導入——形而上学とは何か
形而上学は、西洋哲学の最も古く、そして最も根本的な営みの一つである。この用語の起源、その歴史的発展、そして現代における意義を理解することは、哲学全体を理解するための不可欠な前提となる。形而上学という学問領域は、単なる学術的な好奇心を満たすための作業ではなく、人間が世界を根本的に理解しようとする不可避な精神活動なのである。
「形而上」の語源とその意味
形而上学という言葉の起源は、古代ギリシャの偉大な哲学者アリストテレスに遡る。アリストテレスの著作は、後の時代の学者たちによって編集され、整理された。その過程で、自然哲学に関する著作の後に置かれた著作群に対して、「メタ・タ・フュシカ(Meta ta physika)」という名称が付与された。この名称は、文字通りには「自然(physika)を超えて(meta)」という意味である。しかし、この翻訳は必ずしも原意を完全に捉えているわけではない。
実のところ、最初の編集者たちの意図は単に物理学に関する著作の後に置かれた著作という、純粋に物理的な配置を示していたに過ぎない。しかし、時間とともに、この名称は哲学的な意味を帯びるようになった。形而上学は、単なる物質的な自然を超えた、より根本的で抽象的な原理を探求する学問として理解されるようになったのである。
形而上学という用語が日本語で使用されるようになった際、「形而上」という造語がなされた。これは中国の古典に由来する表現である。「形而上者謂之道、形而下者謂之器」という『易経』の言葉は、形という外形を超えた道理と、物質的な形を持つ器を区別している。この東洋的な思想背景と西洋的な概念が融合することで、形而上学という概念は、単なる外来語ではなく、東洋の思想的伝統とも共鳴する深い意味を持つようになったのである。
形而上学の根本的な問い
形而上学が扱う問い一覧は、きわめて多様かつ深刻である。それらの問いは、すべて存在に関する根本的な疑問に収束していく。これらの問いは、人類が古代から現代まで一貫して考え続けてきた、人間の知的営みの中核を形成している。
まず第一に、「存在とは何か」という問いがある。この問いは極めて単純に見えるが、その奥底は底知れぬほど深い。私たちが日常生活で使用する「存在する」という言葉は、多くの異なった意味を包含している。例えば、物質的な物体が存在するという意味での存在と、抽象的な数学的対象が存在するという意味での存在は、同じ「存在」という言葉で表現されながらも、全く異なった実在のモードを指しているのかもしれない。さらに、願いや夢や愛といった精神的な実在は、物質的な存在と同じような方式で存在しているのか、それとも全く異なった種類の実在なのか。これらの問いに対して、形而上学は真摯に取り組まなければならない。
第二に、「何が実在するのか」という問いがある。これは存在に関する問いとも関連しながらも、より具体的な内容を問うている。私たちの経験する世界には、無数の事物が存在する。しかし、そのすべてが同じレベルで実在しているのだろうか。例えば、影は実在するか。影は光と物体があれば必然的に生じるが、それでも影そのものが独立した実在を持つとは考えにくい。あるいは、社会的な制度、例えば国家や企業は、物質的には存在しないにもかかわらず、厳然とした実在を持っているのではないか。形而上学は、これらの複雑な問題に対して、体系的な説明を提供しようと試みている。
第三に、「因果関係とは何か」という問い。私たちは日常的に因果関係を想定している。ボールを投げれば落ちる、火をつければ燃える、種を植えれば花が咲く。しかし、因果関係の本質は何か。因果関係は、単なる時間的な先後関係の習慣的な結びつきなのか、それとも、より根本的な必然的結合なのか。また、因果関係は客観的に存在する世界の構造であるのか、それとも、人間の認識が世界に投影した概念であるのか。これらの問いは、科学の基礎にも関わる根本的な問題である。
