はじめに:プラグマティズムの完成者
ジョン・デューイ(John Dewey, 1859-1952)は、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズとともにアメリカ・プラグマティズムを代表する哲学者であり、二十世紀前半のアメリカ思想界において、哲学・心理学・教育学・社会理論にまたがる巨大な知的影響力を行使した人物である。九十二年に及ぶその生涯は、南北戦争直後のヴァーモントから、二度の世界大戦を経た冷戦初期のニューヨークにまで及び、アメリカの近代化そのものと並走するものであった。
デューイの思想の特徴は、特定の一分野に閉じることなく、論理学、形而上学、倫理学、美学、宗教哲学、そして教育理論と社会理論とを、一貫した自然主義的・経験主義的な枠組みのなかで統合しようとした点にある。彼にとって哲学は、専門家の間だけで完結する抽象的な体系構築の営みではなく、人間が直面する現実の問題状況を明晰にし、よりよい生の再構成に資するための道具でなければならなかった。この「哲学は問題解決の道具である」という発想は、デューイの思想全体を貫く道具主義(instrumentalism)の根本姿勢である。
本稿では、デューイの生涯を概観したうえで、パース・ジェイムズとの関係のなかにプラグマティズムの系譜を位置づけ、道具主義の論理、経験概念の再構成、シカゴ実験学校における教育実践、『民主主義と教育』にみる教育哲学、探究の論理としての『論理学』、『経験としての芸術』における美学、そして民主主義論について順を追って検討し、最後に日本を含む現代への影響を考察する。
生涯——バーモントからコロンビアへ
デューイは1859年、ヴァーモント州バーリントンに生まれた。ヴァーモント大学で学んだのち、公立学校の教員としてしばらく勤務した後、1882年にジョンズ・ホプキンズ大学の大学院に進学した。同大学院では、心理学者G・スタンリー・ホールのもとで実験心理学を、そしてヘーゲル研究者ジョージ・シルヴェスター・モリスのもとでヘーゲル哲学を学んだ。デューイの初期思想は色濃くヘーゲル的観念論の影響を受けており、この時期の彼は、精神と自然、個人と社会といった対立を弁証法的な統一のうちに解消しようとする志向を強く持っていた。1884年に博士号を取得したデューイは、ミシガン大学、ミネソタ大学で教鞭をとったのち、1894年にシカゴ大学に招かれ、哲学・心理学・教育学を統括する学部の主任教授に就任した。
シカゴ大学時代のデューイは、ジョージ・ハーバート・ミードやジェイムズ・ローランド・エンジェルらとともに、いわゆる「シカゴ学派」の機能主義心理学とプラグマティズム哲学を牽引した。この時期に、後述する実験学校(デューイ・スクール)の運営にも携わっている。しかし大学当局との軋轢もあって、1904年にデューイはシカゴを去り、コロンビア大学に移籍する。以後、1930年に名誉教授として退職するまで、コロンビア大学およびティーチャーズ・カレッジを拠点として旺盛な著述活動を続けた。
デューイの思想的関心は、大学の研究室にとどまらなかった。彼は1919年から1921年にかけて日本と中国を訪れ、東京帝国大学での連続講演(後に『哲学の改造』として出版される)を行うとともに、中国では約二年にわたって各地で講演を重ねた。中国滞在は、コロンビア大学での教え子であった胡適(フー・シー)の招聘によるものであり、五四運動期の中国知識人に大きな影響を与えた。また1937年には、モスクワ裁判でスターリン体制から告発されたレフ・トロツキーの事件を検証する国際調査委員会(いわゆるデューイ委員会)の委員長をメキシコシティで務め、トロツキーへの容疑には根拠がないとする報告書をまとめている。デューイはまた、アメリカ大学教授連合(AAUP)やアメリカ教員連盟(AFT)、アメリカ自由人権協会(ACLU)の設立にも関与し、公共的知識人として社会運動に積極的に関与し続けた。1952年、ニューヨークで没した。
パース、ジェイムズとプラグマティズムの系譜
デューイの思想を理解するうえで欠かせないのが、プラグマティズムという運動そのものの系譜である。プラグマティズムの起源は、チャールズ・サンダース・パースが1870年代に「形而上学クラブ」での議論をもとに定式化した「プラグマティックの格率」に遡る。パースは1878年の論文「われわれの観念を明晰にする方法」において、ある概念の意味とは、その概念を真とすることから生じる実際的な効果の総体にほかならないと論じた。これは概念の意味を明晰化するための方法論的な格率であり、パースにとってプラグマティズムはあくまで論理学・記号論の一部門であった。
