バークリー:観念論と「存在するとは知覚されること」

バークリーの生涯と知的背景

ジョージ・バークリー(George Berkeley, 1685-1753)は、アイルランドに生まれた、イギリス経験論の伝統に属する思想家である。しかし、彼の思想は、同じ経験論の伝統に属するロックやヒュームとは、根本的に異なるものである。むしろ、バークリーは、経験論の基本的前提を激進的に推し進めることによって、従来の物質主義的形而上学を根本から問い直そうとしたのである。

バークリーは、ダブリンの近郊に生まれ、トリニティ・カレッジで学んだ。彼の教育は、当時の標準的なイギリスの知識人教育を受けたものであり、古典的著作、デカルト哲学、そしてロックの経験論に関する知識を習得した。特に、ロックの『人間知識論』は、バークリーの思想形成に重大な影響を与えた。バークリーは、ロックの論証を詳細に検討し、ロックの物質概念に対して、根本的な批判を展開することになったのである。

当時のヨーロッパ哲学の舞台では、デカルト、ロック、スピノザ、ライプニッツなどの大思想家たちが活躍しており、知識論、実体論、神学的問題について激烈な議論が展開されていた。同時に、ニュートン物理学が急速に浸透し、機械的な物質世界観が科学的真理として受け入れられようとしていた時期でもある。バークリーは、こうした知的環境の中で、物質主義的な世界観が感覚経験と矛盾しているだけでなく神学的にも問題があると考えた。むしろ、すべての現象は神の心の中に存在する観念であり、私たち人間も神の知覚の中に存在する知覚主体なのだという思想を展開することで、観念論を完成させ、これを神の絶対的存在と結びつけたのである。

知識人としての活動

バークリーは、その人生において、様々な役割を担った。彼は、ダブリン大学の哲学教授として教鞭を取り、また、聖公会の聖職者としても活動した。さらに、彼は、バルバドスでの教育的プロジェクトの実現を目指して、北米へも航海した。

バークリーの主著『人知原理論』(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge)は、1710年に発表された。この著作は、当初、その激進的な観念論的主張によって、かなりの反発を受けた。しかし、その後、バークリーは、自らの理論をより詳細に説明するために、『ハイラス・フィロヌス対話』(Three Dialogues between Hylas and Philonous, 1713年)という対話形式の著作を発表し、自らの観念論を、より説得的に示そうとしたのである。

観念論の基本的主張

ロックの物質概念に対する批判

バークリーが批判の対象としたのは、主としてロックの経験論である。ロックは、人間の知識はすべて経験に基づくと主張していた。しかし、ロックは同時に、経験の対象である物質的事物が、感覚観念の背後に、独立して存在していると仮定していたのである。私たちが物質的実体について知ることができるのは、常にその性質を通じてであるはずなのに、ロックはその性質の背後に、決して知覚されることのない実体の存在を想定した。

ロックは、原質性(primary qualities)と副次性(secondary qualities)を区別した。原質性とは、拡張性、図形、運動、数といった、物質自体に本質的に属する性質である。副次性とは、色、音、臭いといった、物質が知覚者の中に生じさせる観念に過ぎない性質である。

ロックの物質概念によれば、物質的事物は、これらの原質性を有する独立的な実体として存在し、人間がそれを知覚するとき、人間の心の中に、観念が生じるのである。物質は、知覚の対象ではあるが、知覚から独立して存在する実体である。この区別は、当時の物理学的世界観と調和するものであり、多くの哲学者に受け入れられていた。

原質性の批判

バークリーは、ロックの原質性と副次性の区別に対して、根本的な批判を加える。彼の主張によれば、原質性もまた、副次性と同じく、知覚される観念に過ぎないのである。拡張性とは何か。それは、視覚や触覚を通じて知覚される観念である。図形とは何か。それもまた、視覚や触覚の観念である。運動とは何か。それもまた、運動として知覚される観念である。

例えば、三角形の「形」を考えてみよう。私たちは三角形の形を知覚するが、この知覚される形は、どの角度から見ているか、どれほど近くから見ているか、何色の光の下で見ているかに依存している。形そのものは、常に何らかの特定の視点から、特定の光の条件下で知覚されるのであり、純粋な形そのものが見えることはない。すべての知覚は、知覚者の特定の位置、特定の感覚器官に依存しており、したがってすべての知覚的性質は本質的に相対的であり、主観的なのである。

