イブン=ハルドゥーン——アサビーヤと文明の学

はじめに——社会科学の先駆者

イブン=ハルドゥーン(1332-1406)は、中世イスラーム世界が生んだ最も独創的な思想家の一人であり、しばしば「社会学の先駆者」「歴史哲学の創始者」と呼ばれる。彼が『イバルの書』の序論として著した『ムカッディマ(歴史序説)』は、王朝の興亡や英雄の事績を年代順に並べる従来の歴史叙述を根本から批判し、そうした出来事を生み出す社会そのものの構造と法則を対象とする新しい学問——「ウムラーン(人間社会・文明)の学」——の創設を宣言した書物である。

この主張の大胆さは、14世紀という時代を考えると際立っている。ヨーロッパでは社会科学の観念そのものがまだ存在せず、モンテスキューが気候と法制度の関係を論じるまで四百年、コントが「社会学」という語を造るまで五百年近い時間が必要だった。イブン=ハルドゥーンは、人間社会には人間の意図から独立した固有の法則性があり、その法則を知ることによってのみ歴史の記述が学問となりうる、と考えた。彼にとって歴史とは、表面的には出来事の報告であるが、その内実は「存在するものの原因と起源についての精緻な説明」であり、それゆえ哲学の一部門にほかならない。

ただし彼を「近代社会学の父」として単純に称揚することには注意が必要である。彼は近代人ではなく、マーリク派法学とアシュアリー派神学の枠組みのなかで思考し、政治家・法官として激動のマグリブを生き抜いた人物であり、その理論は王朝が次々と生まれては崩れていく現実の政治経験から抽出されたものである。本稿では、生涯をたどったうえで、歴史批判の方法、アサビーヤの概念、王朝の盛衰サイクル、遊牧と定住の弁証法、経済思想、学問論を順に検討し、イスラーム思想史における位置と近代以降の再発見の経緯を概観する。

生涯——チュニスからカイロへ

イブン=ハルドゥーン(アブー・ザイド・アブドゥッラフマーン・イブン・ハルドゥーン)は、1332年、ハフス朝支配下のチュニスに生まれた。一族はイエメンのハドラマウトに出自を主張するアラブ系の名門で、長くアンダルス(イスラーム治下のイベリア半島)のセビリアで高官を輩出したが、13世紀半ばにキリスト教勢力の再征服が及ぶとマグリブへ移住した。亡命貴族という出自は、彼の政治的キャリアと栄枯盛衰への鋭敏な感覚の両方を準備している。

チュニスでクルアーン・ハディース・法学・文法学の伝統的教育を受け、なかでも当代随一の合理諸学の教師とされたアービリーから論理学・哲学・数学を学んだことが、後の方法論に決定的な影響を与えた。しかし1348年から翌年にかけてペスト(黒死病)が北アフリカを襲い、両親と多くの師を一挙に失う。学統の断絶と大量死の経験は、文明の脆さへの感覚として『ムカッディマ』の随所に刻まれている。

20歳前後で官界に入って以降の四半世紀は、マグリブ諸王朝の政争を渡り歩く波乱の連続だった。チュニスのハフス朝で書記官を務めたのち、フェスのマリーン朝宮廷に移り、そこで陰謀に連座して約22か月投獄される。釈放後も政変で失脚し、1362年にはグラナダのナスル朝へ赴いて、宰相にして文人であったイブン・アルハティーブの知遇を得、1364年にはカスティーリャ王ペドロ1世のもとへ使節として派遣されて祖先の地セビリアを訪れた。しかし宮廷内の警戒を招いて去り、次はブジー(ブジャイア)で侍従長として事実上の宰相職に就く。君主が戦死するとまた放浪が始まり、以後はベルベル諸部族のあいだを往来して兵力調達の仲介者として生きた。彼が後にアサビーヤの理論として定式化する部族社会の力学は、この時期の実務経験に裏打ちされている。