この格率を大きく普及させ、真理論にまで拡張したのがウィリアム・ジェイムズである。ジェイムズは1907年の『プラグマティズム』において、ある観念が「真である」とは、その観念が経験の流れのなかで実際に「働く」こと、すなわち他の経験や行動と有効に結びつき、満足のいく結果をもたらすことであると論じた。パースはこうしたジェイムズ流の通俗化に不満を抱き、自らの立場を「プラグマティシズム」という「誘拐されるには醜すぎる」名で呼び直したことはよく知られている。
デューイは、パースの論理学的厳密さとジェイムズの心理学的・生物学的な発想の双方を継承しながら、これを独自の方向へと展開した。デューイの立場はしばしば「道具主義」と呼ばれ、ジェイムズの真理論に見られる個人的満足の要素よりも、ダーウィン進化論に基づく有機体と環境の相互作用、そして探究という社会的・生物学的プロセスの分析に重心を置く。デューイにとってプラグマティズムとは、単に真理を有用性によって定義する立場ではなく、人間の知性を生物学的適応の一形態として、また社会的協働の道具として捉え直す、より広範な哲学的企てであった。この意味で、デューイはパース、ジェイムズに続く第三の、そして最も体系的なプラグマティストとして位置づけられる。
道具主義——観念は行動のための道具である
デューイの哲学の核心をなすのが「道具主義」(instrumentalism)である。この立場は、1903年にシカゴ大学の同僚たちと共著した論文集『論理学説研究』において最初にまとまった形で提示され、以後の著作を通じて展開されていく。
道具主義の要点は、観念・概念・理論を、あらかじめ存在する実在をそのまま映し出す「表象」としてではなく、問題的な状況を解決するために人間が作り出す「道具」として捉える点にある。デューイによれば、思考は、生活のなかで生じる「不確定な状況」(indeterminate situation)——すなわち、既存の習慣的な対処法では処理しきれない、疑わしく、乱れた状況——に直面したときに始まる。この不確定な状況を、明確に構造化された「確定的な状況」へと転換していく過程が「探究」(inquiry)であり、観念や仮説は、この転換を媒介する道具として機能する。
したがって、ある観念の真偽は、それが固定された実在と正確に対応しているかどうかによってではなく、それが問題解決においてどれほど有効に機能するか、すなわちその観念に基づいて行動した結果が、当初の問題状況を実際に解消するかどうかによって評価される。デューイはこの点を強調するために、後年、「真理」という語よりも「保証された言明可能性」(warranted assertibility)という表現を好んで用いるようになった。これは、探究の暫定的な到達点としての知識が、絶対不変の真理としてではなく、特定の探究の文脈において十分な根拠づけを得た主張として理解されるべきだという含意を持つ。
この道具主義は、伝統的な認識論が前提としてきた、精神が受動的に世界を映し出す「傍観者的な知識観」(spectator theory of knowledge)への根本的な批判でもある。デューイにとって知性とは、観照的な能力ではなく、環境との能動的な取引(transaction)を通じて問題を解決していく実践的能力にほかならない。
経験の再構成
デューイの思想を貫くもう一つの中心概念が「経験」(experience)である。デューイは、ロックやヒュームに代表される伝統的経験論が、経験を単なる感覚与件の受動的な集積として捉えてきたことを批判する。デューイにとって経験とは、有機体としての人間が環境との間で行う能動的な相互作用(interaction)の総体であり、単に「知る」ことだけでなく、「なす」(doing)ことと「被る」(undergoing)ことの連続的なリズムから成り立っている。
1925年の『経験と自然』において、デューイはこの経験概念をより体系的な自然主義的形而上学のうちに位置づけた。ここでデューイが目指したのは、経験を自然から切り離された主観的な内的領域としてではなく、自然そのものが人間という有機体を通じて自己を開示する一つのあり方として捉えることであった。経験は自然と対立する「ヴェール」ではなく、むしろ自然の性質を明らかにする「denotative(指示的)」な出発点なのである。
このような経験理解は、「習慣」(habit)と「反省的思考」(reflective thinking)の関係についてのデューイの分析とも結びついている。人間の行動の大半は習慣によって円滑に遂行されるが、既存の習慣が環境との摩擦に直面し、行動の連続性が断ち切られたとき、反省的思考、すなわち探究のプロセスが始動する。デューイは1910年の『思考の方法』(How We Think)において、この反省的思考の過程を、問題の感受、問題の定式化、仮説の提起、仮説の推論的展開、そして行動による検証という一連の段階として分析しており、この分析は後の「探究の論理」の骨格をなすことになる。
