デレク・パーフィット——人格の同一性と未来世代の倫理

はじめに:オール・ソウルズの隠者

オックスフォード大学オール・ソウルズ・コレッジは、学生を持たず、選ばれた研究者だけが所属する特異な学寮である。デレク・パーフィット(Derek Parfit, 1942-2017)は、この学寮に半世紀にわたって籠もり、ほとんど哲学のことだけを考えて生きた。毎日同じような服を着て、食事の準備に時間を使うことを嫌い、歯を磨きながら哲学書を読み、時間を惜しんで思索を続けた。その姿は同僚たちから畏敬と当惑の入り混じった目で見られ、しばしば「哲学の修道士」「オール・ソウルズの隠者」と評された。趣味と呼べるものは写真だけで、それもヴェネツィアとサンクトペテルブルクという二つの都市を、決まった光の下で撮り続けるという徹底ぶりであった。

しかしこの隠者が残した仕事は、20世紀後半の倫理学の風景を一変させた。1984年の『理由と人格』は、合理性・人格の同一性・未来世代の倫理をめぐる議論の座標軸をほとんど独力で設定し直した書物であり、刊行から40年を経た今日でも、分析系倫理学で最も引用される著作の一つである。人格の同一性は思考実験によって解体され、「私」の存続は程度の問題となり、まだ存在しない未来の人々への義務が初めて体系的な哲学的難問として定式化された。本稿では、この寡作にして巨大な哲学者の生涯と思想をたどり、彼が現代に残した遺産を確認する。

生涯——歴史学から哲学へ、そしてオール・ソウルズへ

パーフィットは1942年、中国の成都に生まれた。両親はともに医師であり、宣教医として予防医学を教えるため中国に渡っていたが、一家はデレクの誕生後まもなくイングランドに戻り、彼はオックスフォードで育った。少年期には詩人を志し、名門イートン校を経てオックスフォード大学ベイリオル・コレッジに進学したが、そこで学んだのは哲学ではなく近代史であった。歴史学で最優等の成績を収めた後、ハークネス奨学金を得て渡米し、コロンビア大学とハーヴァード大学で学ぶうちに関心は決定的に哲学へと移る。帰国後の1967年、彼は難関で知られるオール・ソウルズ・コレッジのプライズ・フェローシップ試験に合格し、以後、博士号を取得することのないまま、同コレッジの研究フェローとして生涯を過ごすことになった。

パーフィットの経歴は、業績の量を競う現代のアカデミアの対極にある。彼の名を世に知らしめたのは1971年に『フィロソフィカル・レビュー』誌に発表された論文「人格の同一性」であり、その後13年をかけて完成させたのが『理由と人格』(1984)である。刊行までに草稿は繰り返し書き直され、多数の哲学者に回覧されては修正されるという、彼特有の完全主義的な執筆過程を経た。第二の主著『重要なことについて』は、2002年のタナー講義をもとに「山に登る」という仮題で長く回覧された後、2011年にようやく二巻本として刊行され、第三巻は死の直後の2017年に出た。晩年はニューヨーク大学、ハーヴァード、ラトガーズの客員教授を定期的に務め、2010年には長年の伴侶であった哲学者ジャネット・ラドクリフ・リチャーズと結婚している。2017年1月1日深夜、パーフィットは74歳で死去した。最後まで、彼は倫理学に客観的な基礎を与えるという仕事を続けていた。

『理由と人格』という書物

『理由と人格』は四部構成の大著である。第一部は道徳理論や合理性の理論が「自滅的」になる場合を分析し、第二部は合理性と時間の関係を論じ、第三部は人格の同一性をめぐる形而上学を展開し、第四部は未来世代に対する倫理という未踏の領域を開拓する。一見ばらばらに見えるこれらの主題は、一つの野心によって貫かれている。すなわち、自己利益を合理性の基準とみなす伝統的な見方を掘り崩し、倫理学を宗教的基盤なしに、世俗的な学問として再出発させるという野心である。パーフィットは本書の末尾近くで、無神論的な倫理学はまだ歴史が浅く、その最盛期はこれからやって来ると述べた。倫理学は数学のように、これから発見を重ねていく若い学問だというのである。