つまり、ロックが原質性と考えたものも、実は、すべて知覚である。それらは、感覚主体の心の中に存在する観念に過ぎず、物質的事物の中に独立して存在する性質ではないのである。

バークリーは、さらに詳細な議論を展開する。拡張性、図形、運動などの性質は、それら自体では、決して知覚不可能である。むしろ、我々は、色、音、臭いなどの感覚的観念を通じてのみ、これらの性質を知覚することができるのである。もし、物質が色を持たず、音や臭いを有しないならば、拡張性や図形をいかにして知覚することができるのか。実質的には、すべての知覚的性質が、観念なのである。そうだとすれば、「見えない物質的実体」という概念は、何の根拠もない空虚な概念となる。物質的実体は、その性質を通じてのみ認識されるはずだが、その性質がすべて知覚依存的であり、主観的であるならば、その背後に存在するはずの物質的実体とは、一体何なのだろうか。バークリーの答えは明確である。物質的実体は存在しないのだ。

「存在するとは知覚されること」

バークリーの観念論の核心は、簡潔な一つの命題に要約することができる。「存在するとは知覚されることである」(Esse est percipi)。この命題は、物質的事物の独立的な存在を否定し、すべての存在が、知覚に基づくことを主張している。この命題は、哲学史上で最も激論を呼び起こした命題の一つであり、多くの批評家から様々な攻撃を受けてきたが、バークリーがこの命題を展開した論理は、実は非常に厳密であり、彼の哲学的体系の中では必然的な帰結なのである。

物質的事物と呼ばれるものは、実は、感覚的観念の集合に過ぎない。我々がテーブルを知覚するとき、我々が実際に知覚しているのは、茶色という色の観念、硬さという触覚の観念、机の形という視覚の観念などの、観念の集合なのである。「テーブル」という物質的事物そのものは、存在しない。存在するのは、観念だけなのである。私たちは外界に直接到達することはできない。私たちがアクセスしうるのは、私たちの心の中の観念のみである。したがって、物質的実体が存在すると主張することは、実際には知覚されない何かの存在を主張することになり、これは論理的矛盾に陥る。なぜなら、存在するとは、認識の対象となることであり、したがって知覚されることだからである。逆に言えば、知覚されないものは、存在しないのと同じなのである。

この見解は、極めて激進的であり、常識に反するように見える。しかし、バークリーの主張によれば、これは、単なる思弁的な立場ではなく、経験論の基本的前提から論理的に必然的に導き出されるものなのである。この主張は「観念論」(idealism)と呼ばれ、ロック的な経験主義をその最終的な論理的結論へと導く極端な形式である。

同時代の思想家たちからの反発も激烈であった。最も有名な反論は、サミュエル・ジョンソンによるものである。ジョンソンは、バークリーの主張に対して、単に石を蹴りつけて「私はこうして物質に反駁する」と言い放ったとされている。これは哲学的な反論というより、観念論の主張があまりに常識に反するために生じた本能的な反発を示す逸話にすぎないが、バークリー哲学が抱える説得力の問題を象徴的に示している。

観念と心

心と観念の関係

バークリーは、観念が存在することを認める。観念は、心(mind)の中に存在する。観念とは、知覚の内容であり、感覚を通じて心の中に生じるもの、あるいは心が自らの活動を通じて産出するものである。

しかし、心とは何か。バークリーは、心を実体的な物質とは考えない。むしろ、心とは、観念の知覚者であり、観念を有する活動的な原理である。心は、観念によって構成されるのではなく、むしろ観念を有し、観念に対して知覚的、思考的活動を行う能動的な存在なのである。

バークリーは、特に強調する。「観念は観念によってのみ知覚されうる。心は観念ではない。心は実体である。」言い換えれば、我々が観念(例えば、色や音)を知覚しうるのは、それらが他の観念だからではなく、むしろ心という実体的な知覚者の存在があるからなのである。バークリーはこの心を、観念ではなく「観念の支持者」(supporter of ideas)と呼ぶ。心は能動的であり、観念は受動的である。観念は何かによって支持されなければならず、その何かが心、すなわち知覚する主体なのだという。

