チャールズ・サンダース・パース——プラグマティズムの創始者と記号論

はじめに:不遇の天才が遺したもの

チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)は、今日では「プラグマティズムの父」として、またウィリアム・ジェイムズやジョン・デューイと並ぶアメリカ哲学の創始者として広く知られている。しかし、その生涯は不遇そのものであった。パースは生涯にわたって安定した大学教職を得ることができず、経済的困窮のなかで多くの草稿を未完成のまま遺し、そのほとんどが死後、ハーバード大学に膨大な未刊行原稿として引き取られることになった。同時代における評価は限定的であり、パースの思想の全貌が学界で正当に評価されるようになったのは、二十世紀後半以降のことである。

それにもかかわらず、パースが遺した知的遺産の射程は驚くほど広大である。プラグマティズムという哲学的方法論の創始者であるにとどまらず、パースは記号の理論(記号論、semiotics)を独自に体系化し、論理学においては量化理論や関係の論理を独自に展開し、さらに探究の理論、可謬主義、カテゴリー論、連続主義といった独創的な哲学体系を構築した。数学者であり、測地学・物理学の専門家であり、論理学者であり、哲学者であったパースは、まさに十九世紀アメリカが生んだ稀有な博識の人であった。

本稿では、パースの生涯を概観したうえで、プラグマティズムの格率、探究の理論、ウィリアム・ジェイムズとの関係とプラグマティシズムへの改名、可謬主義、アブダクションの論理、記号論の三分法、カテゴリー論、連続主義を順に検討し、最後に記号論・科学哲学・分析哲学におけるパースの現代的影響を考察する。

生涯——不遇の天才、ジョンズ・ホプキンズ、ミルフォードの晩年

パースは1839年、マサチューセッツ州ケンブリッジに生まれた。父ベンジャミン・パースはハーバード大学の著名な数学教授であり、幼少期から息子に数学と論理学の厳格な訓練を施したと伝えられている。パースは1859年にハーバード大学を卒業したのち、1861年から合衆国沿岸測地測量局(U.S. Coast and Geodetic Survey)に勤務し、以後およそ三十年にわたってこの機関に籍を置いた。測地測量局での仕事は、重力測定のための振り子実験や、光の波長を用いた長さの単位(メートル)の精密な定義に関する研究など、実務的にも学問的にも高い水準のものであり、パースはこの分野で国際的にも一定の評価を得ていた。

パースの学問的関心は測地学や物理学にとどまらず、論理学・数学基礎論・哲学へと広がっていった。1867年から1870年代にかけて、パースは論理学における独自の業績を次々に発表し、関係の論理(logic of relatives)の展開や、今日の量化理論に通じる記法の考案において、ゴットロープ・フレーゲとはほぼ独立に先駆的な仕事を成し遂げている。また1870年代前半、ケンブリッジで開かれていた非公式の議論の集まり「形而上学クラブ」(The Metaphysical Club)には、パースのほか、ウィリアム・ジェイムズ、オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア、ニコラス・セント・ジョン・グリーンらが参加しており、この場での議論が、後にプラグマティズムと呼ばれる思想の胚胎の場になったとされている。

パースは1879年、ジョンズ・ホプキンズ大学に論理学講師として招かれ、以後1884年まで教壇に立った。この時期の教え子には、後にプラグマティズムの重要な継承者となるジョン・デューイや、論理学者クリスティン・ラッド=フランクリンらがいる。しかしパースは1884年、大学から解雇された。表向きの理由は明らかにされなかったが、最初の妻ハリエット・メルシーナ・フェイとの離婚が正式に成立する前から、後に再婚することになるジュリエット・フロワシーと同居していたことが大学当局の知るところとなり、当時の道徳的規範に照らして問題視されたことが背景にあったとされる。この解雇以降、パースは生涯にわたって大学の常勤職を得ることが二度となかった。

1887年頃、パースとジュリエットはペンシルベニア州ミルフォードに移り住み、「アリスビー」(Arisbe)と名づけた邸宅を構えて晩年を過ごした。ミルフォードでの生活は経済的に極めて厳しく、パースは『センチュリー辞典』の項目執筆や雑誌への書評寄稿などで糊口をしのぎながら、膨大な量の哲学的草稿を書き続けた。友人であったウィリアム・ジェイムズは、パースの窮状を見かねて講演の機会を斡旋し、また資金援助を募るなど、終生パースを支援し続けた人物として知られている。パースは1914年、ミルフォードにおいて困窮のうちに没した。彼が遺した未刊行の草稿は数万ページに及び、死後ハーバード大学に引き取られ、後年ハーツホーンとポール・ワイスらによって『パース著作集』(Collected Papers of Charles Sanders Peirce)として部分的に編纂・刊行されることになる。

