はじめに——20世紀科学哲学の巨人
カール・ライムント・ポパー(Karl Raimund Popper, 1902-1994)ほど、専門的な科学方法論と切迫した政治的実践とを一つの思想として提示した哲学者は、20世紀にほとんどいない。彼が生涯を通じて擁護した立場は「批判的合理主義」(critical rationalism)と呼ばれる。その骨格は驚くほど単純である——われわれは真理を所有できない、しかし誤りを発見することはできる。だから、知識も社会も、誤りを見つけて取り除く仕組みを内蔵しているかぎりにおいてのみ進歩する。
この一つの発想が、科学論の側では「反証可能性」(falsifiability)という境界設定基準となり、政治論の側では「開かれた社会」(open society)という理念となった。両者は比喩的に似ているのではない。ポパーにとって、批判に自らをさらす理論と、批判に自らをさらす制度とは、同じ認識論的態度の二つの現れである。理論を守るために反例を隠蔽する科学者と、政策を守るために異論を弾圧する政府とは、同じ知的過ちを犯している。
ポパーの著作は、専門哲学の外にも異例の広がりをもった。「反証可能」「反証不可能」という語は、今日では自然科学者や医師、ジャーナリストの日常語彙に入り込んでいる。「開かれた社会」は冷戦後の民主化運動のスローガンとなり、ジョージ・ソロスの財団名にまでなった。他方で、専門の科学哲学の内部では、反証主義はすでに素朴な理論として乗り越えられたと見なされることも多い。この落差そのものが、ポパーという思想家を理解する上で重要な手がかりになる——本稿はその両面を、生涯から現代的評価までたどって描き出す。
生涯——ウィーンからニュージーランド、そしてLSEへ
ポパーは1902年、ウィーンの同化ユダヤ人家庭に生まれた。父ジーモンは弁護士で、一万数千冊とも言われる蔵書をもつ教養人であり、家庭は自由主義的な知的環境だった。第一次世界大戦後の混乱期、十代のポパーは一時マルクス主義に接近するが、1919年に警官隊が若い社会主義者たちを射殺する事件に遭遇し、決定的に離反する。武装闘争の犠牲は「歴史の法則」によって正当化される——この論法こそ、後の彼が生涯かけて解体しようとした思考形式だった。彼はまた、家具職人としての徒弟修業を経験し、アルフレート・アードラーのもとで恵まれない子どもたちの社会事業にも従事し、教員資格を取得している。
1928年、ウィーン大学で心理学者カール・ビューラーの指導のもと学位を取得。1934年、最初の主著『探究の論理』(Logik der Forschung)を刊行する。この書は皮肉にも、彼が論駁の対象とした論理実証主義者たち——ウィーン学団——の叢書の一冊として世に出た。ポパーは学団の正式メンバーではなく、モーリッツ・シュリックの会合に招かれることもなかったが、オットー・ノイラートは彼を「公式の反対派(die offizielle Opposition)」と呼んだと伝えられる。学団の検証主義に対し、ポパーは反証を対置したのである。
ナチスの脅威が迫るなか、1937年にニュージーランドへ亡命し、クライストチャーチのカンタベリー大学カレッジで哲学を講じた。1938年のオーストリア併合(アンシュルス)の報に接して彼が書き始めたのが『歴史主義の貧困』と『開かれた社会とその敵』であり、彼自身これを自らの「戦争への貢献(war effort)」と呼んだ。戦後の1946年、フリードリヒ・ハイエクの尽力でロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に招かれ、1949年に論理学・科学方法論の教授となる。同年ケンブリッジの道徳科学クラブでヴィトゲンシュタインと激突した「火かき棒事件」は、哲学史上もっとも有名な口論の一つとして語り継がれている。
LSE時代のポパーは『推測と反駁』(1963)、『客観的知識』(1972)、脳科学者ジョン・エクルズとの共著『自我と脳』(1977)、自伝『果てしなき探求』(1976)などを次々に発表した。1965年にナイトの称号を受けてサー・カールとなり、1976年に王立協会フェロー、1982年にはコンパニオン・オヴ・オナーを授けられる。私人としての彼は、開かれた対話を説きながら自身は議論において極めて頑固だったとも言われ、同僚たちが『開かれた社会——その敵の一人による』と揶揄したという逸話が広く伝わっている。1994年、ロンドン近郊で没した。
