はじめに——道家のもう一つの極
老子と荘子。「老荘」と並称されるこの二人は、道家思想の二つの極をなしている。老子が簡潔な箴言の連なりによって「道」と無為の政治を説いたのに対し、荘子は奔放な寓話と笑いに満ちた対話によって、何ものにも縛られない個の精神の自由を説いた。同じく「道」を語りながら、老子の視線がしばしば君主と国家に向かうのに対し、荘子の視線はあくまで一人の人間の生と死、その心の在り方に向かう。道家という一つの潮流の中に、統治の哲学と自由の哲学という異なる音色が響いているのである。
『荘子』という書物は、中国古典の中でも際立って文学的な哲学書である。北の海の巨大な魚、夢の中の蝶、牛を解体する料理人、曲がりくねって役に立たない大木——荘子は概念による論証ではなく、イメージと物語によって思考する。そのために『荘子』は、哲学書として読まれると同時に、中国文学史上の最高傑作の一つとしても読み継がれてきた。しかしその寓話の背後には、認識の相対性、言語の限界、生死の受容といった、哲学の根本問題への鋭利な洞察が貫かれている。本稿では、荘子という人物と『荘子』という書物を確認したうえで、逍遥遊・斉物論・胡蝶の夢を中心にその思想を読み解き、修養論、無用の用、死生観をたどり、老子との違いと後世への影響を検討する。
人物と書物——荘周と『荘子』
荘子、名は周。生没年は不詳だが、通説では紀元前4世紀後半、おおよそ前369年ごろから前286年ごろの人と推定される。司馬遷の『史記』老子韓非列伝によれば、荘周は宋の蒙(現在の河南省商丘付近とされる)の人で、蒙の漆園の吏という下級の役人を務めたことがあり、梁の恵王・斉の宣王と同時代だったという。つまり孟子とほぼ同時代の戦国中期を生きた人物である。『史記』はさらに、楚の威王が厚礼をもって荘周を宰相に迎えようとしたが、荘周は、祭りに飾り立てられて犠牲に供される牛になるよりも汚い溝で自由に遊んでいたい、と使者を追い返したという逸話を伝える。史実性の確認は難しいが、権力と栄達を拒む荘子像を古くから象徴してきた話であり、『荘子』秋水篇で荘子が釣りをしながら楚王の招きを断り、泥の中で尾を曳いて生きる亀でありたいと語る説話(曳尾)と響き合っている。
現行の『荘子』は33篇から成り、内篇7篇・外篇15篇・雑篇11篇に分かれる。『漢書』芸文志には52篇本が著録されており、現行本は西晋の郭象(252ごろ-312)が整理・注釈したテクストに由来する。研究史の通説では、逍遥遊・斉物論・養生主・人間世・徳充符・大宗師・応帝王の内篇7篇が最古層に属し、荘周自身の思想を最もよく伝えるとされ、外篇・雑篇には後学の手になる部分が多く含まれると考えられている。すなわち『荘子』は一人の著作というより、荘周を核とする学派のアンソロジーである。ただし雑篇の中にも、天下篇のように先秦諸子を批評する優れた思想史的文章が含まれる。天下篇は荘周の言葉を「謬悠の説、荒唐の言、端崖なきの辞」と評しており、とりとめなく壮大なほら話のような語り口こそが荘子の方法であったことを、学派自身が自覚していたことがわかる。唐の玄宗の時代には荘子に南華真人の号が贈られ、『荘子』は『南華真経』として道教の根本経典の一つに数えられることになる。
逍遥遊——大鵬の寓話と絶対の自由
『荘子』は次の寓話で幕を開ける。北の果ての海に鯤という魚がいる。その大きさは幾千里あるかわからない。鯤は変化して鵬という鳥になる。鵬の背もまた幾千里あるかわからない。鵬はつむじ風に乗って九万里の高みに昇り、半年かけて南の果ての海へ飛んでゆく。これを見上げた蜩や小鳩は笑って言う。自分たちは楡の枝に飛び移るのがせいぜいで、時にはそれさえ届かず地面に落ちる。九万里も昇って南へ行くなど何になるのか、と。荘子はここに「小知は大知に及ばず」という註釈を添える。小さな視野は大きな視野を測ることができない。朝に生まれ夕に死ぬ菌には一日の巡りがわからず、夏だけを生きる蝉には四季がわからないのである。
