はじめに:現代論理学と分析哲学の父
フリードリヒ・ルートヴィヒ・ゴットロープ・フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848-1925)は、生前ほとんど無名の地方大学教授にすぎなかったにもかかわらず、死後の哲学史において、現代論理学の創始者であり、分析哲学の父と評される人物である。フレーゲの仕事は、二千年以上にわたってアリストテレスの体系にとどまっていた論理学を根本から刷新し、数学の基礎づけという固有の関心のなかから、言語・意味・思考をめぐる哲学の新たな地平を切り開いた。
フレーゲの生涯における知的企図は一貫している。それは、算術の真理が経験や直観にではなく、純粋な論理法則にのみ基づくことを厳密に証明するという「論理主義」(Logizismus)のプログラムであった。この企図を遂行する過程で、フレーゲは量化理論を含む現代述語論理の原型である「概念記法」を考案し、「意義」(Sinn)と「意味」(Bedeutung)の区別という言語哲学上の画期的な概念装置を生み出した。しかし、この壮大な計画は、晩年、バートランド・ラッセルによって指摘された一つの矛盾によって根本的な挫折を迎えることになる。
本稿では、フレーゲの生涯を概観したうえで、概念記法の意義、論理主義プログラムの構造、『算術の基礎』における文脈原理、意義と意味の区別、ラッセルのパラドックスによる挫折、そしてフッサールやウィトゲンシュタインへの影響を順に検討し、最後にフレーゲが「分析哲学の父」と呼ばれる所以を考察する。
生涯——イエナの数学者
フレーゲは1848年、バルト海に面したドイツの都市ヴィスマールに生まれた。父はギムナジウムの校長を務める教育者であった。フレーゲは1869年にイエナ大学に入学し、数学、物理学、化学、哲学を学んだのち、1871年からゲッティンゲン大学に移り、数学者エルンスト・シェーリングのもとで学位論文を完成させた。1873年に博士号を取得し、翌1874年にはイエナ大学で教授資格論文を提出し、私講師としての教職生活を開始した。
フレーゲはその後、イエナ大学に生涯とどまり、1879年に員外教授、1896年に名誉教授(正教授)となった。彼の講義は数学の諸分野にわたっていたが、聴講者の数は決して多くなかったと伝えられている。1879年、フレーゲは最初の主著『概念記法』(Begriffsschrift)を刊行し、これによって独自の論理学体系を世に問うた。以後、1884年に『算術の基礎』(Die Grundlagen der Arithmetik)、1893年と1903年に二巻本の大著『算術の基本法則』(Grundgesetze der Arithmetik)を刊行し、論理主義のプログラムを体系的に展開していった。
しかし、『算術の基本法則』第二巻の刊行直前の1902年、フレーゲはラッセルから、自らの体系に矛盾が含まれることを指摘する書簡を受け取った。この出来事は、フレーゲの生涯における最大の知的挫折となった。フレーゲはその後も研究を続けたが、当初構想していた論理主義の体系を完成させることはなく、1918年から1923年にかけて発表した一連の論考「論理探究」(Logische Untersuchungen)では、思想(Gedanke)や否定、複合思想などをめぐる考察を展開している。フレーゲは1925年、南ドイツのバート・クライネンに没した。
同時代における評価は決して高いものではなかった。フレーゲの著作は当時の数学界・哲学界からほとんど顧みられず、その独創性が広く認識されるようになったのは、バートランド・ラッセルやルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、そして後の分析哲学者たちによって再評価されて以降のことである。
概念記法(Begriffsschrift)——論理学の革命
1879年に刊行された『概念記法——算術の記号言語を模範とする純粋思考のための形式言語』は、その簡潔な書名とは裏腹に、論理学史上もっとも重要な著作の一つに数えられる。フレーゲがここで達成したのは、アリストテレス以来の伝統的論理学(三段論法を中心とする主語・述語形式の論理)を根本的に超える、新しい論理体系の構築であった。