探究の理論とプラグマティズムの格率

パースがプラグマティズムという方法論の骨格を提示したのは、1877年から1878年にかけて『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』誌に連載した論文シリーズ「科学の論理の例証」(Illustrations of the Logic of Science)においてであった。この連載の第一論文「信念の固定化」(The Fixation of Belief, 1877)で、パースは、人間が疑い(doubt)という不快な心理状態から、信念(belief)という安定した状態へと至ろうとする過程こそが探究(inquiry)の本質であると論じた。

パースはこの論文で、信念を固定化する方法として四つを区別している。第一は「固執の方法」(method of tenacity)であり、すでに抱いている信念に固執し、反証を無視することで安定を得ようとする方法である。第二は「権威の方法」(method of authority)であり、国家や教会などの権威によって信念を強制的に統一する方法である。第三は「先天的方法」(a priori method)であり、理性に照らして快く感じられる、あるいは時代の趣味に合致するという基準によって信念を選び取る方法である。そして第四が「科学の方法」(method of science)であり、これは信念の内容を、人間の意志や好みから独立に存在する実在(reality)との照合によって検証しようとする方法である。パースは、前三者がいずれも一時的な安定しかもたらさず、最終的には他者との意見の相違や経験との齟齬によって動揺を免れないのに対し、科学の方法のみが、探究者たちの共同体が長期的な探究を続けることを通じて、意見の恒久的な収斂をもたらしうると論じた。

この連載の第二論文が「我々の観念を明晰にする方法」(How to Make Our Ideas Clear, 1878)であり、ここでパースは後にプラグマティズムの格率(pragmatic maxim)として知られることになる原理を提示した。パースはこの格率を、おおよそ次のように定式化している。すなわち、ある概念の対象がどのような実際的な効果を持つと考えられるかを検討せよ、そしてそれらの効果についての我々の概念こそが、その対象についての我々の概念の全体にほかならない、というものである。パースにとって、ある観念が明晰であるということは、その観念が指し示す対象を経験のなかでどのように識別できるかが明確であることを超えて、その対象が、我々の実際的な行動や経験にいかなる違いをもたらすかが明確であることを意味した。この格率は、概念の意味を、それが実際的な帰結においてどのような相違を生むかという観点から明らかにしようとする方法論であり、形而上学的な思弁のなかにしばしば紛れ込む、実際には何の経験的な違いも生まない空虚な区別を排除するための道具として構想されたものであった。

ジェイムズとの関係とプラグマティシズムへの改名

パースが1870年代に提示したこの格率は、当初、哲学界において広く注目されることはなかった。この考え方が「プラグマティズム」という名のもとに広く知られるようになったのは、およそ二十年後、ウィリアム・ジェイムズによってであった。ジェイムズは1898年、カリフォルニア大学バークレー校で行った講演「哲学的概念と実際的結果」(Philosophical Conceptions and Practical Results)のなかで、プラグマティズムという思想の起源をパースの1878年論文に帰し、パースをこの方法論の創始者として公に称揚した。この講演を契機として、プラグマティズムは、ジェイムズ自身の宗教論や真理論、さらにはジョン・デューイの道具主義的な探究理論などへと展開しながら、アメリカ哲学における一大潮流として急速に広まっていくことになった。

しかしパースは、ジェイムズやイギリスの哲学者F・C・S・シラーらによって展開されたプラグマティズムのその後の展開に、次第に不満を募らせていった。パースの見るところ、ジェイムズやシラーのプラグマティズムは、真理や意味の概念を、個々人にとっての心理的満足や実際上の有用性という、より主観的で心理主義的な方向へと引き寄せるものであり、パース自身が構想していた、論理学的に厳密で、実在論的な基盤を持つ方法論としての性格から逸脱するものであった。パースにとって、概念の実際的な効果とは、単なる個人的な満足や便宜ではなく、あくまで論理的に規定可能な、条件文の形で表現される一般的な帰結でなければならなかった。