しかし、この答えには重大な疑問が残る。バークリーは「観念」と「知覚者」を区別するが、この区別そのものが彼の理論的枠組みの中で正当化されるのかという問題である。知覚者もまた観念なのか、それとも何か異なるものなのか。もし知覚者が観念であるなら、それは誰の心の中の観念なのか。もし知覚者が観念ではなく、何か別の実体であるなら、それはバークリーが物質的実体の存在を否定したことと矛盾しないだろうか。心そのものが知覚されない実体であるなら、バークリーが物質的実体を否定した時と同じ論理が、ここでも心に適用されるべきではないだろうか。この点は、バークリーの体系に内在する最も鋭い理論的緊張の一つとして、後世まで議論され続けている。

興味深いことに、バークリーの思想は、物質的実体の客観的存在を拒否し、実在するのは知覚する精神的実体(単子)のみであると考えたライプニッツの単子論と、問題意識において近接している。バークリーはライプニッツの『単子論』を知っていた可能性が高い。しかし両者には重要な違いがある。ライプニッツは、物質現象は単子の表象(representation)に基づいており、物質界には一定の秩序と法則性があると考えた。これに対してバークリーは、物質現象の秩序と規則性を、直接的には神の継続的な創造と知覚に帰することで説明しようとしたのである。

観念の想起と想像

バークリーは、知覚の内容を、複数の種類に区別する。第一に、外部の感覚対象から受け取られる感覚観念がある。第二に、心が想像力を通じて、自らの記憶から想起する観念がある。第三に、抽象観念がある。

バークリーは、特にロックが論じた「抽象観念」の概念に対して、厳しい批判を加えている。ロックによれば、人間は、多くの特殊な観念から、共通の特性を抽出し、抽象観念を形成することができる。例えば、多くの三角形の観念から、「三角形の概念」という抽象観念を形成するのである。

しかし、バークリーは、このような抽象観念の形成は、不可能であると主張する。我々が心に持つことのできるのは、常に、特殊で具体的な観念であり、一般的な抽象観念ではないのである。ただし、特殊な観念が、記号として機能し、他の多くの特殊な観念を代表することはできるのである。

神と観念の存続

神の知覚と観念の存在

バークリーの観念論が直面する最も深刻な問題は、次のようなものである。もし、すべての存在が、知覚に基づくならば、人間が知覚していない時間帯には、物的事物は存在しないのか。例えば、我々が眠っている時間、物質的世界はどこに存在しているのか。さらに、複数の人間が同じ対象を知覚することはいかにして可能なのだろうか。私がこの机を見ているとき、他の人もこの机を見ている。しかし私と他の人は異なる心を持っており、異なる観念を持っているはずである。それなのに、私たちはなぜ同じものを知覚していると考えることができるのだろうか。

バークリーは、この問題に対して、注目すべき解答を提供する。物質的事物は、人間の知覚の外の時間帯においても、神の知覚の対象として存在しているのである。神は、完全な知識を持つ無限の精神であり、あらゆる時間においてすべてのものを知覚している。したがって、人間が知覚していない時間帯においても、物質的事物は、神によって知覚されることによって、その存在を保持しているのである。また、複数の人間が同じ対象を知覚することができるのは、神が各人間に一貫した観念を与え続けているからなのである。神の知覚こそが、客観的現実の究極の根拠なのだ。

バークリーは、聖書の詩編を引用して、この観念を表現している。「地球が続く限り、刈り入れと種蒔き、冷たさと熱さ、夏と冬、昼と夜はやまないであろう。」つまり、自然界の秩序と継続性は、神の永遠の知覚によって保証されているのである。

バークリーの観念論において、神の概念は単なる一つの要素ではなく、この哲学体系の中心的な基礎である。神は全知全能の知覚者であり、時間を超越した存在であり、同時にすべての瞬間にすべての物事を知覚している。人間の知覚は移ろいやすく、不完全であり、限定されているが、神の知覚は完全であり、永遠であり、無限である。バークリーによれば、哲学的に考えれば、物質主義はむしろ神の存在と矛盾している。なぜなら、物質的実体が独立して存在するならば、それは神の知覚と独立に存在することになり、神の全知全能性を脅かすからである。逆に、すべてのものが神の心の中の観念であると考えれば、神の絶対的支配と無限の知識が保証されるのである。

