本稿は、ソクラテスを主題とする全三篇のシリーズのうち、「生涯と問答法」を扱う第一篇である。シリーズ全体の総論は「ソクラテス——西洋哲学の原点」を、裁判と死をめぐる物語は姉妹編「ソクラテスの裁判と死」を、思想と後世への影響については姉妹編「ソクラテスの思想と遺産」を参照されたい。本篇では、ソクラテスがどのような時代をどう生きたか、そして彼が開発した「問答法」(エレンコス)という思考方法の構造と意義について、詳しく見ていく。
ソクラテスの生涯と問答法は、切り離して理解することのできない一体のものである。彼がどのような時代を生き、どのような日常を送っていたかを知らなければ、なぜ彼があのような対話の方法を編み出し、実践し続けたのかを理解することはできない。逆に、問答法という営みの構造を理解しなければ、ソクラテスの生涯がなぜあれほどまでに多くの敵を作り、最終的に裁判と死刑という結末に至ったのかも、十分には理解できないのである。したがって、本篇では、まず彼の生きた時代とその日常を辿り、続いてその核心にある方法論を、順を追って詳しく検討していく。
ソクラテスの生涯——アテナイの時代背景、ペロポネソス戦争、日常の哲学者
ソクラテスが生まれた紀元前469年は、古代ギリシアにおいて新しい時代の始まりを象徴する年であった。わずか数年前の紀元前480年から479年に、ギリシア各都市国家はペルシア帝国の大軍に対して決死の抵抗を行い、マラトンの戦い、サラミスの海戦、プラタイアの戦いといった歴史的な戦闘を通じてペルシアの侵略を撃退したばかりであった。このペルシア戦争の勝利は、ギリシア世界に前例のない自信をもたらし、特にこの戦争の主役となったアテナイに空前の栄光と権力をもたらしたのである。ソクラテスが少年時代から青年時代へと成長していく中で、彼が目にしたのは、このペルシア戦争の勝利に酔いしれ、自信に満ちた繁栄するアテナイの姿であった。
ソクラテスの父ソフロニスコスは彫刻家であり、母ファイナレテは助産婦であったと伝えられている。彼は特別な教育を受けたわけではなく、アテナイの普通の市民として成長した。その幼年時代の詳細については、あまり多くの歴史的記録が残されていないが、アテナイの伝統的な教育制度の中で、読み書き計算、音楽、体操といった基本的な教養を身につけたと思われる。彼は自分の時代の知識人たちが模倣していた、当時流行していたソフィスト(ソフィア=知恵、ソフィスト=知恵を教える者)たちに直接師事したという記録はない。むしろ、後の記述から判断すると、ソクラテスは独立的な思考者であり、若い頃から既に自分自身の問題意識に基づいて、自分の知識と他者の知識を検証する活動を開始していたと考えられる。
ソクラテスが成人した紀元前450年代から440年代は、アテナイがペリクレスの政治下で最高の栄光を享受していた時期である。ペリクレスは、アテナイを古代世界最大の文化的中心地へと変貌させ、パルテノン神殿の建設、演劇の奨励、民主政治の拡大といった多くの施策を推し進めていた。この時代のアテナイは、政治的には直接民主制により全ての市民(もちろん男性の市民のみであり、奴隷と女性は除外されていた)が統治に参加する権利を有していたが、同時に文化的には空前の発展を遂げていた。哲学的な議論が町の至る所で展開され、ソフィストたちは弁論術や修辞学を教えることで報酬を受け、多くの若い貴族たちが彼らの元で学んでいた。この活気に満ちた知的環境が、ソクラテスの思想活動の背景を形成していたのである。