伝統的論理学は、命題を「主語—述語」という文法的形式にもとづいて分析してきた。これに対しフレーゲは、数学における「関数」と「引数」の概念を論理学に導入し、命題を「関数と引数」の構造として分析することを提案した。たとえば「カエサルはガリアを征服した」という文は、「( )はガリアを征服した」という不飽和な関数的部分と、「カエサル」という引数(対象を指す語)とに分解される。この分析は、主語・述語の文法的区別に縛られず、一つの同じ内容を異なる仕方で関数と引数に分解することを可能にし、論理的関係のより精緻な把握を可能にした。
さらに重要なのは、フレーゲが「量化」の概念を初めて厳密に定式化したことである。「すべての」「あるものが存在する」といった量化表現は、伝統論理学のもとでは十分に扱うことができなかったが、フレーゲは束縛変項と量化子の概念を用いることで、多重量化を含む複雑な命題――たとえば「すべての数に対して、それより大きい数が存在する」のような命題――を厳密に表現し、その妥当な推論を機械的に検証可能な仕方で定式化することに成功した。これは、今日「一階述語論理」として知られる体系の実質的な原型であり、現代論理学の出発点をなすものである。
フレーゲの記法自体は、二次元的な樹形図に似た独特の表記法を用いており、視覚的な複雑さから同時代にはほとんど受け入れられなかった。今日一般に用いられる記号論理学の表記法は、後にジュゼッペ・ペアノやラッセル、ホワイトヘッドらによって整備されたものであるが、その論理的な核心――関数・引数分析と量化理論――は、フレーゲの概念記法に由来するものである。
論理主義プログラム——数学を論理へ還元する
フレーゲが概念記法を構築した目的は、それ自体を自己目的とするものではなかった。フレーゲの根本的な関心は、算術(自然数論)の真理が、経験的な観察にも、カントが主張したような直観の形式にも依拠せず、もっぱら論理法則と定義のみから導出しうることを、厳密な証明によって示すことにあった。この企図が「論理主義」(Logizismus)と呼ばれるプログラムである。
フレーゲの論理主義は、当時支配的であった二つの立場に対する批判として提起された。第一は、ジョン・スチュアート・ミルに代表される経験主義的な数論理解であり、これは算術の真理を、物理的対象の集合についての一般化された経験的事実とみなすものであった。フレーゲはこれに対し、数の真理が持つ必然性・普遍性・確実性は、経験的一般化からは決して説明できないと論じた。たとえば「777864 は 966 の倍数である」というような真理は、これを経験的に確かめた者がいなくとも真であり続けるのであって、経験的一般化の性格とは根本的に異なる。
第二は、イマヌエル・カントの立場であり、カントは算術の命題を「総合的アプリオリ」な真理とみなし、時間という直観の形式に基づくと考えた。フレーゲは、幾何学については総合的アプリオリという性格づけを一定程度認めたものの、算術(とりわけ数の概念そのもの)については、これを純粋に論理的な概念のみから定義し、その基本法則を論理法則のみから導出できると考え、算術を「分析的」な真理の体系として位置づけ直そうとした。
このプログラムを遂行するにあたり、フレーゲは同時代に急速に台頭しつつあった「心理主義」(Psychologismus)――論理法則や数学的真理を、人間の思考の心理的な働き方についての一般化に還元しようとする立場――に対して、終始一貫して激しい批判を展開した。フレーゲにとって、論理法則は人間がどのように考えるかという心理的事実とは独立に成り立つ客観的な真理であり、思考の対象である「思想」(Gedanke)は、物理的世界にも心理的な表象にも属さない、第三の独自の領域に存在するものであった。この反心理主義の姿勢は、後の現象学や分析哲学における論理と心理の峻別という方法論的立場に、大きな影響を及ぼすことになる。
『算術の基礎』と文脈原理
1884年に刊行された『算術の基礎』は、フレーゲの論理主義プログラムを、記号を用いない平易な散文によって提示した著作であり、今日でも哲学的分析の模範として広く読まれている。フレーゲはこの書物のなかで、数とは何かという根本的な問いに取り組み、数を心理的表象や物理的対象の集まりとみなす既存の諸理論を次々に批判的に検討したうえで、数を論理的な対象として定義し直す道を示した。
