はじめに:数学者にして哲学者
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead, 1861-1947)は、二十世紀の哲学史のなかでも際立って特異な経歴を持つ思想家である。ケンブリッジ大学で数学を修め、四半世紀にわたって数学者としてのキャリアを積んだのち、還暦を過ぎてからハーバード大学に哲学教授として招かれ、そこで晩年の二十年間に、「過程哲学」(process philosophy)ないし「有機体の哲学」(philosophy of organism)と呼ばれる独自の形而上学体系を構築した。この経歴の転換そのものが、ホワイトヘッドの思想の性格をよく物語っている。
ホワイトヘッドの哲学の核心にあるのは、実在の根本的な単位を、固定した「実体」(substance)ではなく、生成し消滅する「出来事」(event)ないし「過程」(process)に求めるという発想である。アリストテレス以来、西洋形而上学の主流は、性質の変化を通じて持続する基体としての実体を実在の中心に据えてきた。ホワイトヘッドはこれに対し、世界を構成する究極的な実在を「現実的存在」(actual entity)ないし「現実的生起」(actual occasion)と呼ばれる、生成しては直ちに完結する微視的な出来事の連なりとして捉え直し、静的な実体の形而上学から動的な生成の形而上学への転換を試みた。
本稿では、ホワイトヘッドの生涯を数学者としての前半生と哲学者としての後半生に分けて概観したうえで、ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ』、ロンドン時代の自然哲学、そして主著『過程と実在』における現実的存在と抱握の理論、有機体の哲学、神論と過程神学への影響、『観念の冒険』における文明論、教育論、そして現代思想への影響までを順にたどる。
生涯——数学者からハーバードの哲学者へ
ホワイトヘッドは1861年、イングランド南東部ケント州の港町ラムズゲートに生まれた。父はこの町の教区牧師であり、また学校を経営する教育者でもあった。ホワイトヘッドは幼少期をこの海辺の町で過ごしたのち、ドーセット州のシャーボーン校に学び、1880年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学して数学を専攻した。1884年に学士課程を修了すると同時に、マクスウェルの電磁気学に関する研究によってトリニティ・カレッジのフェローに選出され、以後1910年までの二十五年以上にわたり、同カレッジで数学の教育と研究に従事した。
この時期の教え子のなかに、後に生涯にわたる共同研究者となるバートランド・ラッセルがいた。ラッセルは1890年にトリニティ・カレッジに入学し、ホワイトヘッドの数学の講義を受講している。両者の関係は、やがて師弟関係を超えて対等な共同研究者の関係へと発展し、数学基礎論における最大の共同事業である『プリンキピア・マテマティカ』の執筆へとつながっていく。
1910年、ホワイトヘッドはケンブリッジを離れ、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの講師となり、1914年にはインペリアル・カレッジ・ロンドンの応用数学教授に就任した。ロンドン時代のホワイトヘッドは、アインシュタインの相対性理論の登場を背景として、数学から自然哲学・科学哲学へと関心を広げていく。この時期の著作については後述する。
そして1924年、63歳という異例の年齢で、ホワイトヘッドはアメリカのハーバード大学から哲学教授として招聘を受け、これを受諾してアメリカに渡った。数学者としての実績はあっても、哲学の専門的な学位を持たないホワイトヘッドをハーバードが哲学教授として招いたこと自体、当時としては異例の人事であった。しかしホワイトヘッドはこの新天地で、それまでの自然哲学的探究を土台としながら、独自の形而上学体系を急速に展開していく。ハーバードでの二十年余りの歳月に、『科学と近代世界』『過程と実在』『観念の冒険』といった代表作が次々に生み出された。ホワイトヘッドは1937年に退職したのちもケンブリッジ(マサチューセッツ州)にとどまり、1947年に86歳で没した。