政治への疲弊が頂点に達した1375年、彼は現在のアルジェリア西部、フレンダ近郊のイブン=サラーマ城に隠棲する。庇護者となった部族の保護のもと、外界から遮断されたこの城で約四年を過ごし、自伝によれば『ムカッディマ』の草稿を五か月足らずで一気に書き上げた。ただし史料の裏づけには蔵書が不可欠であり、1378年にチュニスへ戻って図書を渉猟し、大幅な増補を行った。『ムカッディマ』はその後も生涯にわたって改訂され続ける。

1382年、巡礼を名目にチュニスを離れた彼はアレクサンドリアを経てカイロに至り、生涯の後半をマムルーク朝の首都で送ることになる。アズハルなどで教授し、1384年にはスルタン・バルクークによってマーリク派の大法官に任じられる。法廷の腐敗と縁故主義を厳しく糾弾する姿勢は既得権益層の反発を招き、彼は生涯に六度この職を任じられては解任された。同じ1384年には、マグリブから呼び寄せた家族を乗せた船がアレクサンドリア沖で難破し、妻と子女を失うという痛恨の不幸にも見舞われている。

晩年の最も劇的な事件は、1401年、ティムールとの会見である。ダマスカス防衛のためスルタン・ファラジュに随行した彼は、スルタンがカイロへ引き上げた後も包囲下の市中に残り、城壁から綱で吊り降ろされてティムールの陣営に赴いた。約五週間にわたって厚遇された彼は、征服者の求めに応じてマグリブの地誌と政治情勢に関する報告書を執筆し、あわせてダマスカスに残されたエジプト側の文官たちの安全通行を取りつけている(もっとも市街の掠奪と焼き討ちは避けられなかった)。世界を席巻する遊牧的軍事権力の当事者と、その盛衰の理論家との対面は、彼の生涯を象徴する挿話としてしばしば語られる。1406年、大法官の職にあったままカイロで没した。

『歴史序説』の企図——新しい学問「ウムラーンの学」

イブン=ハルドゥーンの主著は、正式には『イバル(教訓)の書』と題される大部の世界史である。全体は三部から成り、第一部が人間社会の性質を論じる『ムカッディマ』、第二部がアラブおよび諸民族の歴史、第三部がベルベル人とマグリブの歴史にあてられる。第三部はマグリブ史の第一級史料だが、思想史上の意義が圧倒的なのは第一部である。

『ムカッディマ』の主題は、彼が「イルム・アルウムラーン(ウムラーンの学)」と名づけた学問の創設である。ウムラーンとは、人間が集まって生活を営むこと、その集住の状態と文化の総体を指す。彼は、人間は本性上ひとりでは生きられず、食を得るためにも外敵から身を守るためにも協働を必要とすると論じる。この協働の必然性から社会が生じ、社会が生じれば、そこには構成員の意図とは別に働く固有の秩序と法則が現れる。この法則を扱う学問はいまだ誰も書いていない、と彼は明言し、みずからその創始者を任じた。

『ムカッディマ』は六章から成る。第一章は人間社会一般を扱い、気候帯と地理が人間の身体・気質・生業に及ぼす影響を論じる。ここで彼は、肌の色の違いを気候の作用によって説明し、当時流布していた聖書由来の系譜的説明(ハムの呪い)を明確に退けている。第二章が遊牧・部族社会(バダーワ)、第三章が王朝・王権・カリフ制・統治機構、第四章が都市と定住文明(ハダーラ)、第五章が生業・手工業・利得、第六章が諸学問とその教授法を扱う。社会の物質的基盤から政治制度を経て文化・学術に至るこの配列自体が、社会を階層的な全体として捉える彼の構想を体現している。