反証可能性——科学と非科学の境界設定問題
ポパーが青年期に立てた問いは、「何が科学を科学たらしめるのか」ではなく、より限定された「科学と非科学とを分ける線はどこにあるのか」だった。これが境界設定問題(demarcation problem)である。彼を促したのは、同時代ウィーンで並び立っていた三つの理論——アインシュタインの相対性理論、マルクスの史的唯物論、フロイトとアードラーの深層心理学——の対比だった。
マルクス主義者や精神分析家と話すと、彼らはあらゆる出来事を自説の確証として読み解いてみせた。革命が起きればそれは理論の証明であり、起きなければ「虚偽意識」で説明される。ある男が子どもを川に突き落としても、逆に身を投げて救っても、フロイト派は抑圧で、アードラー派は劣等感の補償で説明できる。ポパーはここに、理論の強さではなく弱さを見た。あらゆることを説明できる理論は、何も禁止していない。何も禁止しない理論は、経験によって間違いを教えてもらう機会をもたない。
対照的にアインシュタインの理論は、太陽の重力場によって光が特定の角度だけ曲がると予言した。1919年のエディントンの日食観測でこの予言が外れていたなら、理論は捨てられるほかなかった。ポパーが決定的だと考えたのはこの点である——理論はリスクを冒していた。ここから彼の基準が出てくる。ある理論が科学的であるのは、それが原理的に反証されうる場合、すなわち「もしこれが観察されたら理論は偽である」と言える観察言明(潜在的反証子)が存在する場合に限られる。
この基準について、二つの誤解を退けておく必要がある。第一に、これは意味の基準ではない。ウィーン学団は検証不可能な言明を無意味と断じたが、ポパーは反証不可能な言明を無意味とは考えなかった。形而上学は無意味ではなく、しばしば実り豊かであり、原子論のように後の科学理論の母胎となる「形而上学的研究プログラム」でありうる。第二に、これは価値の基準でもない。非科学的であることは劣っていることを意味しない。ポパーは、境界設定は科学の栄誉を独占するための線引きではなく、方法の違いを明らかにするための線引きだと繰り返した。
帰納の問題への解答——ヒューム問題の解消
反証可能性は、たんなる線引きの道具ではない。それはデイヴィッド・ヒュームが提起した帰納の問題への、ポパーなりの解答でもあった。ヒュームは、過去に観察された規則性から未来の規則性を推論することは論理的にも経験的にも正当化できないと論じた。「これまで太陽は昇った」から「明日も太陽は昇る」は導かれない。この推論を支える「自然の斉一性」の原理自体が、帰納によってしか支持されず、循環に陥る。
ポパーの応答は劇的だった——ヒュームは正しい、帰納は正当化できない、だから科学は帰納を使っていないのだ。ここで働くのが、検証と反証の論理的非対称性である。「すべての白鳥は白い」という全称言明は、何羽白い白鳥を観察しても証明されない。しかし黒い白鳥が一羽いれば、確定的に反駁される。単称言明から全称言明への上向きの推論(帰納)は妥当でないが、全称言明の否定を単称言明から導く下向きの推論(モードゥス・トレンス、後件否定式)は完全に演繹的に妥当である。科学の論理はこの演繹だけで足りる。
したがって科学の営みは、観察を積み上げて法則を抽出する作業ではない。まず理論を——大胆に、しばしば直観や神話や形而上学から——提案し、そこから観察可能な帰結を演繹し、それを厳しく検証にかける作業である。テストを生き延びた理論は「真であることが証明された」のではなく、「まだ反駁されていない」にすぎない。ポパーはこの地位を「確証」(verification/confirmation)ではなく「確証度・耐験度」(corroboration, Bewährung)と呼んで区別した。耐験度は将来の成功の保証ではなく、これまでの批判的検討に耐えたという過去についての報告である。