『プリンキピア・マテマティカ』とラッセルとの共同
ホワイトヘッドとラッセルの共著『プリンキピア・マテマティカ』(Principia Mathematica)は、1910年、1912年、1913年の三巻にわたってケンブリッジ大学出版局から刊行された。この浩瀚な著作は、数学の諸命題を厳密な論理体系のみから導出することを企図するものであり、ゴットロープ・フレーゲが切り開いた論理主義のプログラムを、より精緻な記号体系のもとで大規模に遂行しようとする試みであった。
『プリンキピア・マテマティカ』の成立の背景には、フレーゲの論理主義体系に内在していた矛盾、すなわちラッセル自身が発見した「ラッセルのパラドックス」への対応という課題があった。自分自身を要素として含まない集合すべての集合を考えると矛盾が生じるというこの逆説を回避するため、ラッセルとホワイトヘッドは「タイプ理論」(階型理論)と呼ばれる仕組みを導入した。これは、対象・対象の集合・集合の集合というように、論理的な階層(タイプ)を区別し、ある階層に属する対象が、異なる階層の対象を無制限に要素として含むことを禁じることで、自己言及的な逆説の発生を構造的に排除しようとするものであった。
この共同作業は十年近くにわたる大変な労力を要するものであったことが知られている。両者は分担執筆と相互の徹底した検討を重ねながら、基礎的な論理法則から出発して自然数の算術を含む数学の主要部分を形式的に構成していくという、気の遠くなるような作業を成し遂げた。たとえば、「1+1=2」という命題の証明が数百ページにわたる論理的準備の末にようやく到達されることは、この著作の厳密さと同時にその難解さを象徴するものとしてしばしば言及される。
なお、当初の構想では幾何学を扱う第四巻も予定されていたが、これは未完に終わった。『プリンキピア・マテマティカ』はその後、クルト・ゲーデルの不完全性定理によって、いかなる無矛盾な形式体系も数学全体の真理を内部から証明し尽くすことはできないことが示され、論理主義プログラムそのものの限界が明らかになる。しかし、この共著がもたらした記号論理学の技法と体系的厳密さの水準は、その後の数理論理学、計算機科学、分析哲学の展開に計り知れない影響を及ぼすことになった。そして、この共同作業を通じてホワイトヘッドが培った、対象を静的な要素の集合としてではなく構造的な関係の網目として捉える視座は、後年の形而上学的探究における一つの方法的基盤となっていく。
自然哲学期——『自然という概念』
ロンドン時代のホワイトヘッドは、応用数学の教育に従事するかたわら、自然科学の哲学的基礎という問題に取り組んだ。この時期の代表的著作が、1919年の『自然的知識の原理に関する研究』(An Enquiry Concerning the Principles of Natural Knowledge)、1920年の『自然という概念』(The Concept of Nature、ケンブリッジ大学におけるターナー講義に基づく)、そして1922年の『相対性原理』(The Principle of Relativity)である。
『自然という概念』でホワイトヘッドが批判の標的とするのは、彼が「自然の分岐」(bifurcation of nature)と呼ぶ発想である。これは、われわれが直接知覚する色や音や香りといった性質を、心のなかにのみ存在する主観的なものとみなし、これとは別に、その知覚を因果的に引き起こす分子や電磁波といった科学的に記述される「本当の自然」を想定するという、近代自然科学に伴いがちな二元論的な発想である。ホワイトヘッドは、知覚される自然と科学が記述する自然とをこのように二つに分裂させることを退け、自然を一元的に、知覚のうちに与えられるがままの出来事の総体として捉え直そうとした。
この探究のなかでホワイトヘッドが用いた重要な方法が「外延的抽象法」(method of extensive abstraction)である。伝統的な幾何学は、点や瞬間といった無次元・無限小の対象を、あらかじめ存在する単純な要素として前提してきた。これに対しホワイトヘッドは、点や瞬間を、具体的に広がりを持つ出来事(event)の集まりが次第に収束していく極限として、いわば出来事から論理的に構成される派生的な対象として捉え直すことを試みた。ここには、実在の根本的な単位を静的な点ではなく具体的な出来事に求めようとする、後の過程哲学に直結する発想がすでに現れている。