この乖離を明確にするため、パース自身は1905年、雑誌『モニスト』に発表した論文「プラグマティシズムの諸問題」(Issues of Pragmaticism)において、自らの立場を指すために「プラグマティシズム」(pragmaticism)という新語を導入した。パースはこの語について、「誘拐者から安全であるほど醜い」語であると評し、より広く流通していた「プラグマティズム」という語が、自分の意図とは異なる仕方で用いられることを防ぐための、いわば意図的な差別化の身振りであったことを自ら明言している。この改名の逸話は、パースとジェイムズという、プラグマティズムの創始者とその普及者との間にあった思想的な緊張関係を象徴的に示すものとして、しばしば言及される。

可謬主義——探究の原理として

パースの哲学全体を貫く根本的な態度の一つが「可謬主義」(fallibilism)である。可謬主義とは、いかなる時点における人間の知識も、原理的には誤りを含みうるものであり、絶対的に確実な、それ以上の吟味を要しない真理というものは存在しない、とする立場である。パースは、デカルト的な懐疑論が到達しようとした、疑いえない確実な基礎から出発する認識論のプログラムそのものを批判し、我々は現実には、疑うことのできる無数の信念のただなかに常にすでに投げ込まれており、探究とはこの信念群を漸進的に吟味し、修正していく終わりのない過程にほかならないと考えた。

この可謬主義は、パースの探究理論と密接に結びついている。「科学の方法」が他の三つの信念固定化の方法よりも優れているとパースが論じた根拠は、まさに科学の方法が、自らの結論を絶対的に確実なものとは主張せず、常に将来の経験や他の探究者による検証に対して開かれた仕方で提示される点にあった。パースは、真理を、個々の探究者が到達する特定の結論としてではなく、理想化された「無限の探究者共同体」(community of inquirers)が、探究を無限に継続した極限において最終的に到達するであろう意見の収斂として規定した。この意味で、パースにとって真理と実在は、探究の過程から独立に予め与えられているものではなく、探究の共同体的・歴史的な営みを通じて漸進的に明らかにされていく何かとして捉えられている。

この可謬主義的な探究観は、二十世紀の科学哲学、とりわけカール・ポパーの反証主義に代表される、科学的知識の暫定性と修正可能性を強調する立場の先駆けとしてしばしば位置づけられる。パースの可謬主義は、懐疑論に陥ることなく、しかも独断論的な確実性の主張も排するという、両極端を回避する第三の道を、探究の共同体的性格のうちに見出そうとするものであった。

アブダクション——仮説形成の論理

パースの論理学における独創的な貢献のなかでも、とりわけ重要なのが「アブダクション」(abduction、パース自身は「リトロダクション」retroductionとも呼んだ)の理論である。伝統的な論理学は、推論の形式を演繹(deduction)と帰納(induction)の二種類に大別してきたが、パースはこれに加えて、仮説を新たに形成する推論の様式として、第三の独自の推論形式であるアブダクションを提唱した。

パースによれば、演繹は、既知の一般法則から個別的な帰結を必然的に導出する推論であり、帰納は、多数の個別事例の観察から一般法則を確からしいものとして導出する推論である。これに対しアブダクションは、ある驚くべき事実が観察されたとき、もしある仮説が真であれば、その事実が驚くべきことではなく当然のこととして説明されるであろう、という推論によって、その仮説を探究に値する候補として提起する推論である。パースはこの形式を、おおよそ「驚くべき事実Cが観察される。しかしもし仮説Aが真であれば、Cは当然のことになるだろう。ゆえに、Aが真であると考える理由がある」という三段の図式で表した。

パースが強調したのは、演繹と帰納がいずれも、すでに与えられている観念や仮説の枠内で推論を行うにとどまるのに対し、アブダクションのみが、探究にとってまったく新しい観念・仮説を人間の思考のなかに導入する働きを持つという点であった。科学的探究において、新しい理論や仮説がそもそもどこから生まれてくるのかという問いは、演繹や帰納の枠組みだけでは説明できない。パースは、この仮説形成という創造的な契機にこそ、独自の論理的構造――たしかに演繹のような必然性は持たないが、それでも一定の合理的な統制に服する推論の形式――が働いていると考え、これを厳密な論理学の対象として位置づけようとしたのである。この着想は、二十世紀後半、ノーウッド・ハンソンらによって「最良の説明への推論」(inference to the best explanation)として再定式化され、現代の科学哲学における仮説形成論・理論選択論の重要な源流の一つとなっている。