ポパーはさらに、帰納の問題を論理的側面と心理的側面に分けた。論理的には帰納は存在しない。しかし、人間や動物が実際に規則性を予期するのはなぜか。彼の答えは進化論的認識論である。生物は白紙の状態で観察を受動的に受け取る「バケツ」ではなく、あらかじめ期待と仮説をもって世界に光を当てる「サーチライト」である。生得的な予期は遺伝の水準で試行錯誤を経て形成されており、その意味で知識の成長はアメーバからアインシュタインまで連続している——ただし人間は、自らの仮説を言語によって外化し、自分の代わりに仮説を死なせることができる点で決定的に異なる。
推測と反駁の方法
ポパーが描く科学の運動は、「問題→暫定的理論→誤りの除去→新しい問題」という循環として定式化される。出発点は観察ではなく問題である。問題とは、期待と現実の不一致、あるいは理論間の矛盾のことである。これに対し研究者は暫定的な解(tentative theory)を提出し、それを可能な限り厳しい批判にさらして誤りを取り除き(error elimination)、その結果としてより深く洗練された新しい問題が現れる。科学の進歩とは、問題の質が向上していくことなのである。
ここでポパーが重視するのが、理論の「大胆さ」である。反証可能性には程度がある。より多くを禁止し、より多くの経験内容をもつ理論ほど、反証されやすく、それゆえ科学的により価値が高い。「明日は雨が降るか降らないかである」は反証不可能でゼロの内容しかもたないが、「明日正午に東京で毎時20ミリの降雨がある」は極めてリスクが高い。ポパーは、確率が高い理論ほど良いという通念を逆転させた——良い理論とは、事前確率の低い、ありそうもないことを述べる理論である。
この規範から、ポパーは方法論的な禁則も導いた。理論が反駁されたとき、その場しのぎの補助仮説を付け加えて理論を救うこと——彼が「規約主義的な小細工」「アドホックな免疫化」と呼んだ操作——は禁じられる。海王星の発見のように、補助仮説が独立に検証可能な新しい予測を生む場合は許されるが、反例を吸収するためだけに作られ、それ自体は検証されえない仮説は、理論の経験内容を減らすがゆえに科学の精神に反する。反証主義は論理であるだけでなく、研究者の職業倫理でもある。
反証主義の基礎には、ポパー自身が認めた脆さもある。理論が観察と衝突すると言うとき、その「観察」を記述する基礎言明(basic statements)は、それ自体理論負荷的であり、無条件に真ではない。ポパーは、基礎言明の受容は科学者共同体の決定であり、一種の約定だと認めた。ならば経験的基礎は絶対的な岩盤ではない。彼は『探究の論理』の有名な比喩でこう述べる——科学の理論体系は自然の岩盤の上に立つのではなく、沼地に打ち込まれた杭の上に立っている。杭は当面の建造物を支えるのに十分な深さまで打ち込まれるが、それは硬い地盤に到達したからではなく、われわれがその深さで十分だと判断したからにすぎない。
反証主義への批判——デュエム=クワイン、クーン、ラカトシュ、ファイヤアーベント
反証主義への最初の、そしておそらく最も原理的な打撃は、デュエム=クワイン・テーゼである。ピエール・デュエムが指摘し、W・V・O・クワインが徹底化したこの論点によれば、仮説は単独では検証にかけられない。予測を導くには、補助仮説、初期条件、観測装置の理論などが束になって必要である。予測が外れたとき、論理が教えるのは「この束のどこかが偽である」ということだけで、どの構成要素を捨てるべきかは教えてくれない。決定的反証実験(experimentum crucis)は、厳密には存在しない。反証は論理的に強制されるのではなく、常に選択と判断を含む。
トマス・クーンは『科学革命の構造』(1962)で、歴史的な角度から異議を唱えた。科学者の日常業務——クーンの言う「通常科学」——は、パラダイムを反証しようとする営みではなく、パラダイムを前提として「パズル」を解く営みである。むしろ、実験がうまくいかないとき、科学者は理論ではなく自分の腕を疑う。パラダイムが放棄されるのは反例が出たからではなく、代替パラダイムが現れ、危機が臨界に達したときである。1965年ロンドンでのシンポジウムで両者は正面から対決し、ポパーは「通常科学とその危険」と題して、クーンの言う通常科学者は科学者としては哀れむべき存在であり、独断への訓練は文明にとって危険だと反論した。