さらにこの時期、ホワイトヘッドはアインシュタインの一般相対性理論に対して独自の代替理論を提示したことでも知られる。ホワイトヘッドの相対性理論は、時空の構造について、アインシュタインとは異なる幾何学的前提から出発するものであったが、実験的検証の観点からは十分な支持を得るに至らず、物理学の主流としては受け入れられなかった。とはいえ、この自然哲学期の探究全体は、単なる物理学説の提示にとどまらず、経験される自然をいかに哲学的に記述するかという、ホワイトヘッドの生涯を貫く問いを鍛え上げる重要な準備期間となった。
『過程と実在』と過程哲学
1927年から1928年にかけて、ホワイトヘッドはエディンバラ大学におけるギフォード講義を担当し、これをもとに1929年、生涯の主著となる『過程と実在——コスモロジーへの試論』(Process and Reality: An Essay in Cosmology)を刊行した。この著作は、独自に鋳造された専門用語群と極度に抽象的な文体のゆえに、二十世紀の哲学書のなかでも屈指の難解さで知られるが、同時に、体系的な形而上学の構築という、当時すでに時代遅れとみなされつつあった企図を大胆に遂行した稀有な著作でもある。
『過程と実在』でホワイトヘッドが提示するのは、彼自身が「有機体の哲学」と呼ぶ包括的な宇宙論である。この体系の出発点にあるのは、実在の根本的な性格を「過程」として捉えるという発想である。ホワイトヘッドによれば、世界を構成する究極の実在は、恒常的に存続する実体ではなく、生成しては直ちに完結し、次の生成へと受け渡されていく出来事の連続的な生起にほかならない。この発想を要約する言葉として、ホワイトヘッドは「存在するものはすべて生成のために存在する」という趣旨の命題や、「多が一になり、一だけ増加する」("the many become one, and are increased by one")という定式を用いている。個々の生成の過程は、それに先立つ多数の与件を統合して一つの新しい統一へともたらし、そうして成立した統一そのものが、さらに後続の生成にとっての新たな与件となる。この絶えざる統合と受け渡しの連鎖こそが、ホワイトヘッドの考える宇宙の根本的なリズムである。
ホワイトヘッドはまた、伝統的な形而上学が前提してきた「単純な位置」(simple location)という発想――ある事物がある時空点に、他の一切から独立してそれだけで存在しうるという発想――を批判し、あらゆる存在者は他の存在者との関係のうちにおいてのみ、その存在の内実を持つと論じた。この徹底した関係主義的存在論こそが、過程哲学を単なる「変化の哲学」から区別する特徴であり、以下に見る現実的存在と抱握の理論において、より具体的な形をとることになる。
現実的存在と抱握——有機体の哲学の基本概念
『過程と実在』の体系の骨格をなすのが、「現実的存在」(actual entity、微視的な出来事については「現実的生起」actual occasionとも呼ばれる)と「抱握」(prehension)という二つの中核概念である。
現実的存在とは、ホワイトヘッドの体系において、世界を構成する究極的に具体的な実在の単位である。ホワイトヘッドは「現実的存在は――それらが互いにいかに異なる重要性の段階や機能を持つとしても――ともに最終的な事物であり、その背後にさらに実在的な何かを求めることはできない」という趣旨のことを述べ、神から最も些細な微視的出来事に至るまで、あらゆる現実的存在を同じ原理的地平のもとに位置づける。個々の現実的存在は、瞬間的に生成し、自らの生成の過程(これを「合生」concrescenceと呼ぶ)を通じて一つの統一的な満足(satisfaction)に到達すると、ただちにその生成を完了し、以後は後続の現実的存在にとっての与件(客体的な素材)へと転じていく。