しかし逍遥遊篇の思考はここで止まらない。壮大な鵬もまた、九万里の風が下に積もらなければ飛べない。風という条件に「待つ」(依存する)点では、鵬も小鳥と変わらないのである。風に乗って自在に飛んだという列子ですら、なお風を待たねばならなかった。そこで荘子は問う。天地の正道に乗り、六気の変化を御して、無窮の世界に遊ぶ者は、もはや何を待つことがあろうか、と。真の自由とは、より大きな力やより有利な条件を手に入れることではなく、条件への依存という構造そのものから抜け出ることである。荘子はこの境地を生きる者について「至人は己なく、神人は功なく、聖人は名なし」と記す。自己への執着、功績への執着、名声への執着から解き放たれたとき、人ははじめて「逍遥に遊ぶ」——目的も強制もなく、あてどなくのびやかに世界に在ることができる。逍遥遊とは、この絶対的な自由の哲学の名である。
斉物論——万物斉同と是非の相対性
内篇第二の斉物論は、『荘子』の中で最も理論的な篇であり、中国古代哲学屈指の難文としても知られる。篇は、南郭子綦が机にもたれて放心し、「吾れ我を喪えり」とつぶやく場面から始まる。固定した自我を手放した彼が弟子に語るのは、地籟——大地の無数の穴が風を受けて発するさまざまな音——の比喩である。音はそれぞれ異なるが、吹く風は一つである。同様に、人間たちの是非曲直をめぐる百家争鳴も、一つの実在がさまざまな穴を通して発する音にすぎないのではないか。
斉物論の核心は、あらゆる区別と対立が視点に相対的だという洞察にある。「彼」と「此」、是と非、美と醜、大と小——これらは物そのものに備わる性質ではなく、どこから見るかによって入れ替わる。彼から見れば此は彼であり、此から見れば彼は彼である。是に依れば非があり、非に依れば是がある。この相対性を徹底したとき、対立の軸そのものが消える地点に立つことができる。荘子はそれを「道枢」(道の枢)と呼び、枢が環の中心に位置してあらゆる回転に応じるように、是非の無限の転変に自在に応じる境位を語る。そして有名な一句が置かれる。「天地は我と並び生じて、万物は我と一たり」。天地万物と自己とは、根源において一つである——これが後世「万物斉同」と呼ばれる思想である。ただしそれは、すべての差異を消去して灰色の一様さに塗り込めることではない。朝三暮四の寓話が示すように、猿たちは木の実が朝三つ夕四つと聞いて怒り、朝四つ夕三つと聞いて喜んだが、総数は同じである。差異に固執して一喜一憂する愚を離れ、差異を差異のままに包む全体を見よ、というのが斉物の教えである。
斉物論には、荘子の言語批判を凝縮した一句がある。「道は小成に隠れ、言は栄華に隠る」。道は小さな完成——部分的な達成をもって全体と思い込む態度——によって見失われ、言葉の真実は華やかな修辞によって覆い隠される。この診断の直接の標的は、当時激しく論争していた儒家と墨家である。儒墨はたがいに相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非として果てしなく争う。だが荘子から見れば、「彼も亦た一是非、此も亦た一是非」——どちらの陣営もそれぞれの立場に相対的な是非を絶対と思い込んでいるにすぎない。論争で勝敗が決まっても、勝った方が正しいことにはならない。是非を判定すべき審判者もまた、いずれかの立場に立たざるをえないからである。