第四に、「時間と空間とは何か」という問い。私たちは時間と空間の中で生活している。しかし、時間と空間は物質的に実在するのか、それとも、単なる認識の形式なのか。過去や未来は本当に存在するのか、それとも現在だけが実在し、過去と未来は人間の心の中に存在するだけなのか。あるいは、空間は絶対的に存在する容器なのか、それとも、物体同士の関係の集合に過ぎないのか。これらの問いは、物理学の発展、特に相対性理論の出現によって、新たな現代的意義を帯びるようになった。
第五に、「自由意志は存在するのか」という問い。人間は自由意志を持っているのか、それとも、すべての人間の行動は物理法則によって決定されているのか。もし人間がすべて決定されているのであれば、道徳的責任や法的責任はどのような基礎の上に成り立つのか。あるいは、決定と自由は両立可能なのか。この問いは、倫理学や法学にも深刻な影響を与えている根本的な形而上学的問題である。
これらの問い、そして多くの他の問いが、形而上学の領域に属している。形而上学は、これらの問いに対して、明確で一貫性のある答えを提供しようと試みる学問領域なのである。
なぜ形而上学が重要なのか
形而上学が重要である理由は、多方面にわたる。第一に、形而上学は、他のあらゆる学問の基礎を形成している。例えば、科学は、物質的な世界が客観的に存在し、その法則性を我々は認識できるという仮定の上に成り立っている。この仮定は、純粋に科学的な方法論だけからは導出できない形而上学的な前提なのである。倫理学は、人間の行為についての道徳的な評価が可能であり、かつ、人間には道徳的な行為能力があるという仮定に基づいている。これもまた形而上学的な仮定である。
第二に、形而上学は、人間の存在の意味を問う営みである。人間は、自己の存在について問い、自らの位置づけを試みる唯一の動物である。人間は何か、人間は何のために存在するのか、人間の本質は何か。これらの問いに対する答えは、形而上学的な思考を通してのみ得られるものなのである。人生の意味、人間関係の本質、社会の正当性、これらはすべて、深い形而上学的な思索に根ざしている。
第三に、形而上学的な思考は、イノベーティブな思想の源泉となる。科学の進展、社会的制度の改革、芸術や文化の創造は、しばしば形而上学的な新しい視点の発見に支えられている。例えば、相対性理論は、時間と空間に関する新しい形而上学的な視点を提供した。量子力学の出現は、因果性と決定論に関する従来の見方に根本的な疑問を投じた。
第四に、形而上学は、人間の理性的思考の自由を守るものである。形而上学的な思考を放棄することは、すなわち、人間がある既定の前提条件を無批判に受け入れることを意味する。その前提条件が、単に伝統的なものであったり、権力によって押し付けられたものであったりするかもしれない。形而上学的な思考を続けることは、あらゆる前提条件を批判的に検討し、人間の理性の自由と自律を守るための不可欠な営みなのである。
存在論(オントロジー)——何が存在するのか
存在論は、形而上学の中心的な領域である。「何が存在するのか」という問いは、形而上学の最も根本的な問いであり、この問いに対する異なった答えが、形而上学的な立場の相違を生み出すことになるのである。存在論の歴史は、古代ギリシャから現代まで連続しており、その中で様々な対立する立場が生み出されてきた。
存在の問い——パルメニデスからハイデガーまで
古代ギリシャの哲学者パルメニデスは、存在論の祖と言える。彼は「存在するものは存在し、存在しないものは存在しない」という当たり前に見える命題から出発しながらも、その帰結として、存在するものは変化することなく、唯一にして分割不可能であると主張した。この主張は、我々の日常的経験と大きく矛盾している。私たちが見る世界は、絶え間ない変化に満ちている。しかし、パルメニデスは、この変化が見かけのものであり、本来の存在は不変であると考えたのである。
パルメニデスの主張は、古代ギリシャの哲学に深刻な危機をもたらした。変化を説明できない形而上学は、経験的現実を説明できないのではないか。この問題に対して、古代の哲学者たちは様々な解決策を提案した。プラトンは、変化する感覚的な世界と、不変のイデアの世界を二分することで、この問題を解決しようとした。アリストテレスは、あらゆるものには潜在性と現実性があり、潜在的なものが現実的なものへと変化していくプロセスを説明することで、変化を理論化しようとした。