パーフィットが自らの先駆者とみなしたのは、19世紀の功利主義者ヘンリー・シジウィックである。シジウィックが『倫理学の方法』の末尾で直面した難問——利己主義と功利主義という二つの合理的観点の対立を、理性は裁定できないのではないかという「実践理性の二元論」——を、パーフィットは自己利益理論の解体によって突破しようとした。『理由と人格』がしばしば「シジウィック以来最も重要な倫理学書」と評されてきたのは、単なる賛辞ではなく、彼の仕事がシジウィックの残した問いへの応答として構想されていたからである。

本書の特徴は、その圧倒的な思考実験の密度にある。テレポーテーション、脳の分割移植、記憶の連続的入れ替え、人口の際限なき増加。パーフィットはSF的な想定を次々に繰り出し、私たちの直観を極限状況で試験にかける。この手法には、現実離れした空想に何の意味があるのかという批判も向けられたが、彼の意図は明確である。日常的な事例では複数の基準が常に一致してしまうため、どの基準が本質的かを判定できない。想像上の事例だけが、絡み合った概念を分離する実験装置となるのである。分析的明晰さと、随所に顔を出す実存的な切実さの共存が、この書物を単なる技術的著作以上のものにしている。

自己利益理論の批判

『理由と人格』の出発点は、「自己利益理論(Self-interest Theory)」と彼が呼ぶ合理性の理論への攻撃である。自己利益理論によれば、各人にとって合理的なのは、自分の人生全体ができるだけよくなるように行為することである。この理論は二千年以上にわたり、合理性の自明の基準として君臨してきた。目先の快楽のために健康を損なう者を私たちが「不合理」と呼ぶとき、暗黙に前提されているのはこの理論である。

パーフィットはこの理論が不安定な中間的立場であることを示す。自己利益理論は、時間については中立を要求する。すなわち、現在の欲求も30年後の利益も等しく重視せよと命じる。しかし人格については偏りを許す。すなわち、自分の利益だけを重視し、他人の利益は無視してよいとする。だがなぜ、時間的な偏り(現在の自分をひいきすること)は不合理で、人格的な偏り(自分をひいきすること)は合理的なのか。この非対称性を正当化する根拠を、自己利益理論は示すことができない。理論は二方向から挟撃される。一方には、時間にも人格にも中立であることを求める道徳的観点があり、他方には、現在の欲求に従うことこそ合理的だとする「現在目的理論」がある。自己利益理論だけが、恣意的な線引きの上に立っているのである。

さらにこの批判は、第三部の人格論と連動している。もし人格の同一性が確固たる事実ではなく、心理的なつながりの程度の問題にすぎないなら、「遠い将来の自分」は、いま現在の自分にとって、ある意味で他人に近い存在である。そうであれば、将来の自分のために現在を犠牲にせよという自己利益理論の要求は、その拘束力の源泉を失う。合理性の理論と人格の形而上学は、パーフィットにおいて不可分なのである。

人格の同一性——分岐とテレポーテーションの思考実験

第三部の主題である人格の同一性の問題を、パーフィットは一連の思考実験によって提示する。最も有名なのがテレポーテーションの事例である。地球の装置に入ると、私の身体と脳の完全な情報がスキャンされ、身体は破壊され、情報は火星に送られて、そこで寸分違わぬ複製が作られる。火星で目覚めた人物は、私の記憶と性格と意図をすべて持っている。さて、私は火星に「移動した」のか、それとも地球で死に、火星で別人が生まれたのか。さらに装置が故障し、地球の私が破壊されずに生き残ったまま火星に複製が作られたらどうか。このとき地球の私と火星の人物は明らかに別人である。ならば、通常のテレポーテーションでも火星の人物は私ではなかったのではないか。

この問題には長い前史がある。ロックは人格の同一性を記憶の連続に求め、これに対して身体(とりわけ脳)の連続こそが基準だとする物理的基準説が対抗してきた。パーフィットの思考実験は、この対立そのものを掘り崩すように設計されている。テレポーテーションの事例で物理的連続は完全に断たれるが、心理的連続は保たれる。もし火星の人物を私とみなす直観があるなら、物理的基準は本質的ではない。逆に複製が二体作られる事例を考えれば、心理的基準もまた同一性を一意に決定できない。どの基準も、私たちが求める「すべてか無かの決定的な事実」を提供できないのである。