この是非批判は、言語そのものへの批判に深化する。言葉は世界を切り分け、名づけ、固定する。しかし道は、切り分けられる以前の全体である。だから斉物論は「大道は称せられず、大弁は言わず」と語る。ただし荘子は、沈黙の中に閉じこもる神秘主義者ではない。外物篇の有名な比喩が、荘子の言語観の要約となる。筌は魚を捕るための道具であり、魚を得たら筌は忘れられる。蹄は兎を捕るための道具であり、兎を得たら蹄は忘れられる。同じく、言葉は意を得るための道具であり、意を得たならば言葉は忘れてよい——「言を忘れたる人を得て、之と言わん」。言葉を絶対化する者とも、言葉を全否定する者とも違い、荘子は言葉を、使い終えたら手放すべき道具として自在に用いる。『荘子』自身が寓話と逆説に満ちた饒舌な書物であることは、この「得意忘言」の実践にほかならない。
胡蝶の夢——夢と現実の相対化
斉物論篇はこう締めくくられる。あるとき荘周は夢の中で蝶になった。ひらひらと舞う蝶そのものであり、楽しく心ゆくままに飛んで、自分が荘周であることを知らなかった。はっと目覚めれば、まぎれもなく荘周である。だが、はたして荘周が夢で蝶になったのか、それとも蝶が夢で荘周になっているのか、わからない。荘周と蝶とには必ず区別があるはずだ。これを「物化」と謂う——。
「胡蝶の夢」として知られるこの短い説話は、東洋思想における夢と現実の主題の原点であり、世界文学に繰り返し谺してきた。一見するとこれは、いま見ている現実が夢でないとどうして言えるのか、という懐疑論の提示に見える。実際、斉物論には、夢の中で酒盛りをした者が朝には泣き、夢に泣いた者が朝には猟に出かける、夢の中ではそれが夢だと知らない、大いなる目覚めがあってはじめて人生が大いなる夢だったと知るのだ、という一節もある。しかし荘子の狙いは、デカルトのように懐疑を突破して確実な知の基盤を打ち立てることではない。むしろ逆に、夢と現実、蝶と荘周という区別への執着そのものを手放すことにある。鍵は末尾の「物化」の一語である。存在は固定した実体ではなく、鯤が鵬に化したように、絶えざる転化の流れの中にある。荘周が蝶になり蝶が荘周になることは、否定すべき錯誤ではなく、万物が互いに転じ合う世界の実相の開示なのである。夢を貶めて現実にしがみつくのでも、現実を疑って不安に沈むのでもなく、どちらの相においてもそのつど心ゆくままに在ること——胡蝶の夢は、懐疑論の形を借りた転化の肯定の哲学である。
心斎と坐忘——修養の方法
荘子の自由は、単なる気分や思想的態度ではなく、心身の修養によって到達される境地として語られる。その方法を示すのが「心斎」と「坐忘」である。人間世篇では、孔子と顔回の対話という形で心斎が説かれる。衛の暴君を諫めに行こうとする顔回に、孔子は心の斎戒を求めて言う。志を一つにせよ。耳で聴くのではなく心で聴け。さらに心で聴くのではなく気で聴け。耳は音を聞くにとどまり、心は対象と符合するにとどまるが、気は虚にして物を待ち受ける。道はただ虚に集まる。この虚こそが心斎である、と。感覚と分別知の働きを鎮め、心をからっぽの受容性へと澄ましてゆくこの方法は、対象を意のままにしようとする作為の放棄であり、無為の実践的な中身である。