イムレ・ラカトシュは両者の調停を試みた。彼はポパーの立場を「素朴な反証主義」と呼んで退け、「科学的研究プログラムの方法論」を提示する。評価の単位は個々の理論ではなく、時間の中で展開する研究プログラムである。プログラムは、反証から守られる「堅い核」と、修正を引き受ける「防御帯」からなる。あるプログラムが新奇な事実を予測し、それが確証されるなら「前進的」であり、反例の後追いで補助仮説を継ぎ足すばかりなら「退行的」である。反証は一撃で決まるのではなく、長期の趨勢として現れる。
パウル・ファイヤアーベントはさらに急進的だった。『方法への挑戦』(1975)で彼は、科学史上の主要な前進——ガリレオの地動説擁護など——は、あらゆる方法論的規則の違反によってこそ達成されたと論じ、唯一擁護しうる原理は「なんでもあり(anything goes)」だと宣言した。ポパーの助手を務めた経歴をもつ彼のこの転回は、批判的合理主義への内部からの反乱でもあった。今日、科学哲学の主流はベイズ主義的な確証理論に移り、素朴な反証主義を字義通りに擁護する者は少ない。それでもポパーの問いの立て方——理論はどこで間違いうるのかを問え——は、規範として生き残っている。
三世界論——客観的知識の存在論
後期ポパーは、認識論を存在論へと拡張した。彼が提示した「三世界論」によれば、実在は三つの領域に区分される。世界1は物理的対象と状態の領域、世界2は意識状態や主観的経験の領域、そして世界3は「客観的な思考内容」の領域である。世界3には、理論、問題、論証、証明、そして芸術作品や制度が含まれる。
世界3は人間の産物でありながら、人間の心から独立した客観的な構造をもつ、というのがポパーの主張の核心である。自然数の体系は人間が作った。しかし、素数が無限に存在するという事実や、双子素数問題の未解決性は、誰かが考えたから生じたのではない。それらは人間の創造物のうちに、意図せず生まれた客観的帰結である。ポパーはここに「発見されるのを待つ、作られた実在」を見た。理論もまた同様である——書物として図書館に眠り、誰も読んでいない理論であっても、そこには真理・虚偽・論理的帰結が客観的に備わっている。
この構図から、ポパーは伝統的認識論への根本的な批判を導いた。デカルト以来の認識論は、知識を「信念の一種」、すなわち世界2の状態として扱ってきた。しかし科学的知識の成長を論じるうえで重要なのは、誰が何を信じているかではなく、理論の論理的内容とその批判可能性である。ポパーはこれを「認識主体なき認識論」と呼んだ。三世界は相互に作用する。世界3の理論は世界2の心を介して世界1に働きかけ、逆に世界3の未解決問題は世界2に新たな課題を突きつける——文化とはこのフィードバック回路の総体である。
三世界論は、ポパーの思想のなかでもとりわけ批判の多い部分である。プラトン的な実在論への後退だ、世界3の存在論的身分が曖昧だ、といった批判は繰り返しなされてきた。しかしそれでもこの理論は、知識を心理的信念に還元することへの抵抗として、また文化的産物の自律性を説明する枠組みとして、今日でも参照され続けている。エクルズとの共著『自我と脳』では、これが心身問題への相互作用論的アプローチの基礎として展開された。
確率の傾向性解釈と決定論批判
確率論の哲学において、ポパーは「傾向性解釈」(propensity interpretation)を提唱した。従来の主要な解釈は二つあった。主観主義的解釈は確率を信念の度合いと見なし、頻度説は確率を長期的な相対頻度と同一視する。ポパーは当初リヒャルト・フォン・ミーゼス流の頻度説に近い立場をとっていたが、1950年代後半にこれを改めた。
彼が問題としたのは単称確率である。「このコインを次に投げたとき表が出る確率は0.5」という言明は、頻度説では厳密には意味をなさない。一回の試行に頻度はないからである。ポパーの解答は、確率を実験配置に内在する物理的な傾向性——ある結果を生み出す実在的な性向——と見なすことだった。重要なのは、傾向性は物体の属性ではなく、状況全体の属性だという点である。コインの傾向性は、コインの物理的性質だけでなく、投げ方や着地面を含む配置全体に依存する。相対頻度はこの傾向性の統計的な現れであって、傾向性の定義ではない。
この解釈は、量子力学の実在論的理解を支える意図をもっていた。コペンハーゲン解釈が波動関数を観測者の知識の表現とみなす傾向をもつのに対し、ポパーは確率を客観的な物理的実在の一部と主張した。粒子は観測されるまで無規定なのではなく、実験配置が客観的な傾向性を定め、それが統計として現れる。ハイゼンベルクの不確定性関係も、観測者による撹乱ではなく、粒子の集団に関する散布関係として読み直されるべきだと彼は考えた。