決定的なのは分岐(fission)の事例である。私の脳の左右半球を、それぞれ別の身体に移植するとしよう。半球一つでも人は生存できるから、手術の結果、私と心理的に連続した人物が二人存在することになる。このとき私はどうなったのか。両方が私だとは言えない。同一性は一対一の関係であり、二人の別人が同一の私であることはできないからだ。どちらか一方だけが私だとする理由もない。両半球は対称的だからである。では私は死んだのか。しかしそれも奇妙である。通常なら生存とみなされる関係——記憶・性格・意図の連続——が、二重に成立しているのだから。分岐の事例が示すのは、私たちが生存において気にかけている関係と、厳密な同一性とが、別のものだということである。

「重要なのは同一性ではない」——還元主義的人格観

これらの思考実験からパーフィットが引き出す結論は、二段構えである。第一に、人格の同一性についての「還元主義」。人格の存続とは、脳と身体の存続、および相互に連関する心理的・物理的な出来事の系列が成立していることに尽きるのであって、それ以上の「深い事実」——デカルト的自我や霊魂のような、すべてか無かで決まる実体——は存在しない。同一性の判断は、これらのより基礎的な事実の上に立つ言語的・慣習的な判断にすぎず、境界事例では「私は存続するのか」という問いに決まった答えがないこともありうる。

第二に、より過激な主張、すなわち「重要なのは同一性ではない」というテーゼである。生存において本当に重要なのは、パーフィットが「関係R」と呼ぶもの、すなわち心理的連結性(記憶、意図、性格などの直接のつながり)と心理的連続性(そうしたつながりの重なり合う連鎖)である。同一性は、関係Rが分岐せずに一対一で成立している場合の呼び名にすぎない。分岐の事例では同一性は失われるが関係Rは保たれており、それは死とはまったく異なる、むしろ通常の生存と同程度によいものである。だとすれば、私たちが自己の存続に付与してきた特別な重みは、根拠を欠いていたことになる。

パーフィットは、この見方の受容が自らの生の感覚を変えたと率直に記している。かつて自分の人生は、年ごとに速く通り抜けていくガラスのトンネルのようで、その先には闇があるように思われた。しかし見方を変えたとき、トンネルの壁は消え、いまや開かれた大気の中に生きている、と。自分と他人との違いが程度の差にすぎないなら、自分の死もまた、絶対的な断絶ではなく、心理的つながりが未来へと減衰していく過程として捉え直される。彼はこの認識を、死への恐怖を和らげ、他者への配慮を根拠づける、解放的な真理とみなしたのである。

仏教との共鳴——無我説との類似

自己を独立の実体とみなす見方の否定——この主張が仏教の無我説と響き合うことに、パーフィット自身が明示的に言及している。『理由と人格』の付録において、彼は初期仏教の文献を引き、人格を五つの構成要素(五蘊)の集まりとみなし、それらを超えた恒常的な自己を認めない仏教の見方が、自らの還元主義と本質的に一致すると述べた。ブッダなら自分の見解に同意しただろう、還元主義は特定の文化に固有の思想ではなく、あらゆる時代のあらゆる人々に当てはまる真理でありうる、というのが彼の考えであった。西洋の分析哲学者が、緻密な論証の果てに到達した結論を、二千数百年前のインドの思想と自ら重ね合わせたこの一節は、比較哲学の観点からも注目に値する。

もっとも、両者の間には相違もある。仏教の無我説は瞑想的実践と解脱への道と不可分であり、無我の洞察はそれ自体が苦からの解放の一部である。パーフィットの還元主義は、あくまで思考実験と論証によって支えられた形而上学的テーゼであり、実践体系を伴わない。また仏教研究の側からは、無我説の解釈自体が学派により多様であり、パーフィットの理解は初期仏教の一側面に対応するにすぎないという指摘もある。それでも、自己への執着の緩和が他者への開けと死の恐怖の軽減をもたらすという実践的帰結まで含めて、両者の平行関係は著しい。事実、『理由と人格』以降、仏教哲学と分析哲学の対話は一つの研究領域として成長しており、パーフィットはその触媒となった。

