坐の思想は、心身二元論を前提しない身体の哲学としても読むことができる。目的-手段の連関から解き放たれた行為、それ自身のうちに意味の充溢する行為という只管打坐の構造は、遊びや芸術をめぐる現代の行為論とも響き合う射程を持っている。
修証一等の思想
修証一等の思想は、単に修行と悟りの同一性を主張するにとどまらず、時間と実践をめぐる独自の哲学を含んでいる。『弁道話』は続けて言う——「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」。修行がそのまま悟りの現れであるなら、悟りには終わりがなく、悟りに裏づけられた修行には始まりがない。悟りとは到達して完了する状態ではなく、修行は準備段階として卒業されるものではない。仏道は、始点も終点もない不断の実践としてのみある。道元が晩年にいたるまで「行持」——修行の持続——を強調し、『正法眼蔵』に「行持」の巻を置いて仏祖代々のたゆまぬ行を讃えたのは、この論理の帰結である。道は円環をなして絶えず行じられ続ける。
この思想は、目的論的な時間の否定でもある。修行を手段とみなす立場では、意味は未来の目的から借りてこられ、現在は未来のための通過点に格下げされる。修証一等の立場では、いま坐るこの一坐がそのまま仏道の全体であり、現在は何ものの手段でもない。一日の坐禅は一日の仏であり、一時の修行は一時の仏である。このように現在の一瞬に無限の意味を凝縮させる時間感覚は、後述する「有時」の時間論の実践的な土壌にほかならない。修証一等は倫理的にも重要な含意を持つ。善き状態に到達した者がもはや努力を要しないという考えを、道元は認めない。仏であることは所有される資格ではなく、行為において絶えず新たに現成する出来事だからである。
『正法眼蔵』という書物——和文による哲学的散文
『正法眼蔵』は、1231年頃から示寂の直前まで20年以上にわたって書き継がれた道元の主著である。生前に構想は完結せず、旧草75巻に晩年の新草12巻を加えた75巻・12巻の系統のほか、60巻本などの諸本が伝わり、江戸時代には95巻に編成された流布本も作られた。各巻は「現成公案」「仏性」「有時」「行持」「道得」といった主題を掲げ、経典や中国禅の語録を縦横に引きながら、それを大胆に読み替えていく。難解をもって知られるが、その難解さは思索の密度そのものである。なお、弟子懐奘が道元の日常の説話を筆録した『正法眼蔵随聞記』は、平易な語り口で道元の人と教えを伝える書として、古くから広く読まれてきた。
思想史的に特筆すべきは、『正法眼蔵』が和文で書かれているという事実である。当時、仏教の教理を論じる著作は漢文で書くのが常識であった。道元自身、『普勧坐禅儀』や上堂語録『永平広録』は漢文で著している。しかし『正法眼蔵』において道元は、あえて仮名まじりの和文を選び、日本語によって仏法の極致を語ろうとした。それは日本語が本格的な思弁の言語となった最初期の事件であり、『正法眼蔵』はしばしば「日本語で書かれた最初の哲学書」と評される。しかもその文体は独創的である。漢語の熟語を解体して読み替え、名詞を動詞化し、通常の語順を裏返し、同じ語を反転させながら畳みかける——道元は日本語の文法そのものを思索の道具として鍛え直した。この言語実験は、既成の言葉では語りえないものを語るための必然であって、後述する道元の言語哲学と表裏一体をなしている。
「現成公案」を読む——万法に証せらるる
75巻本の巻頭に置かれた「現成公案」は、『正法眼蔵』全体の序論ともいうべき巻であり、道元思想のエッセンスが凝縮されている。「現成公案」とは、あらゆる存在(万法)が今ここに現れ成っていること、そのことがそのまま絶対の真理(公案)である、という意味に解しうる。真理は現象の背後に隠れているのではなく、目の前に現成している——この巻はその消息を、自己と世界の関係の転換として語る。
中心をなすのは次の一節である。「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」。仏道の修学は自己の探究であるが、その探究は自己の確立ではなく自己を忘れることに至り、自己を忘れるとは、万法——あらゆる存在——の側から証されることである。道元はまた言う、「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」。自己を中心に据えて世界を意味づけるのが迷いであり、世界の側が進み出て自己を照らし出すのがさとりである。ここには、主観が客観を構成するという近代認識論の構図を裏返すような、自己理解の根本的な転換がある。自己は世界に先立つ主体ではなく、万法とともに現成する出来事なのである。