この思想は、バークリーが18世紀の宗教的懸念に応えようとしていたことを示している。当時、ニュートン物理学の成功は機械的な物質世界観を広げており、一部の知識人たちはこれが神を不要にするのではないかと懸念していた。バークリーは、むしろ観念論的世界観こそが神の存在と介入の可能性をより明確に示すものであると主張することで、科学的進歩と神学的正統性の調和を図ろうとしたのである。

観念の因果性と神の活動

バークリーは、さらに進んで、すべての力、すべての活動の根源は、神に由来すると主張する。人間の心は、観念を持つことはできるが、観念を産出し、変化させることの真の原因ではない。真の原因は、神なのである。

例えば、人間が運動を知覚するとき、その知覚は、神の活動によって産出されているのである。人間の感覚器官を刺激するのは、物質的な粒子ではなく(そのような粒子は存在しない)、神の意志なのである。人間の行為もまた、完全には人間自身の活動ではなく、神によって媒介されているのである。

この見解は、バークリーをして、決定論的で宿命論的に見えるかもしれない。しかし、バークリーは、人間の自由意志をも肯定しようとしている。人間は、自らの精神的活動を通じて、独立した能動的存在として活動する。しかし、人間のこの活動は、最終的には、神による世界の維持と統御の枠内にあるのである。

人間の心もまた精神的実体の一形態であると、バークリーは考える。人間の心は有限であり、限定された知覚能力を持つが、その本質においては神の心と同じく精神的であり、知覚と意志の能力を持つ。人間が知覚する赤い色は、人間の心の中で知覚される観念であると同時に、神の心の中でも知覚されている。人間が何かを知覚する時、それは本当に人間独立の知覚なのだろうか、それとも人間は神の知覚に参加しているに過ぎないのだろうか。バークリーの文献を読む限りでは、彼の考えは後者に近いようである。人間の知覚は、究極的には神によって与えられた観念であり、人間の心はその観念を通じて、神の知覚に参加しているに過ぎないというのだ。

共通感覚と言語コミュニケーション

バークリーの思想の中で、実践的な側面として重要なのが、複数の人間の間での共通理解がいかにして可能であるかという問題である。もし各人間が独立した心を持ち、各々の心の中にのみ観念が存在するのであれば、人間同士のコミュニケーションはいかにして可能なのだろうか。バークリーはこの問題に対して、「共通感覚」(common sense)の概念を導入する。人間は通常、日常的な経験における事物の安定性と一貫性を信じている。私が椅子を見ている時、他の人も同じ椅子を見ていると信じている。

言語は、この共通感覚を可能にするための媒体である。バークリーにおいて、言語の役割は非常に重要である。言葉は、特定の観念を表象する記号として機能するのではなく、むしろ他者との共通理解を可能にするための手段として理解される。「赤」という言葉を聞く時、他者がそれによって表現されている観念は、私の心の中の赤の観念と完全に同じではないかもしれない。しかし、言葉の共有によって、私たちは「赤」という概念について、実用的に共通の理解を保つことができるのである。

バークリーの言語論はこの点で、同時代のロックの言語理論と異なっている。ロックは言葉を「観念の衣」と考え、言葉は観念を表現する記号であると主張した。これに対してバークリーは、言葉はむしろ他者の心に特定の観念を喚起し、コミュニケーションを可能にするための道具であると考える。言葉の意味は、言葉が正確に表現する特定の観念の内容にあるのではなく、むしろ言葉が聞き手の心に喚起する観念的効果にあるというわけである。この理解は、後のウィトゲンシュタインの意味の使用説に先駆けるものであり、バークリーが言語哲学においても先見的であったことを示している。

バークリーの批判への応答

実在的対象性の問題

バークリーの観念論に対しては、その当初から、強力な反発が加えられてきた。最も明白な問題は、バークリーの説によれば、どのようにして、知覚者の心の外に、客観的で統一的な現実が成立するのかということである。

複数の人間が、同じテーブルを知覚しているとき、それぞれの人間の心の中には、異なる観念が存在しているはずである(視点の角度が異なるため、見た目も異なる)。では、すべての人間が知覚しているのは、本当に同じテーブルなのか。それとも、各人が、自らの心の中に異なる観念を有しているだけなのか。