このペリクレスの時代は、古代アテナイの最高潮を示していた。アテナイは、その民主的な制度を誇り、その文化的な達成に自信を持ち、その帝国的な権力を拡大しようとしていた。しかし、同時に、この時代は、知的な議論と精神的な不確実性の時代でもあった。伝統的な信仰が揺らぎ、新しい思想が次々と提示されていた。ソフィストたちは、確実な真理は存在しないこと、すべてのものは相対的であること、人間が知ることができるのは自分自身の感覚と意見だけであることを主張していた。このような知的相対主義の雰囲気の中で、ソクラテスは、逆に、普遍的で絶対的な真理——特に、道徳的真理——が存在すること、そして人間が理性を通じてそれを知ることが可能であることを主張したのである。つまり、ソクラテスは、古代の道徳的・知的な秩序を再確立しようとした、保守的な面を持ちながら、同時に、それを根本的に新しい方法——問答法と自己反省——によって再構築しようとした、革新的な面を持つ人物だったのである。
ところが、ソクラテスが中年に達した紀元前431年、歴史的な転機が訪れた。アテナイとスパルタを中心とするペロポネソス戦争の勃発である。この戦争は27年間にわたって続く長期戦となり、ギリシア世界全体に計り知れない損害と苦しみをもたらした。戦争の前半の10年間、アテナイはペリクレスの指導下で戦争に集中したが、紀元前429年、ペリクレス自身がアテナイを襲った疫病によって死亡した。この疫病の流行は、単に医学的な危機であるだけでなく、人々の心に深刻な精神的危機をもたらした。ソクラテスはこの戦争とその混乱の中で、徐々に自分の独特な哲学的活動を展開していったのである。
歴史的記録によると、ソクラテスはこの戦争に兵士として参加したとされている。彼は重装歩兵(ホプリタイ)として、幾つかの戦闘に参加し、その勇敢さで知られていたという。紀元前424年のアムフィポリスの戦いでは、その同志であった哲学者のアルキビアデスを救出するために、敵の矢が飛び交う中を進んで行ったという逸話が残されている。つまり、ソクラテスは単なる思想家ではなく、自分の信念に基づいて行動する人物であり、戦場においても自分の原則を守ろうとする勇敢さを示していたということである。
しかし、ソクラテスがこの戦争の進行に伴い、次第に懐疑的になっていったことも知られている。特に戦争が泥沼化し、アテナイが次々と敗北を喫するようになると、ソクラテスは社会のあり方、人々の生き方、そして何が真に価値あるものであるかについて、より深刻に問い始めるようになったのである。ペロポネソス戦争は、ギリシアの都市国家システムそのものを揺るがすものであり、その過程で多くの人々が道徳的な判断を迫られることになった。法律を守るべきか、それとも個人的な良心に従うべきか、国家に従うべきか、それとも真理を求めるべきか——こうした選択の中で、ソクラテスは自らの哲学的立場をより一層明確にしていったのである。
戦争が終わり、紀元前404年にアテナイがスパルタに敗北した後、アテナイは政治的混乱の中に陥った。スパルタによって擁立された暴君たちの統治——三十人の暴君の統治——が一時期、アテナイを支配することになったのである。この混乱の時期を通じて、ソクラテスはますます独立的な思考者、批判的な存在として知られるようになっていった。民主主義の回復後も、アテナイは社会的な不安定性と精神的な混乱から完全に回復することはできなかった。そしてこの不安定な社会情勢の中で、人々はより一層、真理は何か、人間はいかに生きるべきか、国家とは何か、といった根本的な問題に直面させられることになったのである。
ソクラテスの日常の活動は、後の記述から推測することができる。彼は通常、アテナイの街中を歩き回っていたとされている。アゴラ(市場・広場)、ジムナシオン(体育所)、シンポジウム(宴会)、劇場——こうしたアテナイの人々が集まる様々な場所で、彼は若い人々や有名な政治家たち、詩人たちと対話を行っていたのである。彼は往々にして、相手に一見簡単な問い、例えば「勇敢さとは何か」「正義とは何か」といった定義を求める問いかけを行い、その答えに対して更に深い問いを投げかけることで、相手の知識の不確かさと自分自身の無知を自覚させていったのである。