未来世代の倫理——非同一性問題

『理由と人格』第四部は、倫理学がそれまで正面から扱ってこなかった問い、すなわち、まだ存在しない人々に対して私たちは何を負うのかという問いを開拓した。ここでパーフィットが発見した難問が「非同一性問題(Non-Identity Problem)」である。出発点は単純な事実である。誰が生まれてくるかは、受精のタイミングに依存する。したがって、社会の大きな政策選択——資源を使い尽くすか保全するか、環境を汚染するか守るか——は、人々の生活条件だけでなく、将来誰が生まれてくるかそのものを変えてしまう。

ここから奇妙な帰結が生じる。仮に私たちが資源浪費政策を選び、200年後の人々の生活の質が著しく低くなったとしよう。しかしその200年後の人々は、浪費政策が選ばれたからこそ生まれてきた人々であり、保全政策が選ばれていれば、彼らは存在せず、別の人々が生まれていた。彼らの生が、生きるに値しないほど悪いのでない限り、彼らは浪費政策によって「害された」とは言えない。その政策がなければ、彼らはそもそも存在しなかったのだから。誰も害されていないのなら、浪費政策の何が悪いのか。私たちの直観は、この政策が明らかに悪いと告げる。しかし、悪さを特定の誰かへの危害として説明する「人格影響説」の枠組みでは、その悪さを説明できない。未来世代への義務は、特定の個人の利害に還元できない、非人格的な原理を要求するのである。この問題は、環境倫理、世代間正義、生殖技術の倫理に共通する理論的基盤として、今日まで膨大な議論を生み続けている。

いとわしい結論と人口倫理

非人格的な原理が必要だとして、それはどのような原理か。最も単純な候補は、幸福の総量を最大化せよという総量功利主義である。しかしパーフィットは、この原理が受け入れがたい帰結を導くことを示した。それが「いとわしい結論(The Repugnant Conclusion)」である。すなわち、きわめて高い生活の質を享受する100億人の人口よりも、生活の質が「かろうじて生きるに値する」程度でしかない、はるかに巨大な人口の方が、総量においては上回りうるため、より善いことになってしまう。卓越した生を送る数十億人の世界より、辛うじて生きるに値する生の無数の人々の世界の方が善い——この帰結を、パーフィットは受け入れがたいものとみなし、これを回避する理論を探究した。

回避は容易ではない。平均の幸福度を基準にすれば、この結論は避けられるが、平均説には別の難点がある。たとえば、十分に幸福な人を新たに加えることが平均を下げるという理由だけで悪いことになってしまう。さらにパーフィットは「単なる追加のパラドクス」によって、一見自明な比較判断を積み重ねるだけで、いとわしい結論へと段階的に導かれてしまうことを示した。彼は、いとわしい結論を回避し、非同一性問題を解決し、その他の条件をも満たす理想の人口倫理を「理論X」と名づけたが、自らそれを発見することはできなかったと認めている。人口倫理は今日、哲学の中でも最も難解な領域の一つであり、一連の不可能性定理——直観的に妥当な条件をすべて満たす理論は存在しえないことを示す証明——さえ生み出されている。この分野そのものが、パーフィットの遺産である。なお彼は晩年、いとわしい結論の「いとわしさ」を和らげる方向の再考も試みており、異なる種類の善の間には正確な比較が成り立たない「不明確性」があるという着想を検討していた。人口倫理は彼にとって、解決済みの問題ではなく、最後まで開かれた問いであり続けたのである。

『重要なことについて』——規範倫理の統合の試み

晩年のパーフィットが取り組んだのは、規範倫理学の三大伝統——カント主義、帰結主義、契約主義——の統合という壮大な課題であった。2011年に刊行された『重要なことについて』において、彼はこれら三つの理論が、適切に修正され最良の形に定式化されるならば、実は互いに収斂すると論じた。彼の比喩によれば、三つの伝統は「同じ山を異なる側から登っている」のである。具体的には、カントの定言命法の普遍化の定式を修正し、スキャンロン型の契約主義と接合すると、「すべての人が合理的に意志しうる原理」に行き着くが、その原理は帰結を適切に重視する規則帰結主義的な内容を持つ。こうして得られる統合的見解を、彼は「三重理論(Triple Theory)」と呼んだ。