中世キリスト教の思想家たちは、存在の問いにおいて、神と被造物の関係を中心的に考えていた。すべての被造物は神によって存在させられるものであり、神のみが自存的な存在、すなわち、自らの本質から存在が必然的に従う存在である。この中世的な存在観は、存在をある種の階層構造の中に位置づけるものであった。
近代に入ると、デカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」という命題から出発して、思考する実体としての精神と、延長する実体としての物質を区別した。この二元論は、存在を精神的なものと物質的なものに二分する立場を確立したのである。その後、ライプニッツやスピノザなど、様々な形而上学者たちが、存在の本質についての異なった説を提唱した。
現代の形而上学においては、ハイデガーが存在の問いに対して、ラディカルな再考を加えた。ハイデガーは、伝統的な哲学が「存在とは何か」という問いを立てながらも、その問いを真摯に追求してこなかったと批判した。ハイデガーは、存在を理解するためには、人間的な存在の構造、つまり「現有」(ダーザイン)を分析することが必要であると主張した。人間は、世界の中に投げ込まれた存在であり、その人間的な存在の分析を通してのみ、存在一般を理解することができるというのが、ハイデガーの立場である。
ハイデガーの存在論的転回以降、多くの哲学者たちが、存在の問いに対して、新しい視点からアプローチしようとした。例えば、アメリカの分析系哲学者たちは、存在の問いに対して、より厳密で論理的なアプローチを提案した。一方、フランスの現象学的な思想家たちは、ハイデガーの人間存在中心的なアプローチを継承しながらも、それをさらに発展させようとした。
普遍と個別——実在論と唯名論
存在論の中で、特に重要な対立の一つが、普遍と個別に関する問題である。この問題は、古代ギリシャまで遡ることができる哲学的な対立である。
個別的なものは、我々の経験の中で直接に与えられるものである。この机、その机、あの机。これらは、すべて異なった個別的な机である。しかし、これらの異なった机を「机」と呼ぶのは何故か。共通の性質があるからである。その共通の性質とは何か。それは、「機の普遍」であるのか、それとも、個別的なものの相似の結果に過ぎないのか。
プラトンは、この問題に対して、実在論的な答えを提供した。プラトンによれば、個別的な机は、流動的で不完全であり、厳密な意味では存在しない。真に存在するのは、「機のイデア」という普遍的で不変の形相である。個別的な机は、このイデアに「参与」することによってのみ、存在することができるのである。イデア論は、普遍を最高の実在的地位に与える、極端な実在論である。
これに対して、アリストテレスは、異なった立場を採用した。アリストテレスによれば、真に存在するのは、個別的な実体(substance)である。普遍は、個別的な実体に内在する属性であり、個別的な実体なくしては存在しない。普遍は現実的に存在するのではなく、抽象的に我々の心の中に存在するのである。
中世になると、この問題は、さらに複雑になった。スコットゥス派と呼ばれる哲学者たちは、普遍の実在性を強く主張した。一方、オッカムと呼ばれる哲学者は、唯名論の立場から、普遍の単なる名辞的な性質を強調した。オッカムによれば、真に存在するのは個別的なものだけであり、普遍は単なる名前に過ぎないのである。
現代の分析系哲学における普遍と個別に関する議論は、より洗練された形で継続されている。現代的な実在論は、普遍が個別的なものの性質や関係として実在すると主張する。一方、唯名論の現代的な変種は、すべての実在は個別的なものに還元可能であり、普遍は単なる概念的な便宜性に過ぎないと主張する。
この議論の現代的な意義は、数学と科学の基礎に関わっている。例えば、素数や幾何学的な図形は、個別的な実体として存在するのか、それとも、単なる抽象的な概念なのか。あるいは、物理学における基本的な粒子や力場は、普遍的な型の実現なのか、それとも、単なる個別的な現象なのか。これらの問いは、数学の哲学や科学の哲学に深刻な影響を与えているのである。