傾向性解釈は、ポパーの非決定論とも結びついている。彼は「雲と時計について」(1965年のコンプトン記念講演)で、古典的な世界像が世界を精密な時計仕掛けとみなしたのに対し、「すべての時計は雲である」と述べた。実在の基底は非決定的であり、決定論的に見えるものは近似にすぎない。さらに『開かれた宇宙』では、量子力学を持ち出さずとも古典物理学の枠内で決定論が擁護できないことを論じ、いかなる科学的予測者も自らの未来状態を完全には予測できないという自己言及的な論証を展開した。世界が開かれていることは、人間の自由と創造性、そして責任の余地が実在の側にあることを意味する——ポパーの科学論と政治論は、ここで一つに結ばれる。
『開かれた社会とその敵』——プラトン・ヘーゲル・マルクス批判
『開かれた社会とその敵』(1945)は、ニュージーランド亡命中に、乏しい図書と灯火管制のもとで書かれた。二巻からなり、第一巻『プラトンの呪縛』、第二巻『予言の大潮——ヘーゲル、マルクスとその余波』が、西洋思想史上の三人の巨人を全体主義の知的祖先として告発する。哲学史の書としては異例なほど論争的で、時に苛烈な書物である。
プラトン批判の要点は、その政治的理想が変化を病とみなす点にある。ポパーの読みでは、プラクトンの理想国家は、部族的な閉じた社会が解体する動揺に対する反動であり、変化を止め、社会を静止させようとする企てである。哲人王による支配、厳格な階級秩序、教育と情報の統制、優生学的な出生管理——これらは全体主義の青写真だとポパーは言う。そして彼は、政治哲学の根本問題の立て方そのものを転換する。「誰が支配すべきか」という問いは間違っている。正しい問いは、「悪しき、あるいは無能な支配者が過大な害をなすことを防ぐように、政治制度をいかに組織できるか」である。民主制の本質は人民の支配ではなく、流血なしに統治者を追放できる制度の存在にある。
ヘーゲル批判は三者のなかでもっとも容赦がない。ポパーはヘーゲルを、プロイセン国家に奉仕する哲学的御用学者であり、その弁証法は矛盾を許容することで理性的批判を無力化する装置だと断じた。歴史の中に世界精神の自己展開を読み込む発想、現実的なものと理性的なものの同一視、国家の神格化——これらがナショナリズムと全体主義の哲学的土壌を用意したというのである。ただし、この章はポパー批判の的にもなってきた。ヴァルター・カウフマンをはじめとする論者は、引用の切り取りと文脈の無視が甚だしいと批判し、今日の研究者の多くはポパーのヘーゲル解釈を学術的には成立しがたいと見ている。
マルクスに対する態度は、より両義的である。ポパーはマルクスの誠実さと、資本主義下の貧困と搾取に対する道徳的憤りを高く評価し、その社会科学的洞察——制度が個人の意図を裏切って作用するという分析——を認める。批判の的はあくまで「歴史的予言」である。歴史には発展法則があり、資本主義の崩壊と社会主義の到来は科学的に予測できる、というマルクスの主張こそが誤りであり、その誤りが政治的に破滅的だった。予言が外れたとき、後継者たちは理論を修正せずに補助仮説で守り、結局は反証不可能な体系に変えてしまった。なお、ポパーはここで自由放任主義を擁護してはいない。「自由のパラドックス」——無制限の自由は強者が弱者の自由を奪うことを許す——を論拠に、経済的自由の制限と福祉的な国家介入を明確に支持している。
歴史主義の貧困
『開かれた社会』と対をなすのが『歴史主義の貧困』である。1930年代末に構想され、雑誌『エコノミカ』への連載(1944-45)を経て1957年に単行本化された。献辞には、「歴史の必然的法則というファシズムと共産主義の信仰の犠牲となった、あらゆる信条・民族・人種の無数の男女の記憶に」と記されている。書名はマルクスの『哲学の貧困』への意識的な反響である。
ポパーの言う「歴史主義」(historicism)とは、歴史には発見可能な発展法則が存在し、それを把握すれば歴史の進路を予測できるとする立場を指す。この用語法は、歴史的文脈への相対化を意味する通常の「ヒストリシズム」とは異なるので注意が必要である。歴史主義は、自然科学の成功に憧れた社会科学が、天文学における日食の予測に相当するものを歴史において求めた結果生まれた、とポパーは診断する。しかし惑星系のような閉じた反復的システムと、人類史のような一回的で開かれた過程とを同列に扱うことはできない。