この書物の序文でフレーゲは、探究にあたって遵守すべき三つの原則を提示している。第一に、心理的なものと論理的なもの、主観的なものと客観的なものを常に峻別すること。第二に、語の意味を、その語が孤立した状態でではなく、常に文全体という文脈のなかで問うこと。第三に、概念と対象の区別を見失わないこと。この第二の原則が、今日「文脈原理」(Kontextprinzip)として知られるものである。
文脈原理は、フレーゲの数の定義そのものを支える方法論的な鍵をなしている。「数とは何か」を、数という語が単独で何を指すかを直接に問うことによって答えようとすると、われわれはただちに困難に陥る。しかしフレーゲは、「〇〇の数はいくつか」という形式の文全体の意味をまず明確にし、そのうえで、その文脈のなかで数を表す語が何を指しているかを間接的に特定するという方法をとった。フレーゲはここで、二つの概念の外延が過不足なく一対一に対応すること(今日「ヒュームの原理」と呼ばれる関係)を手がかりとし、最終的には、ある概念に属する対象の個数(基数)を、その概念と外延を同じくする(同数的である)すべての概念の外延として定義するという道筋を示した。
この文脈原理は、単に数学の基礎論における技術的な工夫にとどまらず、言語の意味についての一般的な洞察を含んでいる。語の意味を孤立させて探求するのではなく、文という有意味な全体のなかで捉えるべきだという発想は、二十世紀の言語哲学における「意味の全体論」的な考え方の先駆けとみなされており、後にウィトゲンシュタインやクワインらの言語哲学にも、形を変えながら受け継がれていくことになる。
SinnとBedeutung——意義と意味の区別
1892年に発表された論文「意義と意味について」(Über Sinn und Bedeutung)は、フレーゲの言語哲学における最も影響力の大きい業績である。この論文でフレーゲは、単称名辞(固有名や確定記述)が持つ意味論的な性格を、「意義」(Sinn)と「意味」(Bedeutung、しばしば「指示」とも訳される)という二つの水準に分けて分析した。
フレーゲが出発点とするのは、「a = a」という自明な同一性言明と、「a = b」という、対象については同一の同一性言明でありながら、しばしば実質的な情報をもたらす言明との違いである。フレーゲが挙げる有名な例が、「宵の明星」(Abendstern)と「明けの明星」(Morgenstern)である。この二つの語はいずれも同じ天体、すなわち金星を指している。したがって両者の「意味」(指示対象)は同一である。しかし、「宵の明星は明けの明星である」という言明は、単なる同語反復ではなく、天文学的発見として実質的な情報を伝えるものであった。もし両者の意味だけが問題であるなら、この違いは説明できない。
この違いを説明するためにフレーゲが導入したのが「意義」の概念である。「意義」とは、ある表現が対象を指し示す際の、その指示の「与えられ方」(Art des Gegebenseins)である。「宵の明星」と「明けの明星」は、同一の対象(金星)を指しながら、異なる意義――すなわち異なる仕方でその対象を提示する認識的な経路――を持つ。したがって、「宵の明星は明けの明星である」という文は、意味においては自明であっても、意義においては新しい認識内容を伝えるのである。
フレーゲはこの区別を、単称名辞だけでなく文全体にも拡張した。文全体の「意味」は、その文の真理値(真または偽)であるとフレーゲは論じた。同じ真理値を持つ二つの文は、指示という観点からは同じ対象(真あるいは偽という真理値)を指していることになる。これに対し、文の「意義」は、その文が表現する「思想」(Gedanke)――すなわち文が主張する命題内容――である。この分析によって、フレーゲは、真理値を変えずに文の構成要素を同じ意味を持つ別の表現に置き換えられるという「代入の原理」(合成性原理と密接に関わる原理)を、意義と意味という二つの水準に整合的に位置づけることができた。