この統合の試みの背後には、切実な動機があった。もし有能な哲学者たちが道徳の基本原理について永遠に一致できないのなら、道徳に客観的真理があるという信念そのものが揺らぐ。パーフィットは道徳の客観性を擁護する非自然主義的実在論の立場に立ち、規範的真理は自然的事実に還元されない仕方で、しかし神秘的な実体なしに、端的に成立すると論じた。『重要なことについて』の後半は、このメタ倫理学的立場の擁護と、主観主義・表出主義・錯誤説への徹底的な批判に充てられている。もし何ものも重要でないなら、私たちが苦しみを防ぐ理由もない。しかし苦しみを防ぐ理由が端的に存在することを、私たちは知っている——これがパーフィットの根本的な確信であった。三理論の統合が成功しているかについては懐疑的な評価も多いが、規範倫理学の対立の構図を問い直したこの試みは、それ自体が現代倫理学の一つの事件であった。

影響——効果的利他主義と長期主義への遺産

パーフィットの影響は学界にとどまらない。証拠と理性に基づいて最も効果的に世界を改善しようとする「効果的利他主義」運動は、その理論的支柱の多くをパーフィットに負っている。自己と他者の区別を相対化する人格論は、自分の利益を特別視することへの批判として、遠くの他者への援助を根拠づける議論に接続され、また『理由と人格』第一部で展開された「無害と思われる小さな行為の集積が大きな害をなす」ことの分析は、気候変動のような集合行為問題を考える枠組みを提供した。

学界におけるパーフィットの影響は、著作だけでなく人を通じても及んだ。彼は他人の草稿に、原稿本体より長いこともある詳細なコメントを返すことで知られ、その寛大さは伝説的であった。オール・ソウルズでの彼のセミナーとニューヨーク大学等での講義からは、現代の規範倫理学・メタ倫理学を担う多くの哲学者が育っている。人格の同一性論はシューメイカーやマクマハンらとの論争を通じて心の哲学と生命倫理をつなぐ領域となり、人口倫理はブルームやアレニウスらによって厳密な公理的分析の対象へと発展した。一人の哲学者の問題設定が、これほど直接に複数の研究分野を生んだ例は稀である。

とりわけ重要なのが、未来世代の道徳的地位をめぐる議論である。『理由と人格』の末尾近くでパーフィットは、次のような比較を提示した。(一)平和、(二)人類の99パーセントを死滅させる核戦争、(三)人類を絶滅させる核戦争。多くの人は(二)と(三)の差を、(一)と(二)の差より小さいと感じる。しかしパーフィットによれば、(二)と(三)の差の方がはるかに大きい。絶滅は、現存する人々の死だけでなく、その後に存在しえたはずの膨大な未来の人々のすべてを失わせるからである。人類の歴史が始まったばかりかもしれないという展望の下で、絶滅リスクの回避を最重要課題とみなすこの発想は、今日「長期主義(longtermism)」と呼ばれる立場の原型であり、オックスフォードのグローバル優先事項研究所や実存的リスク研究の知的源泉となった。トビー・オードやウィリアム・マッカスキルら効果的利他主義の指導的論者たちは、いずれも自らの仕事をパーフィットの延長線上に位置づけている。

結論

パーフィットの哲学を貫くのは、倫理の問いに答えがあるはずだという、ほとんど宗教的な強度を持った確信である。人格の同一性の解体は相対主義への道ではなく、自己への執着という偏見から倫理を解放する試みであり、非同一性問題といとわしい結論の発見は、未来世代への責任を気分や感傷ではなく理論の水準で引き受けるための作業であり、三重理論は、道徳的真理の客観性を守るための最後の砦の構築であった。「何が重要かが重要である」——この一見同語反復めいた信念のために、彼は生涯のすべてを注ぎ込んだのである。

その仕事は完成しなかった。理論Xは見つからず、三理論の統合には異論が絶えず、人口倫理は不可能性定理の荒野となった。しかし、問いの水準を引き上げることそれ自体が哲学の進歩であるとすれば、パーフィットほど倫理学を前進させた20世紀後半の哲学者はいない。彼が開いた問題圏——人格、合理性、未来世代——は、気候変動と技術的リスクの時代において、切実さを増しこそすれ、失いはしないだろう。

パーフィットの思想的遺産をさらにたどるには、彼の議論を実践へと展開した効果的利他主義、彼が批判的に継承した伝統である功利主義の展開、そして無我説との比較の背景となるインド哲学の全体像を参照されたい。