「現成公案」はさらに、薪と灰の比喩によって時間の見方の転換を示す。「たき木ははひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず」。薪が燃えて灰になると我々は考えるが、道元によれば、薪は薪の法位に住し、灰は灰の法位に住する。「前後ありといへども、前後際断せり」——前後はありながら、前後は断ち切れている。薪から灰への連続的変化と見えるものは、実は各々の「いま」における完結した現成である。生から死への移行もまた同様であり、生は生において全きものであり、死は死において全きものである。この「前後際断」の思想は、次に見る「有時」の時間論へと直結していく。
有時——存在と時間の哲学
仁治元年(1240)に書かれた「有時」の巻は、『正法眼蔵』のうちでも最も哲学的な緊張に満ちたテクストであり、道元の名を世界の哲学史に刻んだ時間論である。巻の冒頭近くで道元は宣言する——「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」。「有時」とは本来「あるとき」という日常語だが、道元はこれを「有=時」と読み替える。時間はすでに存在であり、存在はすべて時間である。時間は、事物がその中で生起する容器や座標軸ではなく、存在することがそのまま時間することなのである。だから「山も時なり、海も時なり」——山や海は時間の中にあるのではなく、山であること、海であることが時のあり方そのものである。
道元は、時間を過ぎ去るものとみなす日常的な時間了解をも退ける。「時は飛去するとのみ解会すべからず」。時が飛び去るものでしかないなら、いまの自己と時のあいだには隙間ができてしまう。しかし実際には、あらゆる存在の全体(尽界)は、わたしがいまを生きるその「而今」において現成している。そのうえで道元は、時が孤立した瞬間の点列ではないことを「経歴」という概念で示す。有時は今日から明日へ流れるだけではなく、今日から昨日へ、昨日から今日へ、今日から今日へと、あらゆる方向に通い合い、互いを含み合いながらはたらく。過去は済んでしまった無ではなく、未来はまだ来ない無ではなく、いずれも而今の有時において生きてはたらいている。前後際断でありつつ経歴する——瞬間の絶対性と時の相互浸透とを同時に言い切るところに、この時間論の比類ない深さがある。
この「有時」が、ハイデガーの『存在と時間』(1927)としばしば比較されてきたのは偶然ではない。ハイデガーもまた、時間を「今」の等質な連続とみなす通俗的時間概念を批判し、存在の意味を時間性から解明しようとした。存在と時間を根源で一つのものと見る点、時間を数直線的な容器と見る見方を斥ける点で、7世紀を隔てた両者は確かに響き合う。しかし相違も明確である。ハイデガーの時間性はあくまで人間(現存在)の実存の時間性であり、死へ先駆する覚悟において未来が優位に立つ。これに対して道元の有時は人間に限られず、山も海も松も竹も時であるとされる存在一般の時間であり、優位に立つのは未来ではなく、修行が現成する而今である。死への不安ではなく坐禅の実践が時間論の現場であることも決定的な違いである。比較は同一化のためではなく、それぞれの思索の輪郭を際立たせるためにこそ意味を持つ。
仏性論の転回——「悉有は仏性なり」
「仏性」の巻で道元は、東アジア仏教の根本命題を大胆に読み替える。『涅槃経』の「一切衆生、悉有仏性」は、通常「一切の衆生は、悉く仏性を有す」と読まれる。すべての生きものは、仏となりうる可能性を内に持っている、という意味である。道元はこれを「一切衆生、悉有は仏性なり」と読む。悉有——あらゆる存在——が、そのまま仏性なのである。この読み替えの射程は大きい。通常の読みでは、仏性は衆生の内部に宿る種子や可能性であり、いまだ現実化していない潜在性である。道元の読みでは、仏性は個体の内部の所有物ではなく、存在するものすべての現前そのものである。仏性は「いつか実現されるべきもの」から「いま現成しているもの」へと転回する。
この転回は、仏性を将来の可能性とみなすことで現在の修行を手段に貶める考え方への批判であり、本証妙修・修証一等の存在論的な裏づけにほかならない。さらに道元は、同じ巻で六祖慧能に帰される「無常はすなはち仏性なり」という語を取り上げ、「無常仏性」を説く。仏性は無常を超えた不変の実体ではなく、草木の生滅、人の生老病死という無常そのものが仏性の現れである。仏性を恒常的な基体と考えるならば、それは仏教が否定したはずのアートマン(我)の再来にすぎない。無常こそ仏性であるという道元の言葉は、仏性思想を実体論から解放し、存在の生成流転そのものを肯定する存在論へと鍛え直すものであった。有時において存在と時間が一つに結ばれたように、仏性の巻では存在と仏性と無常が一つに結ばれる。ここに道元の存在論の全体像が完結する。
言語観——道得と葛藤