歴史批判の方法——伝承の検証と内的整合性

新しい学問の必要性を、イブン=ハルドゥーンはまず歴史学の危機から論証する。歴史家たちは、伝承された報告を吟味せずに書き写し、その結果ありえない話を平然と記録してきた。彼が挙げる例は具体的である。モーセに率いられたイスラエル人の軍勢が六十万を数えたという記述は、当時の版図と補給の実際から見て不可能である。イエメンのトゥッバウ王たちがイラクやチベットまで遠征したという伝承も、行軍距離と兵站を考えれば成り立たない。

イスラームの学問伝統には、伝承者の系列(イスナード)の信頼性を審査するハディース学という精緻な検証方法がすでに存在していた。イブン=ハルドゥーンの独自性は、この外的批判だけでは不十分だと見た点にある。伝承者がいかに誠実でも、報告の内容そのものが社会の本性から見てありえないなら、その報告は偽である。したがって真偽を判別する究極の基準は、人間社会がどのような条件のもとで何を可能とするかについての知識、すなわちウムラーンの学でなければならない。歴史学は、それ自身の外部に理論を持たなければ学問たりえない——この認識は、事実の収集と法則的説明の関係をめぐる、驚くほど近代的な洞察である。

彼はまた、誤りの原因を列挙する。党派への偏向、権威への盲従、報告者の意図の誤解、権力者への追従、そして何より、社会の状態が時代とともに変化することへの無自覚である。過去を現在の尺度で測ることへのこの警告は、歴史主義的な意識の萌芽と評しうる。

アサビーヤ——連帯意識の概念

ウムラーンの学の中核に置かれるのが、アサビーヤの概念である。アラビア語のアサバ(父方の親族)に由来するこの語は、集団を内側から結束させる連帯意識、共に戦い共に死ぬことをいとわない相互扶助の感情を指す。日本語では「連帯意識」「集団的結束心」などと訳されるが、単なる心理的一体感ではなく、集団の実際の戦闘力と政治的力量に直結する社会的エネルギーとして理解しなければならない。

アサビーヤの原型は血縁である。近しい血のつながりは、侮辱や危難に際して自然な憤りと援助の衝動を呼び起こす。しかしイブン=ハルドゥーンは、血縁を絶対視しない。長い同居や同盟、庇護関係(ワラー)によっても、血縁と同等の連帯は形成されうる。逆に、系譜がいかに高貴でも、共同生活の実質が失われればアサビーヤは消滅する。彼にとって系譜とは、それ自体が力を持つ実体ではなく、共に生きるという実践に依存する紐帯にすぎない。

アサビーヤの強度は生活様式に規定される。砂漠や山地の厳しい環境で、外部の保護なしに自力で身を守らねばならない集団では、連帯は生存条件そのものであり、したがって極度に強い。これに対し、城壁と官憲と法に守られた都市の住民は、自衛の必要から解放される代わりにアサビーヤを失う。この非対称が、政治的支配の力学を規定する。

支配権(ムルク)とは、アサビーヤが到達する自然な目的地である。連帯によって結束した集団は、まず内部で優越を確立し、次いで隣接集団を服属させ、最終的に他集団を支配する王朝を樹立する。ここで決定的なのは、宗教とアサビーヤの関係についての彼の分析である。宗教的呼びかけ(ダアワ)は、成員から利己心と内部抗争を除き、単一の目的に統合することによって、アサビーヤの力を飛躍的に増幅する。イスラーム初期のアラブによる急速な征服は、この増幅作用によって説明される。しかし逆は成り立たない。アサビーヤの支えを欠いた宗教運動は、いかに教義が正しくとも政治的に挫折する——彼はこの原則を、失敗した幾多の宗教反乱の分析によって裏づけている。信仰の真理性と政治的成功とを峻別するこの醒めた視線は、彼の思考の性格をよく示している。

王朝のサイクル——四世代論と興亡の法則

アサビーヤ論から導かれるのが、王朝の盛衰を周期として捉える有名な理論である。イブン=ハルドゥーンによれば、王朝の寿命はおおむね三世代、一世代を約四十年として合計百二十年程度である。もちろんこれは厳密な数値ではなく、傾向を示す目安である。