本書の中心には、簡潔で強力な論証がある。第一に、人間の歴史の進路は、人間の知識の成長によって強く影響される。第二に、われわれは合理的方法によって、科学的知識の未来の成長を予測することはできない——もし明日の発見内容を今日予測できるなら、それはすでに今日の発見である。したがって第三に、われわれは人間の歴史の未来の進路を予測することはできない。ゆえに理論的歴史学、すなわち歴史予測を目的とする社会科学は不可能である。この論証は、社会法則の存在自体を否定するものではなく、予言的な歴史科学の可能性を否定するものである。
ポパーはさらに、歴史主義が方法論的に依拠する二つの発想を批判した。一つは全体論(ホーリズム)——社会を有機的全体として捉え、その全体を一挙に把握・改造しようとする発想である。もう一つは本質主義——「国家とは何か」「歴史の本質は何か」といった定義から実質的知識を引き出そうとする発想である。これに対して彼は「方法論的個人主義」と、社会現象を個人の行為の意図せざる帰結として説明する立場を対置した。社会科学の主要な課題は、人間の行為が生み出す意図せざる社会的帰結を分析することにある、という彼の定式は、後の社会理論に広く受け継がれている。
漸次的社会工学と寛容のパラドックス
歴史主義を退けたポパーは、その代わりに何を提案したのか。「漸次的社会工学」(piecemeal social engineering、断片的社会工学とも訳される)である。これは、社会全体を理想の青写真に従って一挙に作り変える「ユートピア的社会工学」と対比される。漸次的な工学者は、社会の究極目的を定義しようとはしない。代わりに、具体的で同定可能な害悪——貧困、失業、病、無知、暴力——に狙いを定め、限定された改革を実施し、その結果を批判的に検証し、失敗すれば修正する。
この方法論的選好は、単なる臆病さではなく、認識論から導かれる。ユートピア的計画は、社会全体の因果構造についての巨大な知識を前提とするが、われわれはその知識をもっていない。しかも大規模な改造は多数の変数を同時に動かすため、何が原因で何が結果か切り分けられなくなり、誤りから学ぶことができない。さらに、遠い未来の理想のために現在の犠牲を要求する論理は、批判者の抑圧を正当化しやすい。反対に、小さな改革は結果が読み取りやすく、撤回も可能である。要するに、漸次的改革とは社会における反証可能性の確保なのである。
ここに、ポパーの倫理的立場も重なる。彼は「幸福の最大化」ではなく「回避可能な苦痛の最小化」を公共政策の目標とすべきだと論じた。人々を幸福にする方法については人々の間で深刻な不一致があるが、飢えや拷問や病が悪であることについては広範な合意がある。ゆえに前者を国家目標に据えることは危険で、後者に集中することが賢明である——ここでも、合意しやすく検証しやすい目標を選ぶという同じ発想が働いている。
『開かれた社会』第一巻第七章の注に置かれた「寛容のパラドックス」は、今日もっとも頻繁に引用されるポパーの一節である。無制限の寛容は寛容の消滅をもたらす。不寛容な者にまで無制限に寛容であれば、寛容な社会は不寛容な者によって破壊される。ゆえにわれわれは、寛容の名において不寛容を抑止する権利を主張しなければならない——ポパーはそう述べる。ただし、しばしば見落とされるのは、彼がすぐに条件を付していることである。不寛容な哲学を力で抑え込むことを常に求めるべきではない。合理的な議論によって対抗でき、世論によって抑制できるかぎりは、抑圧は賢明ではない。抑圧が正当化されるのは、相手が理性的議論を拒否し、議論に拳と銃で応じることを教える場合に限られる。この留保を欠いた引用は、しばしばポパーの意図と逆の用いられ方をしている。
現代への影響と評価——科学哲学・政治哲学・EBM・「ポパー主義」の実像