大宗師篇の坐忘もまた、孔子と顔回の対話として語られる。顔回が「回は益あり、仁義を忘れました」と報告すると、孔子は「よし、だがまだ足りぬ」と答える。次に「礼楽を忘れました」、なお足りぬ。ついに顔回は言う、「回は坐忘せり」。驚く孔子に顔回が語る坐忘の内実は、「枝体を堕し、聡明を黜け、形を離れ知を去りて、大通に同ず」——身体への執着を落とし、耳目の賢しらを退け、形と知を離れて、大いなる通達(道)と一体になることである。儒家が最高の価値とする仁義や礼楽を「忘れるべきもの」の階梯に置き、しかもそれを孔子自身に承認させるという趣向には、荘子一流の皮肉と諧謔がある。心斎と坐忘は、後世の道教の内観修行や、禅の坐禅・無心の思想に通じる、東アジア修養論の源流の一つとなった。
庖丁解牛——技と道
養生主篇の冒頭に、荘子は「吾が生や涯あり、而して知や涯なし」——人生は有限だが知は無限であり、有限をもって無限を追えば危うい——という印象的な言葉を置き、続けて『荘子』中もっとも名高い寓話の一つ、庖丁解牛の物語を語る。料理人の庖丁が文恵君の前で牛を解体する。手の触れるところ、肩の寄せるところ、足の踏むところ、膝のかがめるところ、刀の音はさくさくと音楽のように律動し、その動きは舞のようである。見事さに感嘆する文恵君に、庖丁は答える。「臣の好む所は道なり、技より進めり」——私が愛するのは道であって、技の次元を越えたものです、と。
庖丁は語る。最初、牛を見れば牛の全体しか見えなかった。三年経つと、牛の全体は見えなくなった。今では目で見るのではなく、神(こころ)で牛に向かう。感覚の働きは止まり、心の自然な働きだけが動く。牛の身体の自然の筋目に従い、骨と肉の間の大きな隙間に刀を導き入れるだけで、無理に切ることはしない。骨の節には隙間があり、刀の刃には厚みがない。厚みのないものを隙間に入れるのだから、刃を遊ばせるゆとりが必ずある——それゆえ自分の刀は十九年使い数千頭を解体してなお、砥石から出たばかりのように鋭い、と。文恵君は「善いかな、吾れ庖丁の言を聞きて養生を得たり」と結ぶ。道は高遠な思弁の中にではなく、熟達した技の中に宿る。対象の自然に逆らわず、その筋目に従って自己を虚しくするとき、行為は摩擦を失い、生命は消耗を免れる。身体化された知が概念的な知を超えるというこの洞察は、今日でいう熟練の暗黙知や没入(フロー)の経験の、最古の哲学的記述の一つと言ってよい。
無用の用
『荘子』を貫くもう一つの主題が「無用の用」である。逍遥遊篇の末尾で、論敵にして友人の恵子(名家の恵施)は荘子に言う。私のところに樗という大木があるが、幹はこぶだらけで墨縄も当てられず、枝は曲がりくねって規矩に合わない。道端に立っていても大工は見向きもしない。あなたの言葉も同じで、大きいばかりで役に立たない、と。荘子は答える。役に立たないことに、なぜ苦しむのか。その木を何もない広野に植え、そのかたわらで気ままにさまよい、その下でのびのびと昼寝をすればよい。役に立たないからこそ、斧で切られることもなく、何ものにも害されない、と。
人間世篇には、社の神木となった巨大な櫟の話がある。船を作れば沈み、棺を作れば腐り、器を作れば壊れる散木——役立たずの木。しかしその木は夢に現れて言う。実のなる木は実ゆえに枝を折られ、有用な木は有用さゆえに天寿を全うできない。自分は役に立たないことを長く求めてきた、無用こそがわが大用なのだ、と。同じ篇に登場する、あごが臍に隠れるほど背の曲がった支離疏は、その不具ゆえに徴兵を免れ、施しを受けて天寿を全うする。そして篇の末尾に、この主題の総括となる一句が置かれる。「人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり」。有用性とは、つねに何らかの目的の体系の内部での評価にすぎない。国家や市場が定める「役に立つ」の尺度に自己の価値を委ねるとき、人は自らを道具として差し出し、すり減らしてゆく。無用の用の思想は、有用性の尺度そのものを相対化し、目的の連鎖の外にある生そのものの価値を守る防壁である。効率と成果があらゆる領域を測る現代において、この二千数百年前の逆説はむしろ切実さを増している。