第一世代は、砂漠的な生活の厳しさとアサビーヤをそのまま保持している。質素で勇敢で、栄光は成員全体に分有され、支配者は同輩中の第一人者にすぎない。第二世代は、支配の果実として定住文化と奢侈に触れる。彼らはまだ第一世代を直接見て育っているため、その気風の記憶を保ってはいるが、実践としては失いつつある。この段階で支配者は栄光を独占しはじめ、かつての同志を排除して外部から傭兵や官僚を登用する。第三世代は、遊牧的な気風を完全に忘れ、奢侈のうちに育ち、自衛の能力も意志も失って、王朝の防衛を傭兵に委ねる。そして第四世代は、先祖の築いたものを守る力を持たず、ただ蕩尽する者として描かれる。このとき、砂漠にあってアサビーヤを保った新たな集団が現れ、老いた王朝を打倒して次の周期が始まる。

彼はまた、王朝の内的な発展段階を五つに区分する。すなわち、対抗勢力を打倒して支配権を獲得する段階、支配者が権力を独占して同族を排除する段階、統治が安定し徴税・建設・文化的事業が花開く段階、先例の踏襲に安住する満足の段階、そして浪費と衰退の段階である。注目すべきは、文明の頂点——壮麗な建築、洗練された学芸、豊かな都市生活——が、王朝の力の絶頂ではなく、衰退の始まりと重なるという構図である。彼にとって文化的達成と政治的活力は反比例する傾向にあり、この逆説は理論全体に悲劇的な色調を与えている。

このサイクル論はしばしば決定論的・循環史観的と批判されてきた。実際、彼の視野は主にマグリブと中東の経験に基づいており、そのまま普遍法則として扱うことはできない。しかし彼自身は、法則を機械的な必然としてではなく、条件が揃えば繰り返し現れる傾向として提示しており、その分析はむしろ条件の連関を明らかにすることに向けられている。

遊牧(バダーワ)と定住(ハダーラ)の弁証法

サイクル論の背後にあるのは、バダーワ(遊牧的・農村的な単純生活)とハダーラ(定住的・都市的な文明生活)という一対の概念である。これを単純に「砂漠対都市」の対立と読むと誤解を招く。バダーワとは、生活必需品のみを求める生存様式一般を指し、遊牧民だけでなく農耕村落も含まれる。ハダーラとは、必需を超えた奢侈と洗練の様式であり、手工業・学芸・都市的制度の総体である。

両者の関係は、時間的な先後としては明快である。必需が満たされてはじめて奢侈が生まれるのだから、バダーワが先であり、都市文明は農村・遊牧社会を母胎としてその余剰の上に成り立つ。しかしイブン=ハルドゥーンは、ハダーラをウムラーンの「目的」であると同時に「終点」であると言う。この二重性が彼の文明論の要である。人間社会は都市文明へ向かって発展するが、都市文明に到達した瞬間から腐蝕が始まる。奢侈は欲望を増大させ、支出は収入を上回り、住民は権力に依存して自衛能力を失い、道徳的紐帯としてのアサビーヤは解体する。

したがって両者は単なる対立項ではなく、相互を生成し破壊し合う動的な関係にある。バダーワの集団はハダーラを憧憬し、それを征服することによって支配者となる。しかし支配者となればハダーラに浸り、数世代でバダーワ的美質を失う。そのとき次のバダーワが到来する。文明は、それを支えた力を必ず解体するという条件のもとでのみ存立する——ここには、進歩の観念とは異なる、はるかに屈折した歴史像がある。

同時に彼は、ハダーラを単に貶めているわけではない。学問も工芸も洗練された道徳も、都市の集住と分業なしには生まれない。彼が批判するのは文明そのものではなく、文明が自らの基盤を掘り崩す過程への無自覚である。この弁証法は、懐古趣味ではなく、物質的条件と文化的達成の相剋についての構造分析として読まれるべきである。