この生成の過程を成り立たせる基本的な働きが「抱握」である。抱握とは、一つの現実的存在が、自らに先立つ他の現実的存在や、可能性としての性質(ホワイトヘッドはこれを「永遠的客体」eternal objectと呼ぶ、プラトンのイデアに類する抽象的な形相であるが、それ自体では現実性を持たず、現実的存在によって「摂取」されることで初めて具体的な世界のうちに現れる)を、自らの生成の内へと取り込み、統合していく働きを指す。抱握には、与件を積極的に自らの生成に組み入れる「肯定的抱握」(positive prehension、感受feelingとも呼ばれる)と、与件を排除する「否定的抱握」(negative prehension)とがある。一つの現実的存在の生成とは、無数の可能な与件のなかから、いかなる要素を肯定的に取り込み、いかなる要素を排除するかという、絶えざる選択と統合の過程にほかならない。
複数の現実的存在が、一定の反復的な特徴(規定的特性)を共有しながら結びついている集まりを、ホワイトヘッドは「結合体」(nexus)と呼び、そのなかでもとりわけ持続的な秩序を示すものを「社会」(society)と呼ぶ。われわれが日常的に「もの」として認識する石や樹木、身体といった持続的対象は、実はこうした現実的生起の連続的な社会として理解されるのであり、実体としての「もの」がまずあってそれが変化するのではなく、むしろ出来事の秩序だった連鎖こそが、持続する「もの」らしさを事後的に構成しているのである。
有機体の哲学——機械論的自然観への批判
ホワイトヘッドが自らの体系に「有機体の哲学」という名を与えたことには、明確な意図がある。近代科学、とりわけニュートン以来の力学的自然観は、自然を、互いに外的な関係しか持たない不活性な物質の集積として捉え、その振る舞いを機械的な因果法則によって説明しようとしてきた。ホワイトヘッドはこの機械論的自然観を、『科学と近代世界』(Science and the Modern World, 1925)において「具体性を置き違える誤謬」(fallacy of misplaced concreteness)という言葉で批判した。これは、本来は抽象的な理論的構成物にすぎない概念(たとえば、単純な位置を持つ均質な物質という観念)を、あたかもそれ自体で具体的に実在する事物であるかのように取り違えてしまう誤りを指す。
これに対しホワイトヘッドが提示する有機体の哲学は、自然のあらゆる水準における存在者を、互いに外的な関係しか持たない孤立した部分としてではなく、他の存在者との内的な関係――抱握による相互浸透――によって構成される、いわば有機体的な統一として捉え直す。一つの現実的存在は、それに先立つ宇宙全体をなんらかの仕方で自らのうちに抱握しつつ生成するのであり、その意味で、あらゆる存在者は宇宙全体との関係のうちに位置づけられている。ホワイトヘッドはまた、経験の主体性という契機を、人間の意識的経験にとどまらず、自然のより単純な水準にまで拡張的に適用しようとした。これは、あらゆる現実的存在が何らかの意味での「感受」(feeling)の主体であるとする立場であり、後世の研究者によってしばしば「汎経験主義」(panexperientialism)と呼ばれる。ただし、これは石や電子に人間的な意識や心を認める素朴な汎心論とは異なり、経験の様態には無限の段階的な多様性があるとする立場である点には注意が必要である。
また『象徴作用——その意味と効果』(Symbolism: Its Meaning and Effect, 1927)でホワイトヘッドは、知覚には「因果的効力における知覚」(causal efficacy)と「現在的直接性における知覚」(presentational immediacy)という二つの様態があり、われわれの日常的な知覚経験は、この二つの様態が「象徴的指示」(symbolic reference)を通じて結びつけられることで成立すると論じた。前者は身体を通じて漠然と与えられる因果的な影響の感受であり、後者は色や形として明晰に与えられる知覚像である。この理論は、近代の経験論が知覚を明晰な感覚与件(現在的直接性)に一面的に還元してきたことへの批判として提示されており、有機体の哲学における「感受」の理論と密接に結びついている。