ポパーの影響を測るには、専門哲学の内部と外部を分けて考える必要がある。科学哲学の内部では、素朴な反証主義はデュエム=クワイン・テーゼとクーン以降の歴史的研究によって深刻な修正を迫られ、現在の主流は確率論的なベイズ主義的確証理論である。皮肉なことに、ポパーが最も強く拒んだ「確証の度合い」という概念こそが、現代の標準的な道具立てとなった。境界設定問題そのものも、ラリー・ラウダンが「境界設定問題の消滅」(1983)で疑似問題だと宣告して以来、単一基準による解決は困難だという見方が広がった——もっとも近年は、疑似科学や科学否定論の実際的な問題を背景に、多元的な基準による境界設定論が再興している。
他方、科学の現場での影響力は際立って大きかった。免疫学者ピーター・メダワー、神経生理学者ジョン・エクルズ、宇宙論者ヘルマン・ボンディといったノーベル賞級の科学者たちが、ポパーを自らの方法論的指針として公然と称揚した。「その理論は反証可能か」という問いは、今日の研究者が新奇な主張に対して反射的に発する問いになっている。医学の領域では、根拠に基づく医療(EBM)が、仮説を検証ではなく反駁にかける手続きとしてランダム化比較試験を位置づける際に、しばしばポパー的な語彙を用いてきた。ただし、EBMのエビデンス階層が実際には帰納的・統計的推論に依拠していることを踏まえれば、その哲学的基礎をポパーに一元的に帰することには慎重であるべきだろう。法の領域では、米国連邦最高裁のドーバート判決(1993)が、科学的証拠の許容性判断の一要素としてポパーの反証可能性に言及したことがよく知られている。
政治思想における影響は、冷戦期を通じて持続的だった。全体主義批判の古典としての『開かれた社会』は、東欧の反体制知識人に読まれ、体制転換後の民主化言説の一部となった。LSEでポパーに学んだジョージ・ソロスは、その理念を掲げてオープン・ソサエティ財団を設立し、東欧・中欧の市民社会支援に巨額を投じた。ヘルムート・シュミットら西欧の政治家にも信奉者がいた。他方で、ポパーの立場を単純な自由市場主義と同一視するのは誤りである。彼は自由放任を「自由のパラドックス」ゆえに拒否し、経済領域への国家介入を積極的に擁護した。ハイエクとは友情と相互影響で結ばれながら、経済政策では明確に距離があった。
「ポパー主義」の実像を評価するなら、その真価は個々の学説の細部よりも、態度の定式化にあると言うべきだろう。誤りうることを前提に制度を設計せよ。自分の説の弱点を自分で探せ。批判は敵意ではなく協力である。真理に到達したという確信は、それ自体が最も危険な政治的態度である。ポパー自身がこの態度を体現しきれていなかったという皮肉——議論において妥協を知らなかったという同時代人の証言——さえも、彼の思想の要点を裏側から照らしている。批判的合理主義は個人の徳としては達成困難であり、だからこそ制度として組織されなければならないのである。
結論——不確実性のなかで生きる作法
ポパーの哲学は、一つの断念から出発する。確実性は手に入らない。基礎づけは完結しない。真理を所有したと言える瞬間は来ない。だが彼は、そこから懐疑主義にも相対主義にも進まなかった。真理は存在する、そしてわれわれはそれに近づきうる——ただし、それは正しさを証明することによってではなく、誤りを削り取ることによってである。この非対称的な楽観こそが、批判的合理主義の核心である。
科学哲学者としてのポパーの具体的学説は、多くが修正を迫られた。反証は一撃では決まらず、科学者は日々パラダイムを疑ってはおらず、真理近似性の形式化は失敗した。政治思想家としてのポパーの歴史解釈も、とりわけプラトンとヘーゲルの読解については、専門家の支持を失って久しい。それでもなお彼が20世紀の巨人であり続けるのは、彼が知の営みと政治の営みを貫く一つの問いを立てたからである——われわれは、自分が間違っていることをどうやって知るのか。
この問いは、いま一層切実である。膨大な情報が流通し、あらゆる立場が自らに好都合な証拠を無限に調達できる時代において、「何を信じるか」よりも「どうすればその信念を捨てられるか」を問う姿勢は、稀少で貴重な知的資源となった。開かれた社会とは、完成した理想郷ではなく、誤りを発見して修正し続ける手続きの名である。ポパーが遺したのは体系ではなく、その手続きへの信頼だったと言えるだろう。
ポパー以後の科学哲学の展開についてはクーンを、その全体的な見取り図については20世紀の科学哲学を、そして基礎的な概念の整理については科学哲学入門を参照されたい。