記号論——イコン・インデックス・シンボルの三分法

パースのもう一つの重要な貢献が、記号(sign)の理論、すなわち記号論(semiotics)の体系的な構築である。パースは記号を、単に対象を指し示す媒体としてではなく、「表意体(representamen)」「対象(object)」「解釈項(interpretant)」という三項からなる不可分な関係――記号関係の三項性(triadic relation)――として定義した。ある記号は、それがある対象を指し示すだけでなく、その記号を解釈する心のなかに、さらに別の記号(解釈項)を生み出すことによってのみ、記号として機能する。この三項関係の強調は、記号を単純な二項的な指示関係に還元しようとする素朴な記号観からパースの理論を根本的に区別する特徴である。

パースの記号論のなかでもとりわけよく知られているのが、記号がその対象とどのような関係を結ぶかにもとづく三分法、すなわち「イコン」(icon)、「インデックス」(index)、「シンボル」(symbol)の区別である。イコンとは、記号がその対象と何らかの類似性・相似性によって結びついている記号であり、肖像画や地図、図表などがこれにあたる。インデックスとは、記号がその対象と現実的・因果的な、あるいは実存的な連関によって結びついている記号であり、煙が火のインデックスであること、風見鶏が風向のインデックスであること、指差しの身振りがその指し示す対象のインデックスであることなどがその例である。シンボルとは、記号がその対象と結びつく仕方が、類似性や因果的連関にではなく、もっぱら習慣や規約、社会的な取り決めに基づいている記号であり、大半の言語的記号(単語や文)がこれに該当する。

この三分法は、記号のはたらき方についての精緻な分析枠組みを提供するものであり、多くの現実の記号は、これら三つの性格を程度の差はあれ複合的に併せ持つ点にも、パースは注意を促している。パースの記号論は、フェルディナン・ド・ソシュールが同時代にほぼ独立に展開した記号学(sémiologie)としばしば対比され、両者は現代の記号論という学問領域の二つの源流として位置づけられている。とりわけソシュールの二項的な記号観(シニフィアンとシニフィエ)に対し、パースの三項的・動的な記号観は、記号解釈の連鎖(無限記号過程、unlimited semiosis)という発想を含んでおり、後のウンベルト・エーコらの記号論に大きな影響を与えることになった。

カテゴリー論——第一性・第二性・第三性

パースの哲学体系全体を支える基礎的な枠組みが、彼が「現象学」(phaneroscopy、パース自身の造語)と呼んだ探究を通じて到達した、三つの普遍的カテゴリーの理論である。パースはこれを「第一性」(Firstness)、「第二性」(Secondness)、「第三性」(Thirdness)と名づけた。

第一性とは、他の何ものとの関係にも依存しない、それ自体としての性質・可能性のあり方を指す。色の質そのもの、感じそのものといった、いまだ何かとの比較や関係のなかに置かれていない、純粋な質的可能性がこれにあたる。第二性とは、二つの項のあいだの現実的な作用・反作用、抵抗、衝突といった、二項的な関係のあり方を指す。何かが別の何かと実際に衝突し、抵抗し合うという、いわば「生の事実」(brute fact)としての現実存在の次元がこれである。第三性とは、二項間の関係を媒介し、一般的な規則・法則・習慣として機能する、三項的な関係のあり方を指す。記号が対象と解釈項を媒介するという記号関係そのものが、まさにこの第三性の典型例であり、パースにとって法則性・一般性・意味作用・思考といったものはすべて、この第三性のカテゴリーのもとに位置づけられる。

パースはこの三カテゴリーの理論を、イマヌエル・カントのカテゴリー論を意識しつつも、カントのようにアプリオリな悟性の形式としてではなく、現象一般に普遍的に見出される形式的な構造として、独自の仕方で導出しようとした。このカテゴリー論は、パースの記号論(イコン=第一性、インデックス=第二性、シンボル=第三性に、それぞれ対応関係を持つ)や、アブダクション・帰納・演繹の三分法、さらに後述する連続主義の形而上学に至るまで、パースの思想体系全体を貫く基本骨格として機能している。