可能世界と様相実在論
現代の形而上学において、特に重要な発展の一つが、可能世界論と様相実在論の出現である。この理論は、形而上学的な必然性と可能性を理解するための新しい枠組みを提供している。
可能性とは何か。何かが可能であるということは、それが現実に存在しないにもかかわらず、存在することができるという意味である。例えば、私がコーヒーを飲む代わりに紅茶を飲むことは可能である。実際には、私がコーヒーを飲んだかもしれないが、紅茶を飲むこともできたという意味である。しかし、この可能性は、どのような存在論的な地位を持つのか。
可能世界論は、このような可能性を理解するための一つの方法を提供する。可能世界とは、現実と異なった方式で存在し得る、完全に決定された世界の全体像である。現実の世界は、無数の可能世界の中の一つに過ぎない。例えば、私が紅茶を飲む世界も、可能世界の一つである。その世界では、私は実際に紅茶を飲んでいる。
この理論の最も徹底的な推進者の一人が、デヴィッド・ルイスである。ルイスは、可能世界が単なる概念的な便宜性ではなく、現実に存在するものであると主張した。つまり、他の可能世界は、我々の現実の世界と同じレベルで実在しているというのである。この立場は、極端な実在論に見えるかもしれないが、ルイスは、この見方が実は可能性と必然性を理解するための最も説得力のある方法であると主張している。
可能世界論の応用は、きわめて広範である。例えば、反事実的条件文の真偽値を決定する問題に対して、可能世界論は一つの解答を提供する。「もし私が宝くじに当たったなら、私は幸せになるだろう」という文は、真であるか、偽であるか。可能世界論によれば、この文が真であるのは、私が宝くじに当たる可能世界(現実世界に最も近い可能世界)では、私が幸せになっているということである。
また、可能世界論は、本質性に関する形而上学的な議論にも適用される。ソクラテスが男性であることは、必然的なのか、それとも、偶然的なのか。可能世界論によれば、ソクラテスが女性である可能世界が存在しない場合、ソクラテスが男性であることは必然的である。逆に、そのような可能世界が存在する場合、それは偶然的である。
様相実在論は、可能性と必然性をめぐる議論に、新しい地平を切り開いた。この理論は、形而上学的な様相(可能性、必然性、偶然性)が、客観的な世界の構造に基づいているということを示唆している。つまり、何かが可能であるか不可能であるかは、単なる主観的な見方ではなく、客観的な事実なのである。
抽象的対象の存在
存在論において、特に困難な問題の一つが、抽象的な対象の存在である。物質的な物体、例えば机や椅子は、明らかに存在している。しかし、数や命題、あるいは抽象的な性質は、どのような意味で存在しているのか。
数が存在するという考えは、直感的には奇妙に見えるかもしれない。しかし、数学は、数に関する命題を証明している。例えば、「2は素数である」という命題は真である。もし数が全く存在しなければ、この命題はどのようにして真でありうるのか。この問いに対して、プラトン的な実在論は、数も他の普遍と同じく、抽象的な領域に実在すると答える。
一方、唯名論的な立場からは、数は単なる符号の集合であり、言語的な習約に過ぎないと主張される。数学的な真理は、単に言語的な定義と演算規則から導出される、分析的な真理に過ぎないというのである。
命題もまた、抽象的な対象である。命題とは、真偽値を持つ意味のある言語表現の内容である。「雪は白い」という文と「Snow is white」という英語の文は、異なった文であるが、同じ命題を表現している。命題そのものは、特定の言語に依存しない、抽象的な対象である。
抽象的な性質、例えば「赤さ」や「三角形であること」も、存在論において困難な問題を提起する。赤さとは何か。赤い物体は実在するが、赤さそのものは、どのような存在のモードを持つのか。赤い物体を分析しても、物体そのものと赤さという性質が分離可能なのか、それとも、常に一体であるのか。