死生観——妻の死に歌い、髑髏と語る
荘子の哲学が最も鮮烈な輝きを放つのは、死をめぐる場面である。至楽篇によれば、荘子の妻が死んだとき、弔問に訪れた恵子が見たのは、両足を投げ出して座り、盆を叩いて歌う荘子の姿だった。連れ添った妻の死に歌うとは何事か、となじる恵子に荘子は答える。妻が死んだとき、自分とて悲しくないはずがあったろうか。しかし考えてみれば、妻はもともと生命がなかったばかりか、形もなく、気すらなかった。恍惚たる混沌の中から気が生じ、気が変じて形となり、形が変じて生となり、いままた変じて死に帰った。これは春夏秋冬の巡りと同じである。妻は今、天地という巨大な部屋に安らかに眠ろうとしている。そのそばで自分が泣き喚くのは、命の理に通じないことだと思い、泣くのをやめたのだ、と。荘子において死は、生の対立物でも刑罰でもなく、気の集散という自然の転化の一局面である。養生主篇はこれを「薪は尽きるとも、火は伝わりて、其の尽くるを知らざるなり」と語り、個体の消滅を超えて続く生命の連続を火の比喩に託した。
至楽篇にはさらに、楚へ向かう荘子が道端の髑髏に語りかける説話がある。その夜、夢に現れた髑髏は言う。死の世界には君もなく臣もなく、四季の労苦もない。南面する王の楽しみもこれには及ばない、と。生き返らせてやろうかという荘子の申し出を、髑髏は眉をひそめて断る。この物語は死の賛美というより、生に執着し死を憎むという私たちの価値の序列が、生の側からの一方的な思い込みにすぎないことを突きつける思考実験である。斉物論はこれを、嫁ぐときに泣いた麗姫が王宮の安楽を知って涙を悔いた故事に託し、死者もまた、生にしがみついていたことを悔いているかもしれぬ、と語っていた。列禦寇篇によれば、荘子の臨終に際し、弟子たちが手厚い葬儀を望むと、荘子は言った。私は天地を棺とし、日月を璧とし、星辰を珠とし、万物を副葬品とする。これ以上の葬具があろうか。地上に置けば烏や鳶に食われ、土に埋めれば螻や蟻に食われる。烏や鳶から奪って螻や蟻に与えるのは、なぜそう贔屓するのか、と。死の恐怖からの自由こそ、逍遥遊の自由の最後の試金石であった。
老子との違い——政治の書と自由の書
老子と荘子は、道を根源とし、人為と作為を批判し、無為自然を説く点で共通の地盤に立つ。しかし両者の関心の方向は大きく異なる。『老子』は「無為にして治まらざるは無し」と語るように、統治者に向けた政治哲学・処世の知恵という性格を色濃く持つ。柔弱が剛強に勝つという逆説も、身を後にして身を先んずるという教えも、乱世を生き抜き人の上に立つための実践知として読める。これに対して『荘子』、とりわけ内篇には、統治への関心がきわめて希薄である。楚王の招聘を断る曳尾の説話が象徴するように、荘子にとって政治権力は自由を脅かす危険なものでしかない。荘子の問いは、国をいかに治めるかではなく、一人の人間がいかにして何ものにも損なわれずに生き、死ぬかである。道家の内部で、老子が「上から」の無為を説いたとすれば、荘子は「個から」の無為を徹底したと言えよう。