バークリーは、この問題に対して、神の知識による統一性を主張する。神は、あらゆる可能な観点から、あらゆるテーブルを知覚している。神の知覚において、そのテーブルは、統一的で一貫した実在として存在しているのである。複数の人間が、同じテーブルを知覚できるのは、彼ら全員が、神の無限知識の一部を共有しているからなのである。

実在性と区別性の問題

バークリーの観念論に対する別の批判は、次のようなものである。バークリーによれば、物質的事物は、すべて観念の集合に過ぎない。しかし、ならば、どのようにして、我々は、夢見ている観念と、目覚めている知覚を区別することができるのか。夢の中の虎も、現実の虎も、ともに観念の集合に過ぎないならば、その間に本当に区別があるのか。

バークリーは、この問題に対して、複数の基準を提示する。第一に、目覚めている知覚は、より鮮明で、より秩序立っており、より予測可能である。第二に、異なる感覚間に、より大きな一貫性がある。第三に、複数の知覚者間に、より大きな一致がある。第四に、目覚めている知覚は、より安定的であり、より継続的である。これらの特性によって、我々は、現実の知覚と、夢や幻想的観念を区別することができ、また、目覚めている知覚の安定性と規則性は、神による統制と配列の証拠となるのである。

バークリーの自然哲学と科学

物質的原因の否定と神学的説明

バークリーは、物質的因果性の観念を根本的に否定する。従来の自然哲学では、物質的粒子の衝突と相互作用によって、自然現象が説明されていた。しかし、バークリーにとって、物質は存在しないのであり、したがって物質的粒子の相互作用も存在しない。

自然の中に見られる規則性と法則性は、物質的原因に基づくのではなく、むしろ神の意志と活動に基づいているのである。物質的原因に訴えることなく、神学的説明によって、自然現象を説明することができるのである。

バークリーは、この観点から、ニュートンの物理学に対して、鋭い批判を加えた。特に、ニュートンが導入した「絶対空間」と「絶対時間」の観念に対して、バークリーは批判している。絶対空間とは何か。それは、知覚される対象ではなく、単なる抽象観念である。絶対空間の観念は、経験的根拠を持たないのである。

一般に、バークリーは観念論に基づいて物質主義的な物理学そのものを否定したと理解されがちである。しかし実際には、バークリーは物理学の営みそのものを否定しているのではなく、物理学の解釈について異なる立場を主張しているのである。バークリーに言わせれば、物理学は自然現象の規則性と相互関係を記述する学問であり、その限りにおいて正当であり有用である。しかし、物理学が物質的実体という形而上学的概念を導入する時、それは物理学の領域を超えてしまう。物理学は現象間の法則的関係を述べるだけであり、その背後に存在するはずの物質的実体について何事かを言う権利を持たない、というのがバークリーの立場である。後にこのような考え方は「現象主義」(phenomenalism)として発展することになる。現象主義者によれば、物理学の法則や方程式は、事物がどのように現れるかについての説明であり、事物が実際にどのように存在するかについての説明ではないのである。

相対的な時空観

これに対してバークリーは、時間と空間は、相対的で関係的なものであると主張する。時間とは、変化する事象の継続である。空間とは、物体の位置的関係である。時間と空間は、物体や事象から独立して存在するのではなく、むしろ物体の相互関係から抽象される観念に過ぎないのである。

この相対的な時空観は、後のライプニッツの見解と共通するものである。バークリーとライプニッツは、ニュートンの絶対的時空観に対して、同様の批判を提起していたのである。この点で、バークリーの批判的思考は、18世紀の物理学の発展に対して、重要な知的貢献をなしたと言えるのである。

観念論と観念の種類

感覚観念と精神的観念

バークリーは、観念を複数の種類に区別する。感覚から生じる観念、つまり感覚観念は、人間の能動的統制の外にある。我々は、感覚観念を、自らの意志によって任意に産出することはできない。赤い色の観念が生じるのは、我々の意志によるのではなく、外部的な(あるいはより正確には、神の)影響によるのである。これに対して、精神的観念、つまり、想像や思考を通じて産出される観念は、人間の精神の能動性の発現である。人間は、感覚観念に基づいて、新しい観念を組み合わせたり、変形したりすることができる。