これらの問題に対して、現代の形而上学は、様々なアプローチを提案している。抽象対象の実在を認める立場、抽象対象の存在を否定する立場、あるいは、抽象対象の存在を特殊な方式で理解する立場。これらの立場は、いずれも一定の説得力を持ちながら、根本的には相容れない見方を提供しているのである。
実体と属性——ものの本質
実体(substance)とは何か。属性(property)や様態(mode)とは何か。これらの概念は、形而上学における最も基本的な概念の一つである。何かが存在すると言うときに、その存在する「もの」とは何であるのかを理解することは、形而上学の中核的な課題なのである。
アリストテレスの実体論
アリストテレスは、存在するものの中で、最も基本的なものが「実体」であると考えた。実体とは、他のものに基礎づけられることなく、それ自身で存在することができるものである。一方、属性とは、常に何か他の実体に基礎づけられているものである。例えば、この机という実体は、それ自身で存在することができるが、机の茶色さという属性は、常に机という実体に属しているのである。
アリストテレスは、さらに、実体を第一実体と第二実体に区別した。第一実体とは、個別的な実体、例えば、この特定の机、あの特定の馬である。第二実体とは、種や属のような普遍的な実体である。アリストテレスの立場では、より厳密な意味での実体は第一実体である。第二実体は、第一実体から抽象された、二次的な存在のモードである。
さらに、アリストテレスは、実体を本質(essence)と存在(existence)に関連させて考えた。実体には、その実体をその実体たらしめるような本質がある。人間の本質は、「理性を持つ動物」であるというように。この本質と存在の区別は、後の中世スコラ学の形而上学において、極めて重要な役割を果たすようになった。
デカルトの二元論——精神と物質
デカルトは、西洋哲学における根本的な転回をもたらした哲学者である。彼の「われ思う、ゆえにわれあり」という命題から出発した思考は、実体に関する二元論的な結論に至った。
デカルトは、二つの相互に独立した実体を区別した。第一は、思考する実体(res cogitans)、つまり精神である。精神の本質的な属性は、思考である。精神は、思考によってのみ定義される実体である。第二は、延長する実体(res extensa)、つまり物質である。物質の本質的な属性は、空間的な延長である。物質は、空間的に広がることによってのみ定義される実体である。
デカルトの二元論は、極めて明確な二つの実体の区別を提示した。精神と物質は、互いに完全に異なった属性を持つ異なった実体である。精神は、空間的に広がらず、したがって、空間的な位置を持たない。物質は、思考を持たず、したがって、意識や感覚の能力を持たない。
しかし、この二元論は、同時に深刻な問題を提起した。精神と物質は、全く異なった実体であるならば、両者の間の相互作用は、どのようにして可能なのか。人間の心は、身体に作用することができるし、身体も心に影響を与えることができる。しかし、異なった実体の間の相互作用は、如何にして説明可能なのか。この問題は、「心身問題」として、その後の哲学における中心的な問題の一つとなった。
デカルトは、この問題に対して、松果体という脳の中の特定の部位が、精神と物質の相互作用の場所であると提唱した。しかし、この説は、説得力を持つには至らなかった。なぜなら、松果体もまた物質的な部位であり、物質がいかにして精神に作用するのかという根本的な問題は、解決されていないからである。
スピノザの一元論
スピノザは、デカルトの二元論に対して、激しい批判を加え、その代わりに、一元論的な実体観を提唱した。スピノザによれば、実在するのは、唯一の無限実体であり、それをスピノザは「神」と呼んだ。この唯一の実体は、無限に多くの属性を有しているが、人間の心は、その中の二つの属性、すなわち、思考と延長のみを認識することができるのである。