シカゴ実験学校——教育哲学の実験室
デューイの教育思想を語るうえで欠かせないのが、1896年にシカゴ大学附属として設立された実験学校、通称「デューイ・スクール」である。この学校は、デューイの妻アリス・チップマン・デューイが実質的な運営に深く関わりながら、当初十数名の児童から出発し、1902年頃には百四十名程度の規模にまで拡大した。
デューイ・スクールの教育課程の中心に据えられたのが「オキュペーション」(occupations)、すなわち料理、織物、木工、園芸といった、実生活と結びついた活動であった。これらの活動は職業訓練を目的とするものではなく、子どもが持つ社会的な衝動——コミュニケーションへの衝動、構成(ものづくり)への衝動、探究への衝動、そして表現への衝動——を出発点として、そこから自然に科学・数学・歴史・言語・芸術といった諸科目の学習へと展開していくよう設計されていた。デューイは1899年の『学校と社会』、1902年の『子どもとカリキュラム』において、こうした教育理念を理論的に基礎づけている。とりわけ『子どもとカリキュラム』では、子どもの興味を絶対視する「子ども中心主義」と、教科の体系性を絶対視する「教科中心主義」という、当時の教育論争における二つの極端な立場をともに退け、子どもの現在の経験と教科の論理的構造とを、成長の過程のなかで橋渡しすることの重要性を説いた。
デューイ・スクールは、大学当局との財政的・運営的な軋轢のなかで1904年に他の学校に統合される形で終焉を迎え、この経緯はデューイがシカゴを去ってコロンビア大学に移る一因ともなった。しかしこの実験学校での経験は、デューイの教育哲学に具体的な実践の裏づけを与え、後の進歩主義教育運動(progressive education)に決定的な影響を及ぼすことになった。
『民主主義と教育』——教育哲学の体系
デューイの教育哲学は、1916年の主著『民主主義と教育』において体系的に展開される。この書物においてデューイは、教育を「経験の絶えざる再構成ないし再組織」として定義する。教育は将来の生活のための準備ではなく、それ自体が生の過程の一部であり、成長そのものが教育の目的であって、成長には固定された外的な到達点があるわけではない。「教育は生への準備ではなく、教育それ自体が生である」というデューイの有名な言明は、この立場を端的に表している。
『民主主義と教育』はまた、学校を「小型化された共同体」(embryonic community)として構想する。デューイにとって学校とは、単に既存の知識を次世代へ伝達する装置ではなく、子どもたちが協働的な活動を通じて社会的な生を学ぶ場である。デューイは、労働と余暇、職業教育と教養教育、身体と精神といった、近代の教育制度が前提としてきた数々の二元論を批判し、これらの分離が、階級的な分業構造を教育の場に持ち込むものであると論じた。
この書物のタイトルが示すとおり、デューイにとって教育論と民主主義論は不可分に結びついている。民主主義とは単なる統治形態ではなく、「連帯した生活の様式であり、共同で伝達される経験の様式」であるとデューイは述べる。多様な集団や利害が絶えず相互に影響し合う社会において、構成員が広範な経験を共有し、自由なコミュニケーションを通じて共通の関心を形成していく過程そのものが民主主義の本質であり、そうした民主主義的な生活様式を担いうる市民を育成することこそが、教育の社会的使命であるとデューイは考えた。
探究の論理
デューイの論理学説は、1938年の『論理学:探究の理論』において最終的な体系化を見る。デューイはここで、論理学を、あらかじめ存在する形式的な妥当性の規則の体系としてではなく、探究という具体的な生物学的・社会的プロセスを記述し、その規範を明らかにする経験的な理論として構想した。
デューイの定義によれば、探究とは「不確定な状況を、その構成要素の区別と関係とにおいて十分に確定したものへと、統制されたかたちで転換し、もとの状況の諸要素を統一された全体へと変換する働き」である。この定義に示されるように、探究の出発点は単なる知的な疑念ではなく、行動と環境との間に生じる実存的な混乱、すなわち「問題的状況」(problematic situation)そのものである。探究のプロセスは、状況の感受、問題の定式化、示唆・仮説の提起、仮説の理論的展開(推論)、そして操作的な検証という一連の段階を経て進行し、最終的に状況の再統合に至る。
この探究の論理は、自然科学における実験的探究にのみ妥当するものではなく、日常的な思考や道徳的判断にも共通する一般的なパターンとしてデューイによって提示された点に特徴がある。デューイはこのようにして、論理学を心理学や生物学から切り離された純粋にア・プリオリな学として扱う伝統的立場から距離を置き、論理を人間の探究活動という自然的事象の一部として位置づけ直したのである。