この両種類の観念の区別は、重要な意味を持つ。感覚観念の受動的性質は、人間が、自分自身とは別の何か(究極的には神)によって、世界を知覚させられていることを示している。一方、精神的観念の能動的性質は、人間が、自らの精神を通じて、独立した行為者として機能していることを示しているのである。

バークリーの倫理学と美学

快楽と道徳的価値

バークリーの倫理学は、快楽と苦痛の観念に基づいている。人間の行為は、根本的には、快楽を求め、苦痛を避けることによって動機づけられている。しかし、バークリーは、短期的な快楽追求が、必ずしも最高の善をもたらすわけではないことを認識している。

道徳的な善とは、人間全体の幸福と福利を増加させることである。したがって、個別的な短期的快楽よりも、長期的で普遍的な福利が、より高い道徳的価値を持つのである。人間は、理性と道徳的判断を通じて、自らの欲望を統御し、より高い善を追求することができるのである。バークリーが神を世界の秩序の根拠として導入したことは、単に認識論的必要性からだけでなく、こうした倫理学的関心からも来ている可能性が高い。もし物理的自然界が機械的な因果法則によってのみ支配されているなら、道徳的秩序はいかにして正当化されるのだろうか。これはライプニッツも直面した問題であり、バークリーは、道徳的秩序が神の知恵と善意に基づいていると考えることで、物質主義的決定論から逃れようとしたのである。

神への愛と道徳的行為

バークリーの道徳論の最高の段階は、神への愛である。人間が、神の完全性と善性を認識し、神を愛するならば、人間は、神の意志に従い、神が求める道徳的行為を実行することになるのである。

神への愛は、単なる感情的な親密さではなく、理性的な認識に基づいた愛である。人間が神の本性と属性を理性的に理解するならば、人間は、神を愛することが、最高の善であることを理解するのである。このような道徳的認識と行為を通じて、人間の精神は、完全性へと向かって上昇していくのである。

美学の観点からも、バークリーは感覚の重要性と主観性を強調することで、美的経験の本性についての新たな理解をもたらした。美とは何か。バークリーにおいては、美も含むすべての美的性質は、知覚主体の心の中に存在する観念である。美は客体に存在するのではなく、知覚者の知覚の中に存在するのである。この考え方は、18世紀の美学の発展において、「趣味」(taste)の理論へと発展していくことになる。

経験主義の内部矛盾とドイツ観念論への道

バークリーの哲学は、ある意味では、ロック的経験主義の内部矛盾を徹底的に追求したものである。ロックは、すべての知識は感覚経験に基づくと主張しながら、同時に物質的実体という感覚経験を超えた何かの存在を仮定していた。バークリーはこの矛盾を指摘し、経験主義の原理をより厳密に適用することで、観念論へと到達したのである。

しかし、バークリーの観念論それ自体もまた、新たな理論的困難を引き起こした。その困難は、18世紀の後半から19世紀にかけて、さらに詳細に検討されることになる。カント、フィヒテ、シェリングなどのドイツ観念論の哲学者たちは、バークリーの発見した問題について深く思索し、それぞれの方法で解決を試みた。カントは『純粋理性批判』の中で、自分の立場を「超越論的観念論」(transcendental idealism)と名付ける際にバークリーを参照しているが、カント自身はバークリーの観念論を批判し、自分の立場をそれから区別しようとしていた。カントの考えでは、物質的実体の客観的存在を否定するバークリーの立場は一定の正当性を有するが、同時に人間の先験的認識条件(時間と空間)を無視している点で不完全であるという。

バークリーの思想の歴史的意義は、単に物質的実体の存在を否定したというだけではなく、知覚主体と知覚対象の関係に関する根本的な疑問を提起し、その後の大陸的観念論の展開を促したという点にある。バークリーなくしては、カント的超越論的観念論も、ドイツ観念論も存在しなかったであろう。フィヒテは自我を絶対的根拠として、より進んだ観念論を構築しようとしたが、その際にもバークリーの思想は重要な出発点を提供した。ヘーゲルもまた、バークリーの観念論を超越しながらも、彼の思想の中に重要な洞察を認めていた。バークリーは、ロック的経験主義の内部矛盾を明らかにすることで、近代哲学の方向性を根本的に転換させたのである。