禅は「不立文字」を掲げ、真理は言語では伝えられないとする立場で知られる。しかし道元の言語観は、単純な言語不信からはほど遠い。「道得」の巻は「諸仏諸祖は道得なり」と始まる。「道得」とは「道い得る」——言い得る、語り得る——の意であり、仏祖とは真理を語り得た者にほかならない。悟りが言語の彼方にあって沈黙のうちに秘められるのではなく、悟りは語られることにおいて現成する。もちろんそれは、既成の言葉が真理を写し取れるという素朴な言語信頼でもない。道得は長年の弁道功夫のうちに熟してくるものであり、語り得たことばのうちには、なお語られていないものが同時にはたらいている。語ることと語りえないことは対立せず、道得のうちで共属しているのである。
「葛藤」の巻の議論は、この言語観をさらに鮮明にする。葛藤——葛や藤のもつれ——は、禅の伝統では言葉や概念のもつれ、断ち切るべき煩瑣な言語的紛糾を指す貶め言葉であった。ところが道元は、達磨から弟子への伝法の故事を注釈しながら、仏法はまさに葛藤によって、葛藤をもって伝えられると説く。師と弟子の応酬、経典と注釈の絡み合い、言葉が言葉に巻きつき絡まり合うそのもつれ自体が、法の生命の相続なのである。言語のもつれを切り捨てて純粋な体験に達するのではなく、もつれのただなかで真理は生き、伝わる。『正法眼蔵』のあの特異な文体——語を解体し、読み替え、畳みかける文体——は、この言語観の実践であった。言語を存在の現成の場と見るこの思想は、20世紀の言語論的転回以後の哲学、すなわち言語を単なる伝達の道具ではなく世界開示の出来事と見る思想と、深いところで呼応している。
現代哲学からの照明——京都学派から海外の道元研究へ
哲学としての道元研究の歴史は、そのまま近代日本哲学の歴史と重なっている。口火を切ったのは前述の和辻哲郎「沙門道元」であり、これによって道元は宗門の外の読者を獲得した。田辺元は『正法眼蔵の哲学私観』で道元の思索を弁証法として読み解き、その哲学的水準を「わが国の誇りとするに足る」ものと評した。西田幾多郎の哲学と道元の親近性も早くから指摘され、京都学派の系譜では西谷啓治が『正法眼蔵講話』で独自の宗教哲学的読解を展開し、阿部正雄は英文の道元論によって国際的な哲学的対話の橋を架けた。文献学の面では、大久保道舟らによる伝記・テクスト研究、岩波日本思想大系版(寺田透・水野弥穂子校注)などの校訂が読解の基盤を整えた。
海外では、1975年に金希鎮(Hee-Jin Kim)の『Dōgen Kigen: Mystical Realist』が道元を包括的な思想家として提示して以来、英語圏の道元研究は目覚ましく発展した。カール・ビールフェルトは『普勧坐禅儀』の文献学的研究によって坐禅論の形成過程を解明し、スティーヴン・ハイネは有時とハイデガーの時間論の本格的な比較研究を行った。棚橋一晃らによる『正法眼蔵』の英訳も進み、道元は今日、比較哲学・宗教哲学の分野で最も参照される東アジアの思想家の一人となっている。現代の研究は、ハイデガーとの比較にとどまらず、現象学的な身体論、時間の形而上学、環境哲学——山川草木を仏性の現成と見る思想は深いエコロジーの先駆と読まれることもある——など多方面に及ぶ。国内でも頼住光子らによって、道元を倫理学・哲学の言葉で読み直す試みが続けられている。他方で、道元をただちに「哲学者」と呼ぶことへの警戒も研究者のあいだには存在する。その言葉はあくまで修行の言葉であり、体系の構築ではなく実践の指南だからである。哲学と非哲学の境界そのものを問い直させるところに、道元というテクストの現代性がある。
結論
道元の思想は、比叡山での一つの疑問——すでに仏であるならなぜ修行するのか——から出発し、その答えとして展開された。修行と悟りは一等であり(修証一等)、坐禅は何ものの手段でもなく(只管打坐)、本来の悟りは修行においてのみ現成する(本証妙修)。この実践の論理は、『正法眼蔵』において壮大な存在論へと展開する。真理は現象の背後ではなく眼前に現成しており(現成公案)、存在はすべて時であり(有時)、あらゆる存在がそのまま仏性であり(悉有仏性)、真理は言葉のもつれのただなかで語り得られる(道得・葛藤)。中心にあるのは一貫して、彼方への到達ではなく、而今の現成である。悟りも仏性も真理も、未来に約束された目標ではなく、いま坐るこの身において行じられている——道元の哲学は、この一事の徹底的な思索であった。
だからこそ道元は、13世紀の禅僧でありながら、存在と時間、自己と世界、行為と意味をめぐる現代の問いに対して、今なお思いがけない角度から光を投げかける。ハイデガーとの比較が示すように、その思索は西洋哲学の最深部と切り結ぶ強度を持ち、同時に、思索が坐禅という身体の実践と一つであるという点で、西洋哲学のどの伝統とも異なる場所に立っている。『正法眼蔵』は読み尽くされることのないテクストであり、哲学者としての道元の発見は、今もなお進行中の出来事である。
道元を含む中世日本思想の展開については中世日本の思想を、日本哲学全体の中での道元の位置づけについては日本哲学の全体像を、有時の時間論と比較される20世紀の存在論についてはハイデガーを参照されたい。