芸術論——『経験としての芸術』
1934年に刊行された『経験としての芸術』は、デューイの美学思想の集大成であり、1931年にハーヴァード大学で行ったウィリアム・ジェイムズ講義に基づいている。デューイはこの書物で、芸術作品を美術館や演奏会場といった特別な制度に囲い込まれた孤立した対象として扱う見方——デューイがしばしば批判した「美術館的な芸術観」——を退け、芸術的経験を日常経験の延長線上に位置づけ直そうとする。
デューイにとって美的経験の本質は、経験が一つのまとまりをもって完結し、満足のいく仕方で成就される点にある。彼はこうした充実した経験を、単なる「経験一般」と区別して「一つの経験」(an experience)と呼んだ。日常生活における経験の多くは、断片化され、外的な妨げによって中断され、明確な完結を欠いている。これに対し、美的な性質を帯びた経験は、「なす」(doing)ことと「被る」(undergoing)ことのリズミカルな相互作用を通じて、始まりから終わりまでが有機的に統一され、一つの全体として成就される。この意味で美的経験は芸術作品の鑑賞に限定されるものではなく、たとえば熟練した職人の仕事や、充実したスポーツの経験のうちにも見出されうるとデューイは考えた。
このようにデューイの芸術論は、経験の理論・道具主義的な知性理解・自然主義的な形而上学と密接に結びついており、美学を孤立した専門領域としてではなく、彼の哲学体系全体の延長として展開したものと理解することができる。
民主主義論と現代への影響
デューイの民主主義論は、教育哲学にとどまらず、独立した政治哲学としても展開される。1927年の『公衆とその諸問題』は、ジャーナリストのウォルター・リップマンが『世論』(1922年)や『幻の公衆』(1925年)において示した、複雑化した産業社会における一般市民の判断能力への懐疑論に対する応答として書かれた。リップマンが専門家によるエリート統治の必要性を説いたのに対し、デューイは、民主主義の危機を克服する道は、専門知を排除することではなく、市民相互のコミュニケーションと協働的探究の質を高めることにあると論じた。産業化によって拡大した「大社会」(Great Society)を、対話と共有された経験に基づく「大共同体」(Great Community)へと転化させることこそが、デューイの構想する民主主義の課題であった。
デューイは晩年の1939年の講演「創造的民主主義」においても、民主主義を単なる政治制度としてではなく、「生活の様式」(a way of life)として捉える立場を繰り返し強調している。それは、他者の潜在的な能力への信頼、自由なコミュニケーションへの信頼、そして共同の探究による問題解決の可能性への信頼を核とする、一種の知的・道徳的な信念の体系なのである。
デューイの思想は、二十世紀後半のアメリカ哲学において一時的に分析哲学の隆盛のなかで周辺化されたが、リチャード・ローティらのネオプラグマティズムによって再評価され、今日では認識論・教育哲学・政治哲学の各分野で継続的に参照されている。日本においても、1919年のデューイ自身による東京帝国大学での講演以来、その教育思想は大正期の新教育運動、さらには第二次世界大戦後の教育基本法制定期における経験主義的なカリキュラム改革に大きな影響を与えた。中国においても、教え子であった胡適の仲介によるデューイ自身の長期講演旅行を通じて、五四運動期の知識人たちに広く受容された。このように、デューイの思想は、アメリカ一国の哲学的伝統を超えて、東アジアの近代教育思想の形成に具体的な足跡を残している。
結論
デューイの哲学は、パースの論理学的プラグマティズムとジェイムズの心理学的・多元主義的プラグマティズムを継承しつつ、これをダーウィン的な自然主義のもとで統合し、経験・探究・成長という一連の概念を軸とする体系へと結実させたものである。道具主義の論理学、経験の再構成、シカゴ実験学校に体現された教育実践、『民主主義と教育』の教育哲学、そして『経験としての芸術』の美学は、いずれも、知性を静観的な能力としてではなく、環境との能動的な取引を通じて問題を解決し続ける実践的な力として捉えるという、一貫した哲学的立場から発している。
そして、この知性観の帰結として展開される民主主義論は、政治制度の技術的な設計問題を超えて、共同体における対話と協働的探究のあり方そのものを問うものであった。専門化と分業が進み、公共的な討議の基盤が絶えず脅かされる現代社会において、デューイが提起した、コミュニケーションに基づく協働的探究としての民主主義という理念は、なお検討に値する思想的資源であり続けている。