ソクラテスは結婚して家族を持っていた。彼の妻はクサンティッペという女性で、その気性の激しさで知られていたという。彼らの間には三人の息子がいたと記録されている。しかし、ソクラテスが家庭生活に大きな関心を払っていたという記録はなく、むしろ彼は家庭の事柄よりも、街中での対話を重視していたようである。実際のところ、ソクラテスは自分の妻から何度も苦情を言われたということが報告されており、彼の人生の優先順位が明白に示されている。彼にとって最も重要なのは、自分の哲学的活動であり、人々と対話を通じて共に真理を求めることであったのだ。
ソクラテスの物質的な生活は、極めて質素であったと伝えられている。彼は同じ外套を何年も着続け、靴を履かずに素足で歩いていたという。金銭をほぼ持たず、したがって裕福でもなく、常に一定の水準の貧困の中にあったとされている。しかし、この貧困は彼にとって不幸ではなく、むしろ必要な条件であったと考えられる。というのは、物質的な事柄から解放されることで、より一層精神的な問題、魂の修養、真理の追求に集中できると、彼は信じていたからである。この禁欲的な生活様式は、後の世紀における禁欲的な宗教的修行者たちに大きな影響を与えることになった。
実際のところ、ソクラテスの禁欲的な生活は、単なる個人的な選好ではなく、彼の哲学的立場の必然的な帰結であった。彼にとって、人間の最高の善は徳であり、徳は知識である。ところが、多くの人々が物質的豊かさや社会的名誉を追求するために、真の知識と徳の追求から逸脱していると、彼は信じていたのである。ソクラテス自身が禁欲的に生きることで、彼は、物質的事柄から解放されることで初めて、人間が真の知識と徳に集中できることを実践的に示そうとしたのである。つまり、彼の生活方式は、彼の哲学的メッセージを、行動を通じて説教するものであり、その点で、極めて教育的なものであったのだ。
このように、ソクラテスの人生は、極めて目立つ人生ではあったが、同時に極めて地味な、質素な人生でもあった。彼は高い地位を求めず、富を蓄積せず、名誉を欲しがらなかった。彼が求めたのは、唯一、自分と他者の魂をより善い状態へと導くこと、そして真理に一歩でも近づくことであったのである。この生き方こそが、後世の人々にとって、ソクラテスを単なる思想家ではなく、理想的な人間像、実践的な哲学者としてのモデルとさせることになったのだ。
ソクラテスの問答法(エレンコス)——対話の構造、産婆術(マイエウティケー)、無知の知
ソクラテスの最も革新的な貢献は、彼が「問答法」(エレンコス)と呼ばれる対話的な思考方法を開発し、これを通じて哲学を根本的に変革したということである。この方法は、従来の哲学的営みとは大きく異なるものであった。それまでの哲学者たちは、一般的に、自分の思想を体系的に述べたり、著作の形で論述したりしていたのに対して、ソクラテスは対話を通じて、相手の思考を揺さぶり、相手自身が自分の無知を自覚するに至るまで追求し続けたのである。この方法を理解することなく、ソクラテスの思想を理解することはできない。というのは、ソクラテスの思想は、その内容そのものよりも、その思考の過程、すなわち問い続けることという営みそのものにあるからである。
問答法の基本的な構造は、次のようなものである。ソクラテスは、通常、ある特定の徳、例えば「勇敢さ」「正義」「敬虔さ」「知識」といった概念の定義を求めることで対話を開始する。例えば、「君は勇敢な人だと言われているが、勇敢さとは一体何か、その本質を教えてくれないか」というように、一見簡潔で単純な問いかけを行うのである。相手は、通常、その問いに直接的な答えを返す。しかし、ソクラテスはその答えに満足することなく、その答えが本当に正確であるかどうかを検証するために、更なる問いを投げかける。例えば、相手が「勇敢さとは、戦場で敵に立ち向かうことだ」と答えたとしたら、ソクラテスは「では、敵に立ち向かわずに戦略的に撤退することは、勇敢ではないか」というように、相手の答えに矛盾や限定を示す反例を提示する。そのような反例を突きつけられると、相手は自分の最初の答えが不完全であったこと、あるいは誤っていたことに気付き、より精密な定義を提供しようと試みる。