スピノザの一元論において、精神と物質は、同一の実体の二つの異なった側面であるに過ぎない。精神的な事象と物質的な事象は、同じ出来事の二つの異なった表現方法に過ぎない。例えば、身体の運動と心の思考は、同じ原因から生じた、同一の事象の二つの表現である。このようにして、スピノザの一元論は、心身相互作用の問題に対して、それまでの哲学とは異なった種類の解決策を提示したのである。
スピノザの思想は、当時のキリスト教正統派から猛烈な反発を受けた。その理由は、スピノザが、神と自然を同一視したパンテイズムの立場に立っていたからである。しかし、スピノザの思想は、後の形而上学に深刻な影響を与えた。特に、ドイツ観念論の哲学者たちは、スピノザの一元論に強く影響を受けた。また、現代の物理主義的な実体観も、ある意味では、スピノザの一元論の系統に属していると言えるだろう。
ライプニッツのモナド論
ライプニッツは、デカルトの二元論とスピノザの一元論に対して、第三の選択肢を提示した。ライプニッツの形而上学は、モナドと呼ばれる基本的な実体についての理論に中心を置いている。
モナドとは、ライプニッツが考えた基本的な実体である。モナドは、不可分であり、永遠であり、各々が唯一で特異な特性を持つ。この世界は、無限に多くのモナドで構成されている。各々のモナドは、独立した実体であるが、同時に、モナド同士は完全に調和している。この調和は、神によってあらかじめ確立された調和(pre-established harmony)と呼ばれる。
ライプニッツの理論によれば、精神と物質の相互作用という問題は、実は、問題ではない。精神的なモナド(人間の理性を持つモナド)と物質的なモナド(物体を構成するモナド)は、決して相互に作用することなく、各々独立して活動しながら、神によってあらかじめ調和されているのである。
ライプニッツはさらに、すべてのモナドが、宇宙全体についての知識を持っていると主張した。各々のモナドは、宇宙の他のすべてのモナドを「知覚」している。ただし、各々のモナドの知覚の明晰さと区別性の程度は、異なっている。人間のような高度なモナドは、より多くのことを明晰に知覚することができるが、より低等なモナドは、ぼんやりとした知覚しか持たない。
ライプニッツの形而上学は、極めて複雑で、時には矛盾しているように見えるかもしれない。しかし、その根底にあるのは、世界全体の調和と秩序に対する深刻な信念である。ライプニッツは、この世界は、神によって創造された、あらゆる可能な世界の中で「最善の世界」であると考えた。
束理論と基体理論
現代の形而上学において、実体と属性の関係に関する議論は、より洗練された形式で継続されている。特に重要なのが、「束理論」と「基体理論」の対立である。
基体理論(substrate theory)は、伝統的な実体観を継承している。この理論によれば、属性や性質は、常に何か基礎となる基体(substrate)に属している。例えば、赤さ、固さ、重さといった性質は、常に何か基体としての物体に属しているのである。この理論は、直感的に理解しやすく、我々の日常的な経験に符合するように見える。
一方、束理論(bundle theory)は、実体を属性の束として理解する。この理論によれば、物体とは、赤さ、固さ、重さといった属性の集合に過ぎない。基体としての物体の本質的な役割は何もない。物体は単に、様々な属性が共存する方法に過ぎないのである。
これらの理論の対立は、形而上学的に深刻である。例えば、二つの物体が、すべての属性において全く同一である場合を考えてみよう。基体理論によれば、これらの二つの物体は、基体が異なっていれば、異なった物体である。つまり、物体の同一性は、その属性ではなく、基体によって決定される。一方、束理論によれば、すべての属性が同一であれば、物体も同一である。物体の同一性は、その属性の束によってのみ決定されるのである。
心身問題——意識と物質の関係
心身問題は、形而上学における最も根本的で、同時に最も複雑な問題の一つである。意識とは何か。精神的な現象と物質的な現象の関係は何か。これらの問いは、古代からの哲学的伝統と、現代の認知科学的知見を統合する形で、新たな深さを持つようになっている。
心身二元論とその問題