経済思想——労働価値・課税・市場

『ムカッディマ』第五章は、生業と利得を主題とする経済分析にあてられており、その先駆性は経済学史でも繰り返し指摘されてきた。彼の出発点は、価値の源泉を人間の労働に見る発想である。人が獲得する利得は、そこに投下された労働の価値にほかならない。土地や鉱物のような自然の贈与に見えるものも、採取と加工の労働が加わってはじめて価値を持つ。社会の労働総量が増大すれば富も増大するのだから、人口が多く分業の進んだ都市は豊かであり、人口が減少すれば富も学芸も同時に衰える。

分業と協働の理論も明快である。一人の人間はパン一枚を得るためにも耕作・製粉・製パンの全工程を担いえない。多数の人間が作業を分担することで、個々人が単独で達成しうる量をはるかに超える生産が可能になる。この分業論は、アダム・スミスの有名な議論の四百年前に、ほぼ同じ論理構造で提示されている。

市場と価格についても、需要と供給の関係が明確に意識されている。大都市では穀物などの必需品は供給が潤沢で安く、熟練職人を要する奢侈品や労務は高価になる。小さな町ではこれが逆転する。彼はまた、政府が商業に直接参入して臣民と競合すれば市場は破壊されると警告する。

最も広く知られるのが課税に関する分析である。王朝の初期には、簡素な統治と低い税率のもとで租税の総収入はむしろ大きい。低い負担が生産意欲を高め、課税対象そのものを拡大するからである。王朝が奢侈と官僚機構の膨張によって支出を増やすと税率が引き上げられるが、高い税率は事業の採算を悪化させ生産者の意欲を挫くため、総収入はかえって減少する。減収を補うためにさらに増税するという悪循環が、王朝の経済的破綻をもたらす。税率と税収の非線形な関係を論じたこの議論は「ラッファー曲線」の先駆として言及されることが多く、アーサー・ラッファー自身がイブン=ハルドゥーンへの負債を明言している。

この課税論は、彼のより大きな命題——「不正は文明の荒廃を告げる」——の一部をなす。ここでいう不正とは、殺人や暴力だけでなく、正当な対価を払わずに他人の労働や財産を奪うあらゆる行為、とりわけ権力による恣意的な収奪を含む。所有の安全が損なわれれば、人々は働く動機を失い、生産は縮小し、都市は空洞化し、最終的に王朝そのものが基盤を失う。正義を求める議論を、道徳的勧告ではなく、経済的帰結の分析として展開している点に、彼の思考の特質が鮮明に現れている。

学問と教育の社会学

第六章は諸学問を扱うが、その視点は徹底して社会学的である。彼にとって学問は、自然発生的な普遍的活動ではなく、都市の集住と余剰と需要があってはじめて成立する社会的制度である。文明が繁栄すれば学問と技芸も発達し、都市が衰退すれば学統は断絶する。学問の分布と盛衰を社会の物質的条件から説明するこの姿勢は、後世の知識社会学を思わせる。

教育論も具体的である。彼は、学習によって獲得されるものを「マラカ」(習性・熟達した能力)という概念で捉える。マラカは知識の記憶ではなく、反復された実践によって魂に定着する第二の本性であり、言語の運用能力も、法学的推論の能力も、工芸の技能も、すべてこの範疇に属する。ここから教授法についての助言が導かれる。学生には主題を三度にわたって段階的に教えるべきである。第一回は主要な論点の概略を大づかみに与え、第二回は異説や難点に触れながら理解を深め、第三回で細部と例外に及ぶ。最初から完全な体系を与えようとすることは、理解ではなく混乱を生む。