しかし、ソクラテスはここでも止まらない。新しい答えに対して、またしても別の角度からの問いを投げかけるのである。このプロセスが何度も繰り返される。相手は、自分がより一層明確で正確な定義に到達しようとして、次々と新しい答えを試みる。しかし、その度ごとに、ソクラテスはそれらの答えの不完全さや矛盾を指摘し、更なる精密さを求めるのである。この過程の中で、相手は次第に自分の無知を自覚するようになる。つまり、最初は自分が「勇敢さ」について明確な理解を持っていると信じていたのに、ソクラテスとの対話を通じて、実はそれについて全く理解していないこと、その概念が思ったよりもはるかに複雑で難しいことに気付き始めるのである。
このような対話の過程で、相手が感じる感情は、決して快いものではない。多くの場合、困惑(アポリア)の状態に陥る。自分が確信していたことが次々と否定され、新しい答えを見つけようとしても、その答えもまた否定される。この困惑と混乱の状態こそが、ソクラテスが狙っていた状態である。というのは、この困惑こそが、真の学習の始まりだからである。人間が何かを真に学ぼうとするためには、まず自分が無知であることを自覚しなければならない。自分は既に知っていると信じている人間は、新しいことを学ぼうとしないのである。したがって、ソクラテスが対話を通じて達成しようとしたのは、相手にこの自覚——自分の無知の自覚——をもたらすことであったのだ。
この困惑の状態について、より深く考察すると、それが単なる負の状態ではなく、極めて肯定的な意義を持つものであることが分かる。困惑とは、人間が確実性を失う状態であり、その意味で、痛苦的な経験であるかもしれない。しかし、同時に、困惑とは、人間が新しい可能性に開かれた状態でもあるのである。既存の信念から解放された時、人間は初めて、根本的に異なる観点から問題を考えることができるようになる。つまり、困惑は、破壊的な経験である一方で、同時に、創造的な経験でもあるのである。ソクラテスは、この創造的な側面を理解していたのであり、その理由で、彼は相手に困惑を感じさせることを恐れず、むしろそれを積極的に追求したのである。
さらに、ソクラテスの問答法においては、相手の名前や身分よりも、真理への関心がより重要である。ソクラテスは、政治家であろうが、詩人であろうが、平民であろうが、すべての人間に同じ問いかけを行い、すべての人間の知識を検証したのである。このことは、古代ギリシアの厳密な身分制度と階級制度の中にあって、極めて民主的で、平等主義的な態度であった。つまり、ソクラテスは、真理と知識の追求が、すべての人間に対して開かれているべき営みであると信じていたのであり、この信念は、後の民主的思想と教育思想に、深い影響を与えることになったのである。
この問答法の過程は、しばしば相手にとって不快であり、時には怒りや恥辱をもたらした。相手は、公の場でソクラテスに論駁されることで、自分の無知を白日の下に晒されたと感じたのである。実際のところ、ソクラテスとの対話を経験した多くの人々は、彼に対して敵意を抱くようになり、その後彼がアテナイで裁判にかけられた時には、彼に対する告発者の中に、そのような敵意を持つ人々が含まれていた。ソクラテスは自分がこうした敵意を作り出していることを知っていたが、それでもなお、自分の使命——人々の魂をより善い状態へと導く使命——を放棄することはなかったのである。