バークリーの影響と遺産

ヒューム経験論への影響

バークリーの観念論は、その直後の思想家たちに、大きな影響を与えた。特に、デイヴィッド・ヒュームは、バークリーの観念論的方向性をさらに推し進め、より徹底的な経験論的懐疑主義を展開することになった。バークリーが物質的原因を否定し、神による説明に訴えたのに対して、ヒュームは、あらゆる種類の因果性に対して、徹底的な懐疑を加えるのである。

20世紀における再評価

20世紀において、バークリーの思想は論理実証主義者たちから再び注目を集めた。カルナップなどの論理実証主義者たちは、物理的対象を感覚経験の複合体として分析する際に、バークリーの現象主義的なアプローチを新たな観点から評価した。バークリーが考えた「物質的対象とは観念の複合体である」という思想は、物理的対象の論理分析的定義において再評価されたのである。20世紀の分析哲学者たちも、バークリーの知覚と実在の関係に関する議論、そして彼の言語分析的な方法論に関心を示すようになった。

さらに、心身問題やクオーリア(qualia)の問題が哲学的な関心を集めるようになると、バークリーの思想がこうした現代的問題に光を投げかけるものであることが認識されるようになった。例えば、「主観的唯心論」あるいは「唯我論」(solipsism)という極端な形式の観念論は、バークリーの基本的な前提からは必然的に導き出されるように見える。もし存在するのは知覚される観念のみであり、知覚者の心の中の観念のみであるなら、なぜ複数の心の存在を仮定しなければならないのか。バークリーはこの帰結を避けるために神の存在を導入したが、神を仮定しなければ、観念論は必然的に唯我論へと沈み込んでしまうのではないか、という問題が残る。

他方で、現代の認知科学や神経科学が進むにつれ、知覚経験がいかに根本的に脳の活動に依存しているかが明らかになった。物理的な事物についての私たちの知識は、脳の神経活動によって構成された表象に基づいている。この意味で、バークリーが指摘した「知覚されることがなければ存在しない」という主張には、現代科学的観点からも一定の妥当性があるというわけである。デジタル化された世界、仮想現実の時代において、「知覚されない存在は実在するか」という問題は新たな緊急性を帯びており、バークリーが18世紀に提起した問題は今日なお私たちの世界認識の根本に関わり続けている。

ドイツ観念論との関連

ドイツの観念論者たち、特にフィヒテは、バークリーの観念論から大きな影響を受けた。バークリーが示した、観念と知覚に基づいた現実の構成という考え方は、ドイツ観念論における意識と現実の関係についての議論の基盤となったのである。

批判と問題点

神学的依存性

バークリーの観念論の最大の弱点は、その神学的依存性である。バークリーは、物質の否定の結果生じる問題を、神の知覚という宗教的概念によってのみ解決している。しかし、神の存在に関する哲学的議論とは独立に、バークリーの観念論が自立的に立証可能であるかどうかは、疑問の余地がある。

神を仮定しなければ、どのようにして、複数の知覚者間の知覚の一致を説明するのか。どのようにして、知覚者の心の外に、客観的な現実を保証するのか。これらの問題に対して、純粋に世俗的な説明を提供することは、バークリーの枠組みの中では困難に見える。

結論:急進的な経験論

バークリーは、経験論の基本的原理を、その最も徹底的な帰結へと推し進めた思想家である。ロックの「人間のすべての知識は経験に基づく」という原理から出発して、バークリーは、物質的実体の独立的存在を否定し、すべての存在が観念に基づくことを論証しようとしたのである。

この急進的な観念論は、常識と直感に反するように見える。しかし、バークリーの論証は、当初から、多くの思想家たちに深刻な知的挑戦として受け取られ、その後の経験論と観念論の発展に対して、極めて重要な影響を与え続けている。知覚と実在の関係、主観性と客観性の関係、物質と意識の関係——これらの問題はバークリーによって鮮烈に提起され、その後の哲学者たちによって様々に解釈され、批判され、発展させられてきた。バークリーは、知識と存在の関係についての根本的な問題を提起した思想家として、西洋思想史における不朽の地位を有しているのである。