文体と思考の質も対照的である。『老子』は約五千字の凝縮された韻文的箴言であり、『荘子』は縦横無尽の寓話と対話の奔流である。また『老子』の道が万物を生む母のような根源として、どこか高みに立てられるのに対し、荘子の道は徹底して内在的である。知北遊篇で、道はどこにあるかと問う東郭子に、荘子は答える。在らざる所なし——螻蟻にあり、稊稗にあり、瓦甓にあり、屎溺(大小便)にすらある、と。道は聖なる彼方ではなく、最も卑近なものの中に遍在する。なお「老荘」という並称は漢代以降に定着したものであり、戦国時代の荘子が現行『老子』をどこまで前提としていたかについては、両者を別系統の思想と見る見解も含めて研究上の議論がある。少なくとも思想の実質において、両者を単純に師弟や継承の関係で捉えることはできない。
後世への影響——玄学から禅、日本文学、西洋へ
『荘子』の影響は、中国思想史のほぼ全域に及ぶ。漢代に黄老思想の流行を経て、魏晋時代には『周易』『老子』とともに「三玄」と呼ばれ、玄学と清談の中心テクストとなった。向秀の注を承けた郭象の『荘子注』は、独自の哲学書といえるほどの解釈体系であり、現行『荘子』のテクストそのものを定めた。阮籍や嵇康ら竹林の七賢は、礼教の束縛に抗する精神の拠り所を荘子に求めた。仏教が中国に受容される際には、空や涅槃といった概念が『荘子』の語彙を借りて翻訳・理解され(格義仏教)、やがて禅の形成に深く関与する。無心、日常の中の道、言葉への不信と自在な言葉の使用——禅の語録に横溢する精神は、インド仏教と荘子的感性との融合の産物という側面を持つ。唐代には『南華真経』として道教の経典に列せられ、科挙の教養としても読まれ続けた。
日本でも『荘子』は古代から読まれ、江戸時代には注釈や講釈を通じて武士や文人の教養に浸透した。松尾芭蕉の俳諧には荘子の影響が色濃く、造化にしたがい造化に帰れという蕉風の理念や、無用者としての風狂の自覚は、逍遥遊と無用の用の精神に通じている。近代以降も、『荘子』を愛読した物理学者の湯川秀樹が、随筆「知魚楽」で濠梁の魚の問答を論じ、渾沌の寓話に素粒子論への示唆を語ったことはよく知られる。研究面では福永光司らの仕事によって、荘子は日本における中国思想研究の中心的主題であり続けてきた。西洋への紹介も早く、19世紀末のジャイルズによる英訳をオスカー・ワイルドが書評で絶賛し、20世紀初頭にはマルティン・ブーバーが独訳選を編んだ。ハイデガーが濠梁の問答に強い関心を示したという証言も残り、トマス・マートンの英訳詩選やグレアムの研究訳を通じて、荘子は西洋の詩人・哲学者に読み継がれている。近年では、環境思想、心理学、認知科学における熟練と無心の研究など、荘子への参照は分野を越えて広がり続けている。
結論
荘子の哲学は、三つの運動として要約できる。第一に、相対化の運動。斉物論と胡蝶の夢は、是非・彼此・夢覚・生死というあらゆる二項対立が視点の産物であることを暴き、「道は小成に隠れ、言は栄華に隠る」と、部分的な達成と華美な言葉に安住する知を撃った。第二に、解放の運動。逍遥遊の大鵬から無待の遊へと至る思考は、条件への依存そのものからの自由を指し示し、無用の用は有用性の尺度から生を守り、鼓盆而歌の死生観は死の恐怖という最後の束縛を解いた。第三に、体得の運動。心斎と坐忘は虚なる心へ至る修養の道筋を示し、庖丁解牛は道が思弁ではなく熟達した身体の技のうちに実現することを教えた。相対化は虚無に終わらず、解放は放縦に流れず、すべては転化する万物とともに在るのびやかな生へと収斂する。
寓話と笑いに包まれたこの哲学は、体系の構築ではなく、読む者の視点の転換そのものを狙う。だからこそ『荘子』は、二千数百年を経てなお、効率と有用性に疲れた読者の前で新しい書物であり続ける。荘子の思想的前提となった道家のいま一つの極については老子を、諸子百家の中での道家の位置については古代中国哲学を、儒教・道教・仏教が織りなす中国思想の展開については中国哲学の全体像を参照されたい。