さらに注目すべきなのは、ソクラテスの問答法に含まれるアイロニー(皮肉)の側面である。ソクラテスは、常に自分が知らないことを装いながら、実は、相手の誤りを指摘し、相手の知識の不確かさを露呈させている。これは、単なる修辞的な技術ではなく、ソクラテスの根本的な哲学的態度の表現なのである。つまり、ソクラテスは、自分が絶対的な知識を持つことで、相手を論駁するのではなく、自分たちが共に知らないという状況の中で、相手に自分の無知を認識させるのである。このアイロニーは、相手に対して謙虚な態度を保ちながらも、同時に効果的に相手の誤りを指摘する方法として、極めて巧妙なのである。ソクラテスのこのアイロニーなしには、彼の問答法は、単なる論駁の技術に過ぎなかったであろう。しかし、アイロニーを通じて、それは真の哲学的営みへと昇華されたのである。
さらに重要なのは、ソクラテスがこの問答法をどのように理解していたかということである。プラトンの『テアイテトス』という著作の中で、ソクラテスは自分の哲学的活動を産婆術(マイエウティケー)に例えている。産婆とは、妊婦が子どもを出産するのを助ける人のことであるが、ソクラテスは、自分の哲学的活動は、人々の魂の中に既に存在している知識を引き出すことであると述べたのである。つまり、彼は外部から知識を与えるのではなく、相手の内部に潜む知識を助産するのだということである。この比喩は、ソクラテスの根本的な信念を示している——すなわち、すべての人間は、本来的には真理についての知識を持っており、哲学的な対話を通じて、その潜在的な知識を顕在化させることができるという信念である。
この「産婆術」という概念は、また別の重要な意義を持っている。それは、知識の習得が受動的なプロセスではなく、主体的で能動的なプロセスであるということを示している。つまり、学習者が外部から知識を受け入れるのではなく、自分自身の思考を通じて、自分自身の努力によって知識を「生み出す」のである。このことは、現代の教育学においても、ソクラテスの方法が重視され、討論や対話を基盤とした学習法が推奨される理由となっている。
ソクラテスの問答法のもう一つの側面は、「無知の知」という概念である。ソクラテスは、自分について「私は何も知らない」と繰り返し述べている。しかし、この述べ方は注意深く理解される必要がある。ソクラテスは、文字通りに自分が何も知らないと言っているのではなく、絶対的な知識、完全な知識、最終的な真理についての知識をもっていないということを言っているのである。言い換えれば、ソクラテスが意図しているのは、次のようなことである:世間一般の人々は、自分が重要な事柄について確実な知識を持っていると信じているが、実のところ、彼らはそれについて根本的には無知なのである。しかし、ソクラテス自身は、自分の無知を知っている。つまり、自分が知らないことを知っているのである。この「自分の無知を知る」という知識——それは知識というより、むしろ一種のメタ認識、認識についての認識と言うべきものであるが——これが「無知の知」なのである。
この概念の深さは、単なる認識的な謙虚さ以上のものを示している。それは、人間の知識に対する根本的な態度の転換を示唆しているのである。多くの人間は、自分の知識について、確実であると感じる。彼らは自分たちが知っていることについて、疑問を持たない。しかし、ソクラテスが示唆しているのは、この確実感は、往々にして根拠のない自信に過ぎないということである。人間が真に賢くなるためには、彼はまず自分の無知を認識し、受け入れなければならない。その上で、初めて、新しい知識を求める動機が生じるのである。ソクラテスの「無知の知」は、この心理的・認識的な転換を説明しているのである。
この「無知の知」という概念は、一見矛盾しているように思える。如何にして無知であることが知識となり得るのか、という問題である。しかし、この矛盾は見かけ上のものに過ぎない。むしろ、ソクラテスが示唆しているのは、知識についての正しい態度の問題である。真に知識を求める者は、自分が何を知り、何を知らないかについて、明確な自己認識を持たなければならない。自分が知らないことを知った上で、それについて研究し、追求するのである。一方、多くの人々は、自分が知らないことについてまで、知っていると思い込んでいる。この誤った信念こそが、真の知識追求の障害となるのである。したがって、ソクラテスが「無知の知」と呼んでいるのは、実は自分の無知に気付くことで初めて、真の知識追求が可能になるということ、また、自分が何を知り何を知らないかを正確に認識することそのものが、知識への道の第一歩であるということを意味しているのだ。