神論と過程神学への影響
『過程と実在』の体系において、神は特異な位置を占めている。ホワイトヘッドの体系のもとでは、神もまた一つの現実的存在(ただし他の現実的生起とは異なり、生成を完了せず永続する現実的存在)として位置づけられ、伝統的な有神論が想定するような、世界の外部に立つ全能の創造主とは根本的に異なる仕方で理解される。
ホワイトヘッドは神を「原初的本性」(primordial nature)と「結果的本性」(consequent nature)という二つの側面から成る「双極的」(dipolar)な存在として描き出す。原初的本性とは、あらゆる永遠的客体(可能性としての性質)を無時間的に把握し、それらに秩序と関連性を与える、神の概念的・可能性的な側面である。これに対し結果的本性とは、世界において現実に生起する出来事を、神自身がたえず抱握し、自らの経験のうちに取り込んでいく、時間的で成長を続ける側面である。この結果的本性を通じて、神は世界で生起する苦しみや悲劇をも自らの経験として受け止める「偉大な仲間、理解者としての受苦者」("the great companion — the fellow-sufferer who understands")として描かれる。ホワイトヘッドはまた、神が世界に働きかける仕方を、外から力によって強制する「強圧的な力」としてではなく、可能性を提示し世界を望ましい方向へと誘う「説得的な力」(persuasion)として捉え、神を「世界の詩人」にたとえている。
この神論は、その後「過程神学」(process theology)と呼ばれる神学的潮流の直接的な源泉となった。ホワイトヘッドの晩年の研究助手を務めたチャールズ・ハーツホーン(Charles Hartshorne)は、この双極的な神理解をさらに体系的に発展させ、伝統的な古典的有神論――不変・不受苦・全能を特徴とする神理解――に対する「新古典主義的有神論」(neoclassical theism)を提唱した。その後、ジョン・カブ(John B. Cobb Jr.)やデイヴィッド・レイ・グリフィン(David Ray Griffin)らを中心に、クレアモント神学大学院に「過程研究センター」(Center for Process Studies)が設立され、過程神学は組織神学、宗教哲学、さらには環境倫理や動物倫理の領域にまで議論を広げる、影響力のある神学的潮流として今日まで継承されている。過程神学は、悪の問題(神義論)に対して、全能ゆえに悪を防げなかったはずの神という伝統的な図式に代えて、説得的にしか働きかけえない神という理解を提示することで、独自の応答を試みている点に大きな特徴がある。
『観念の冒険』と教育論
1933年に刊行された『観念の冒険』(Adventures of Ideas)は、『過程と実在』で構築した形而上学的枠組みを踏まえつつ、より平易な文体で、自由・文明・美といった観念が人類の歴史のなかをいかに「遍歴」してきたかを論じた著作である。ホワイトヘッドはこの書物のなかで、奴隷制の観念が徐々に克服されていく歴史的過程などを例に挙げながら、抽象的な観念そのものが、それを担う個々人の意識を超えて、歴史のなかで独自の力を持って作用していく様を描き出した。また同書の終盤でホワイトヘッドは、文明を特徴づける五つの性質として「真理」「美」「冒険」「芸術」「平和」を挙げ、これらが単なる静的な達成状態ではなく、たえざる創造的な更新を要求するものであることを論じている。
ホワイトヘッドは教育論においても重要な仕事を残した。ロンドン時代からの教育に関する講演や論考をまとめた『教育の目的』(The Aims of Education and Other Essays, 1929)で、ホワイトヘッドは、生徒の生きた経験や関心と切り離されたまま機械的に詰め込まれる「不活性な観念」(inert ideas)――記憶されはしても、実際の思考や行動のなかで活用されることのない死んだ知識――を、教育における最大の弊害として厳しく批判した。