意義と意味の区別は、その後の言語哲学における指示理論・記述理論の展開に決定的な影響を及ぼした。ラッセルの確定記述の理論、クリプキによる固有名の直接指示説とフレーゲ主義への批判など、二十世紀後半の言語哲学の主要な論争の多くは、フレーゲが提起したこの区別を出発点として展開されている。
ラッセルのパラドックスによる挫折
フレーゲの論理主義プログラムの体系的な集大成として構想されたのが、1893年と1903年の二巻にわたって刊行された『算術の基本法則』である。この著作でフレーゲは、概念記法を用いた厳密な形式的体系のなかで、自然数論の諸定理を論理法則と定義のみから導出することを試みた。
この体系のなかでフレーゲが用いた基本法則の一つが、「基本法則V」(Grundgesetz V)と呼ばれる公理である。この公理は、おおよそ、任意の概念にはその「外延」(その概念の下に入るすべての対象の集まり)が対応する、という趣旨の主張であり、概念の外延を論理的対象として自由に扱うことを可能にするものであった。フレーゲの数の定義そのものが、概念の外延という観念に依拠していたため、この基本法則Vは、フレーゲの体系全体にとって不可欠の礎石をなしていた。
ところが1902年、『算術の基本法則』第二巻が印刷段階に入っていた時期に、フレーゲはラッセルから一通の書簡を受け取った。ラッセルはその書簡のなかで、基本法則Vから矛盾が導出されることを指摘した。すなわち、「自分自身を要素として含まない集合すべての集合」を考えると、この集合が自分自身を要素として含むと仮定しても、含まないと仮定しても、いずれの場合にも矛盾が生じる。これが今日「ラッセルのパラドックス」として知られる論理的矛盾であり、フレーゲの体系のなかでは、概念の外延を無制限に対象として認める基本法則Vによって、まさにこの種の矛盾が生成されてしまうことをラッセルは示したのである。
フレーゲはこの指摘を深刻に受け止め、『算術の基本法則』第二巻の巻末に急遽補遺を付し、学問的な仕事を終えたのちにその基礎が揺らぐことほど研究者にとって不幸なことはない、という趣旨の率直な言葉を記した。フレーゲはこの補遺のなかで、基本法則Vを修正した代替案を提示し、矛盾の回避を試みたが、この修正案は後に、パラドックスを回避できないか、あるいは体系を著しく貧弱なものにしてしまうことが明らかになった。
この挫折によって、フレーゲが構想した意味での論理主義プログラム――算術の全体を、無制限な内包(概念の外延)の存在を認める論理体系のみから導出するという企図――は、事実上破綻した。フレーゲ自身は、その後、数の理論を幾何学的直観に基づいて再構築する可能性を模索したとされるが、当初の体系に匹敵する成果を上げることはなく、生前に満足のいく解決に到達することはなかった。ラッセルのパラドックスは、その後、ツェルメロ゠フレンケル集合論における公理的制約や、ラッセル自身のタイプ理論など、集合や内包の無制限な形成を制限する様々な方策を通じて、数学基礎論のなかで受け止められていくことになる。
フッサール・ウィトゲンシュタインへの影響
フレーゲの思想は、同時代および後続の哲学者たちに、しばしば直接的な仕方で影響を及ぼした。その代表的な例が、エトムント・フッサールとの関係である。フッサールは1891年に『算術の哲学』(Philosophie der Arithmetik)を刊行し、数の概念を心理的な作用(集合形成の作用)に基づいて基礎づけようとした。フレーゲはこの著作に対して1894年に書評を発表し、フッサールの立場を心理主義の一種として厳しく批判した。フレーゲの批判は、数学的真理の客観性と、それを把握する心理的過程とを混同してはならないという、フレーゲの一貫した反心理主義の立場から発せられたものであった。
この批判がフッサール自身の思想的展開にどの程度直接的な影響を及ぼしたかについては、研究者のあいだで見解が分かれるものの、フッサールがその後、1900年から1901年にかけて『論理学研究』(Logische Untersuchungen)を刊行し、その第一巻で心理主義批判を正面から展開したことは事実であり、フレーゲの批判が、フッサールを心理主義的立場から論理学の客観性を擁護する立場へと向かわせる一つの契機となったことは、広く認められている。