ソクラテスの問答法は、また別の重要な特性を持っている。それは、対話が必ずしも明確な結論に到達しないということである。多くのソクラテス的な対話は、相手が困惑(アポリア)の状態に陥ったところで終わるのである。つまり、対話の終結点で、相手は「勇敢さとは何か」「正義とは何か」という問いに対する明確な答えをまだ得ていないのである。しかし、これは失敗を意味しない。むしろ、対話はその目的を達成したのである。というのは、相手は、自分が以前考えていたほどには、その問題を理解していないことに気付き、その問題の複雑さと深さを認識し、今や、真摯に、謙虚に、その問題について研究しようとする動機を得たからである。つまり、ソクラテスの問答法の真の目的は、特定の答えを得ることではなく、正しい問いを立てること、そして、その問いに真摯に向き合おうとする態度を養うことなのである。
さらに、ソクラテスの問答法には、倫理的な次元がある。ソクラテスが問い続ける対象は、決して抽象的な認識論的な問題だけではなく、人間はいかに生きるべきか、徳とは何か、正義とは何か、といった倫理的な問題である。ソクラテスは、知識の追求を単なる知的活動としてではなく、それを生活と結びつけ、自分たちが如何に生きるべきかという根本的な問題に結びつけたのである。この倫理的な関心は、ソクラテスの問答法の根底に常に存在していた。つまり、ソクラテスが人々に無知を自覚させようとしたのは、単に彼らを知的な面で謙虚にさせるためではなく、彼らが自分たちの生活方法、生き方について、より深刻に考え、反省し、改善するようにさせるためであったのだ。
実際のところ、この倫理的な関心こそが、ソクラテスの問答法を、単なる修辞的な技術や論証の方法から、根本的な哲学的営みへと高めるものなのである。ソクラテスは、自分と対話相手が共に、重要な倫理的問題について、より深い理解に到達することを目指していたのである。そして、その過程で、相手が自分の無知を認識することは、単なる知的な屈辱ではなく、道徳的な成長へ向けての第一歩なのであり、精神的な目覚めなのである。つまり、ソクラテスの問答法は、知識の追求と道徳的成長が、本質的に一体であることを示しているのであり、これは後世の倫理学と認識論の統合的理解に、深い影響を与えることになったのだ。
このような問答法の有効性は、それがソクラテスの強力な個性と相まって発揮されたということを忘れてはならない。ソクラテスは、常に控えめであり、決して自分が賢いと主張することなく、相手に対して親切で好意的な態度を取ったとされている。彼は相手の意見を聞き、それを尊重し、そしてそれについて更に深く追求する。このような対話者としての態度——真摯さ、誠実さ、相手への関心の深さ——が、問答法をただの論駁の技術ではなく、相手の魂を触発する哲学的営みへと高めたのである。相手は、ソクラテスが自分に対して真の関心を持ち、自分の知識と誠実さを本当に求めていることを感じたのである。そしてこの感覚が、相手をしてソクラテスとの困難で複雑な対話を続けさせ、自分の無知と向き合い、より深い思考へと導いたのだ。
こうして日常のうちに培われた問答法は、やがてソクラテス自身の運命を左右することになる。彼が公然と人々の無知を暴き続けたことは、多くの敵意を生み、それが紀元前399年の告発と裁判へとつながっていく。その裁判の経緯と、ソクラテスが死をどのように受け入れたかについては、姉妹編「ソクラテスの裁判と死」で詳しく論じる。