これに代えてホワイトヘッドが提唱したのが「教育のリズム」(rhythm of education)という考え方である。これは、学習の過程が「ロマンス」(romance、対象との出会いにおける生き生きとした関心と発見の喜びの段階)、「精密化」(precision、体系的な技法や詳細な知識を着実に習得する段階)、「一般化」(generalization、習得した知識と技法を統合し、新たな関心とともに応用へと開いていく段階)という三つの局面を循環的に経て進んでいくという考え方であり、これらの局面は、学齢や教科の水準に応じて、より大きな規模でも、より小さな規模でも繰り返し現れるとされる。ホワイトヘッドの教育論は、知識の断片的な暗記ではなく、生きた思考として活用されうる理解の獲得を重視するものであり、後の経験主義的・進歩主義的教育論にも通じる先駆的な視座を含んでいる。
現代への影響——過程思想と環境哲学
ホワイトヘッドの哲学は、刊行当初、その難解さゆえに専門の哲学者のあいだでも十分に消化されたとは言いがたい状況にあったが、二十世紀後半以降、複数の分野において再評価と応用の展開を見せている。
第一に、すでに述べた過程神学の系譜は、ハーツホーン、カブ、グリフィンらを通じて今日まで継続的に展開されており、キリスト教神学のみならず、仏教をはじめとする東洋思想との対話や、動物の権利、環境倫理といった実践的な議論とも結びつきながら、独自の思想潮流を形成し続けている。
第二に、ホワイトヘッドの関係主義的存在論――あらゆる存在者を孤立した実体としてではなく、他との相互浸透的な関係のうちに成り立つ出来事として捉える発想――は、環境哲学・エコロジー思想との親和性が広く指摘されてきた。自然を、無関係な部分の寄せ集めとしてではなく、相互に連関しあう出来事の網の目として捉えるホワイトヘッドの自然観は、生態系を有機的な全体性として捉えようとする環境思想の理論的資源として、キャサリン・ケラーをはじめとする論者によって参照されている。
第三に、大陸哲学の領域でも、ジル・ドゥルーズは『襞——ライプニッツとバロック』(1988年)のなかでホワイトヘッドの出来事論・合生の概念を積極的に取り上げ、自らの哲学との接続を試みた。また、科学哲学者イザベル・スタンジェールは『ホワイトヘッドとともに思考する』(Penser avec Whitehead, 2002年)において、ホワイトヘッドの思想を科学論・思弁的実在論の文脈から精緻に読み直し、近年の思弁的実在論(speculative realism)やアクターネットワーク理論をめぐる議論にも、ホワイトヘッド的な発想への参照がしばしば見られる。
このように、数学者として出発したホワイトヘッドが最晩年に築き上げた過程哲学は、当初は難解な形而上学の一体系として孤立していたかに見えながら、神学、環境思想、大陸哲学、科学論といった多様な領域へと分岐しながら、今なお活発な参照点であり続けている。
結論
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの生涯は、数学者としての厳密な訓練と、晩年に開花した壮大な形而上学的構想とが、稀有な仕方で結びついた軌跡として要約できる。ラッセルとの共同作業によって数学基礎論の一時代を築いた前半生、アインシュタインの相対性理論を背景に自然の哲学的記述を模索したロンドン時代、そして還暦を過ぎてハーバードに渡ってから展開された『過程と実在』の壮大な体系――この三つの時期を貫いているのは、静的で固定した対象としてではなく、たえず生成し関係しあう過程として世界を捉えようとする、一貫した知的態度である。
現実的存在と抱握の理論によって伝統的な実体形而上学を組み替え、機械論的自然観を「具体性を置き違える誤謬」として批判し、神を説得的に働きかける双極的な存在として再構想したホワイトヘッドの仕事は、その難解さのゆえに長らく主流の哲学史叙述の周縁に置かれてきた。しかし過程神学や環境哲学、大陸哲学における再評価が示すように、実体ではなく関係と生成を実在の基底に据えるという発想は、二十世紀後半から二十一世紀にかけての哲学が繰り返し立ち返る問いの一つであり続けている。数学から哲学へという異例の転身を遂げたホワイトヘッドの思想は、その意味で、いまなお汲み尽くされていない可能性を蔵していると言えるだろう。