もう一つの重要な影響関係が、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとの関係である。ウィトゲンシュタインは、青年期にフレーゲのもとを訪れ、その思想について議論を交わしたことが知られている。ウィトゲンシュタインはこの折にフレーゲから、ケンブリッジのラッセルのもとで学ぶことを勧められたと伝えられており、この助言がウィトゲンシュタインの思想的出発点の一つとなった。ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus)は、フレーゲの記法や理論そのものではなく、その根底にある発想――命題を関数と引数の構造から分析すること、文脈原理を重視すること、意味の理論において論理的形式を厳密に問うこと――を、独自の仕方で継承し、また批判的に組み替えたものである。『論理哲学論考』の献辞にはフレーゲとラッセルの名が並んで記されており、ウィトゲンシュタイン自身が両者を自らの思想の出発点として明示的に位置づけていたことがうかがえる。
分析哲学の父としての評価
フレーゲが「分析哲学の父」と呼ばれるようになった背景には、二十世紀後半における哲学史の再構成という事情がある。フレーゲの著作は、刊行当時はほとんど注目されなかったが、ラッセルが『数学の原理』(The Principles of Mathematics, 1903)のなかでフレーゲの業績に敬意を払いつつ言及したことをきっかけに、徐々にその重要性が認識されるようになった。さらに、二十世紀後半、イギリスの哲学者マイケル・ダメットが『フレーゲ——言語の哲学』(Frege: Philosophy of Language, 1973)をはじめとする一連の研究を通じて、フレーゲの思想を体系的に再解釈し、フレーゲを分析哲学という哲学的潮流の実質的な創始者として位置づける解釈を提示したことが、この評価の定着に大きく寄与した。
分析哲学の方法論的な特徴の一つは、哲学的探究を言語の論理的分析を通じて遂行するという、いわゆる「言語論的転回」(linguistic turn)にある。フレーゲが確立した関数・引数分析、量化理論、意義と意味の区別、文脈原理といった諸概念は、この言語論的な方法論の技術的な基盤を提供するものであり、ラッセルの記述理論、論理実証主義における意味の検証理論、そしてウィトゲンシュタインの前期・後期の言語哲学のいずれもが、フレーゲの提起した問題設定と概念装置を、何らかの仕方で継承し、あるいはそれに応答するかたちで展開されている。
同時に留意すべきは、フレーゲ自身は「分析哲学者」という自己理解を持っていたわけではなく、あくまで数学の基礎づけという固有の関心から出発した数学者・論理学者であったという点である。フレーゲを分析哲学の起点とする物語は、後世の哲学者たち、とりわけダメットらの解釈的作業を通じて事後的に構築された哲学史像であることも、正確な理解のためには付言しておく必要がある。とはいえ、フレーゲが切り開いた論理学と言語の分析という方法が、二十世紀の英米圏の哲学に与えた影響の大きさそのものは、いかなる評価者からも否定されていない。
結論
フレーゲの生涯は、算術を論理学へと還元するという壮大な企図のもとに一貫していたが、その企図は、ラッセルのパラドックスという一つの矛盾によって、最終的には未完のまま挫折した。しかし、この挫折そのものが、二十世紀の数学基礎論における集合論的パラドックスの探究を促し、同時にフレーゲが構築の途上で生み出した諸概念――概念記法における関数・引数分析と量化理論、文脈原理、そして意義と意味の区別――は、数学の基礎づけという当初の文脈を超えて、独立した哲学的価値を持つ遺産として二十世紀の哲学に受け継がれた。
フッサールに対する批判が現象学における心理主義批判を促し、ウィトゲンシュタインがフレーゲの発想を『論理哲学論考』へと結実させ、さらに後世の哲学者たちがフレーゲを分析哲学の始点として再解釈していった経緯は、一人の目立たない地方大学教授の仕事が、いかにして二十世紀哲学の広大な領野を方向づけることになったかを物語っている。フレーゲの思想は、その挫折も含めて、論理と言語をめぐる哲学的探究がなお持ちうる厳密さと射程の広さを、今日にいたるまで示し続けている。