彼が強く批判するのは、当時流行していた極端な要約書(ムフタサル)の氾濫である。学問の全体を数十頁に圧縮した教科書は、暗記の負担を減らすように見えて、実際には表現を難解にし、内容の理解を妨げ、マラカの形成を阻害する。同様に、学生への過度に厳しい懲罰も批判の対象となる。抑圧は怠惰と虚偽と狡猾を生み、魂の活力そのものを損なうと彼は言う。さらに彼は、直接に師のもとを訪ね、対面して学ぶ旅(リフラ)の重要性を強調する。書物からは情報が得られるが、マラカは生きた人間の実践に接することによってしか伝わらないからである。

なお彼は、イスラーム世界の学問の担い手の多くが非アラブ系であったことを指摘し、それをアラブ諸部族が支配と軍事に従事し、学芸を含む都市的な諸技芸が定住民に委ねられたという社会構造から説明する。民族的偏差を人種的資質ではなく生業の分化によって説明する手つきは、彼の方法の一貫性を示す好例である。

イスラーム思想内での位置——哲学と法学のあいだ

イブン=ハルドゥーンは、ガザーリー以後のイスラーム思想の地形のうえに立っている。11世紀のガザーリーが『哲学者の自己矛盾』によってファルサファ(ギリシア由来の哲学)の形而上学的主張を批判して以来、哲学は独立した権威ある学問としての地位を失っていた。彼はこの流れを受け継ぎ、『ムカッディマ』に哲学の無効を論じる一節を設けて、理性が神と魂について確実な知識に到達しうるという主張を退ける。同じ章では占星術と錬金術も、因果の証明を欠き自然の秩序と経験に反するとして厳しく批判した。

さらに彼は、ファーラービーらが構想した「有徳都市」の政治哲学にも距離を置く。理想の統治者と国制を規範として提示する議論は、現実に存在した社会の説明にはならない。彼が求めるのは、あるべき国家の像ではなく、実際にある社会がどのように生成し変化するかの分析である。彼の学問は、規範的政治哲学からも法学の統治論からも区別される記述的学問として自己を定位している。

他方で彼は、法官として、また神学的にはアシュアリー派の立場から、啓示と法の権威を疑わない。カリフ制についての議論はその好例である。彼は、シャリーアに基づく統治としてのカリフ制と、アサビーヤに基づく自然的支配としてのムルクとを概念的に区別し、初期の正統カリフ制がやがて王権へと転化した歴史過程を、非難ではなく社会学的必然として描き出す。宗教的規範の正当性は保持しつつ、その現実の制度的運命は自然的法則によって説明する——この二層構造が、彼の思想の独特の安定性を支えている。スーフィズムについても『探究者の癒し』という独立の著作を残し、修行の実践と神秘的経験を認めつつ、後代の一元論的な思弁的傾向には批判的であった。

そこで問題となるのは、哲学を否定しながら哲学的方法によって新しい学問を打ち立てるという逆説である。研究者のあいだでは長く、彼を伝統的な法学・神学の枠内で理解すべきか、表向きの拒絶にもかかわらずファルサファの遺産を継承した思想家と見るべきかが論じられてきた。社会の生成を質料と形相の語彙で語る場面や論証の作法には、哲学的訓練の痕跡が明瞭である。おそらく正確なのは、彼が形而上学としての哲学を拒みつつ、その方法論的核心——原因による説明という理念——を新しい対象領域へ転用したと見ることであろう。

近代における再発見

イブン=ハルドゥーンの構想は死後ただちに継承されたわけではない。マグリブで『イバルの書』は主として史料として扱われ、エジプトでは弟子のマクリーズィーが師の視点を歴史叙述に活かしたものの、学派と呼べるものは形成されなかった。