連続主義(synechism)——連続性の形而上学

パースは晩年、自らの形而上学的立場を要約する言葉として「連続主義」(synechism、ギリシア語のシュネケース「連続した」に由来する造語)を用いた。連続主義とは、連続性(continuity)という観念が、単に数学における技術的な概念にとどまらず、実在の根本的なあり方を特徴づける形而上学的な原理であるとする立場である。パースは、精神と物質、一般性と個別性、可能性と現実性といった、伝統的な哲学が截然と区別してきた対概念のあいだにも、実際には明確な断絶ではなく連続的な移行関係が存在すると考えた。

この連続主義は、パースの他の形而上学的な立場とも密接に結びついている。その一つが「テュキズム」(tychism)、すなわち宇宙における客観的な偶然性(chance)の実在を認める立場であり、パースは、自然法則そのものが、絶対的に固定された不変の規則ではなく、習慣が徐々に固まっていく過程の産物であり、なお偶然の要素を含みながら進化しつつあるものだと考えた。もう一つが「アガペイズム」(agapism)であり、これは進化の過程を、単なる機械的な必然性や生存競争としてではなく、隣接する諸要素が互いに調和し合う方向へと発展していく、いわば「創造的愛」(creative love)の作用として捉えようとする立場である。連続主義・テュキズム・アガペイズムは、いずれもパースが到達しようとした、機械論的な決定論にも純粋な偶然論にも還元されない、進化論的かつ有機的な宇宙像を構成する諸要素であった。

こうした形而上学的思弁は、実証的な科学者でもあったパースの思想のなかでは、単なる恣意的な思弁としてではなく、あくまで可謬主義的な仮説として、すなわち将来の探究によって修正されうる暫定的な世界像として提示されている点に留意する必要がある。

現代への影響——記号論・科学哲学・分析哲学

パースの思想が学問史のなかで正当に評価されるようになったのは、彼の死からかなりの年月を経た後のことであった。1930年代以降、チャールズ・ハーツホーンとポール・ワイスによる『パース著作集』の編纂・刊行が進むにつれて、パースの膨大な思索の全体像が徐々に明らかになり、二十世紀後半以降、多方面の学問領域においてその独創性が再評価されていった。

記号論の分野では、パースの三項的な記号理論が、チャールズ・モリスによる統辞論・意味論・語用論の三分法の整理を経て、言語学・記号論・美学・生物記号論(biosemiotics)など、多様な学問領域に応用されていった。科学哲学の分野では、アブダクションの概念が、仮説形成・理論選択の論理をめぐる現代の議論において重要な参照点となり、可謬主義は、カール・ポパーの反証主義をはじめとする、科学的知識の暫定性を強調する諸理論の先駆的な思想として位置づけられている。

分析哲学の分野においても、パースの影響は無視できない。パースが独自に展開した量化理論や関係の論理は、フレーゲとはほぼ独立の起源を持つ現代論理学の源流の一つであり、パースの教え子であったクリスティン・ラッド=フランクリンや、後続の論理学者たちを通じて、記号論理学の発展に寄与した。二十世紀半ば以降、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインやヒラリー・パトナムら、プラグマティズムの伝統を再評価する分析哲学者たちは、真理・意味・探究をめぐるパースの思索のうちに、経験主義と実在論とを調停する現代的な視座を見出している。さらに、パースが強調した「探究の共同体」という発想は、科学的知識の社会的性格を重視する現代の科学社会学や、真理の合意説的理解にも、間接的な影響を及ぼし続けている。

結論

チャールズ・サンダース・パースの生涯は、経済的困窮と学問的な不遇に彩られたものであった。安定した大学教職を得ることなく、生前に体系的な主著を完成させることもないまま世を去ったパースは、しかし同時に、プラグマティズムという方法論の創始者として、また記号論・探究理論・可謬主義・カテゴリー論・連続主義という広大な思想体系の構築者として、二十世紀以降のアメリカ哲学、さらには記号論・科学哲学・分析哲学の各領域にわたって、計り知れない影響を及ぼすことになった。

ウィリアム・ジェイムズによってプラグマティズムという名のもとに広く知られるようになりながらも、パース自身はその展開に満足せず、「プラグマティシズム」という語のもとに、より論理学的に厳密な、実在論的基盤を持つ独自の立場を守ろうとした。この一事に象徴されるように、パースの思想は、常に厳密な論理的分析への志向と、実在・真理・探究をめぐる壮大な形而上学的構想とを併せ持つ、独特の緊張関係のうちに成り立っていた。不遇のうちに閉じたその生涯とは対照的に、パースが遺した思想の射程は、今日にいたるまで拡大し続けている。