本格的な再評価はオスマン帝国において始まる。17世紀の碩学キャーティプ・チェレビーが『ムカッディマ』を高く評価し、続いて宮廷史家ナイーマーが、王朝の盛衰段階論をオスマン帝国自身の現状分析に適用した。衰退を自覚しはじめた知識人にとって、王朝がたどる段階を記述した理論は、古典ではなく現実の診断装置であった。18世紀にはピーリーザーデによってオスマン・トルコ語訳が着手され、19世紀に改革派の政治家・歴史家アフメト・ジェヴデト・パシャがこれを完成させている。

ヨーロッパへの本格的な紹介は19世紀である。ドゥ・サシーが抜粋を公刊し、19世紀半ばにはカトルメールによるアラビア語校訂本、続いてド・スランによるフランス語訳が刊行された。20世紀にはフランツ・ローゼンタールによる英訳(1958年)が研究の国際的基盤となる。日本では森本公誠による全訳『歴史序説』が岩波文庫に収められている。

20世紀の評価は多岐にわたる。アーノルド・トインビーは『歴史の研究』において、『ムカッディマ』を、いかなる時代のいかなる場所のいかなる精神によっても生み出されたことのない種類の最高の著作として絶讃した。社会学の側では、19世紀末にグンプロヴィッチが彼を「14世紀のアラブ社会学者」として論じて以来、社会学の前史に位置づける議論が続いている。とりわけ影響力を持ったのは社会人類学者アーネスト・ゲルナーの読解で、部族的連帯と都市的統治の循環という図式を、イスラーム社会を理解する有効なモデルとして再定式化し、人類学的フィールドワークの知見と接続した。イヴ・ラコストは彼を、植民地化以前のマグリブ社会を内側から把握した思想家として読み、独立後の第三世界の歴史認識のなかに位置づけている。

批判もある。彼の理論はマグリブと中東の特定の経験を一般化したものであり、農業帝国や海洋交易国家には適合しにくい。循環的な図式は構造的変動や技術革新を説明する枠組みを欠く。それでもなお、社会を自律的な法則の場として捉え、宗教的評価と因果的説明とを分離し、経済的基盤から政治権力と文化的達成までを一つの理論で結ぼうとした試みは、14世紀において比類のない知的達成である。

結論

イブン=ハルドゥーンの思想は、三つの柱によって支えられている。第一に、歴史記述の批判としてのウムラーンの学。伝承の真偽は、伝える者の信頼性だけでなく、社会の本性についての知識によって判定されなければならない。第二に、アサビーヤの理論。集団を結束させる連帯意識は、政治権力の源泉であり、その強度は生活様式によって規定され、支配の成功そのものによって解体される。第三に、バダーワとハダーラの弁証法。文明は必需を超えた洗練へ向かって発展するが、その発展は自らを支えた力を必ず腐蝕させる。これらを貫くのは、人間社会には人間の意図から独立した固有の法則があり、それは経験的観察と因果的推論によって認識しうる、という確信である。

この確信は、彼が生きた時代の経験と切り離せない。ペストによる大量死、次々と交替する王朝、亡命と投獄と流浪、そしてティムールとの対面。栄光が必ず衰退に転じるという悲劇的な歴史感覚は、抽象的な思弁ではなく、この身で見た崩壊の記録である。しかし彼はその崩壊を運命として嘆いたのではなく、法則として記述しようとした。そこにこそ、彼が単なる歴史家ではなく哲学者である理由がある。

現代において彼が読まれ続けるのは、近代社会科学を先取りしたからというよりも、社会を理解するという営みそのものの困難と可能性を鮮明に示しているからだろう。集団の結束はどこから来て、なぜ失われるのか。豊かさはなぜ自らを支えた力を掘り崩すのか。六百年前のマグリブで立てられたこれらの問いは、今日なお開かれたままである。

イスラーム世界における哲学的思考の展開全体についてはイスラーム哲学を、統治と共同体をめぐる同時代の議論については中世の政治哲学を参照されたい。中世哲学が後世に遺したものをめぐるより広い歴史哲学的観点は、別稿で扱っている。