心身二元論は、デカルトに由来する立場である。この立場によれば、精神と物質は、全く異なった種類の実体である。意識は、非物質的な精神に属する現象であり、物質的な身体とは本質的に異なっている。
心身二元論の一つの利点は、意識の特異性を真摯に認めることである。意識には、物質的な現象には見られない独特な特性がある。例えば、意識には、質的な属性(qualia)がある。コーヒーの苦味を味わうことの体験、赤い色を見ることの体験は、特有の質的性格を持っている。この質的な体験は、単なる物理的な状態の記述では、完全には説明しきれないように思われる。
しかし、心身二元論は、深刻な問題を抱えている。最も根本的な問題は、非物質的な精神が、物質的な身体とどのようにして相互作用するのかということである。神経システムは物質的であり、神経細胞間の相互作用は、物理化学的な反応によって説明される。しかし、非物質的な精神がどのようにして、この物理化学的な過程に影響を与えるのか、あるいは、物理化学的な過程がどのようにして非物質的な精神に影響を与えるのか。これは極めて困難な問題である。
心身相互作用の問題を回避するために、様々な二元論的な立場が提案されてきた。例えば、付随現象主義(epiphenomenalism)は、物理的な過程が精神を産生するが、精神は物理的な過程に逆に影響を与えないと主張する。つまり、意識は、物理的な脳活動の副産物であり、それ自体は因果的な力を持たないのである。しかし、この立場は、人間の行為が意識的な思考に基づいているという常識的な理解と矛盾するように見える。
物理主義——還元的・非還元的
物理主義は、最終的に存在するのは物質(あるいは物理的エネルギー)だけであり、精神を含む一切の現象は、物理的な過程から説明可能であると主張する。この立場は、デカルトの二元論に対する多くの現代の哲学者による支持を失い、物理科学の成功に基づいて、有力な立場となっている。
還元的物理主義は、精神的な現象は、最終的には脳の物理的な過程に還元可能であると主張する。例えば、痛みは、特定の神経細胞の活動パターンに過ぎないのである。この立場の利点は、精神と物質の相互作用という問題が、解消されるということである。精神は物質ではないという問題そのものが、存在しなくなるのである。
しかし、還元的物理主義は、重大な困難に直面している。最も有名なのが、「クオーレリア」(qualia)の問題、あるいは「知識論証」(knowledge argument)である。これは、フランク・ジャクソンという哲学者によって提唱された議論である。ジャクソンは、カラーテレビを見たことのない、黒と白のテレビの中で育った色彩科学者メアリーを想像するよう求めている。メアリーは、色についての科学的知識をすべて持っているが、色を見たことがない。ある日、メアリーが黒と白のテレビの外に出て、初めて赤い色を見たとき、メアリーは新しい何かを学ぶ。つまり、赤い色を見ることの体験を学ぶのである。この例は、物理的な事実のすべてを知ることが、質的な体験を知ることと同じではないことを示唆している。
非還元的物理主義は、この問題に対して、異なった答えを提供する。この立場によれば、精神的な性質は、物理的な性質から因果的に生じるが、精神的な性質は、物理的な性質に還元不可能である。つまり、精神的な現象は、その基盤は物理的であるが、それ自体の独自な法則性を持つのである。この立場は、物質的な世界観を保ちながら、意識の質的な特性を尊重しようとするものである。
機能主義
機能主義は、心身問題に対する一つの影響力のある現代的な解答である。機能主義によれば、精神的な状態とは、入力(感覚情報)と出力(行動)、および他の精神的な状態との間の特定の機能的関係によって定義される。例えば、痛みとは、特定の物理的損傷を入力として受け取り、特定の行動を出力として産生し、他の精神的な状態(例えば不安)と相互作用する、そのような機能的な役割を持つ状態なのである。
機能主義の利点は、それが、精神的な現象を、物質的な基盤を持つ体系の機能として理解することである。これにより、心身相互作用の問題は、部分的に解決される。精神的な状態は、物理的な過程によって実現される機能的な役割であるから、精神的な状態が物理的な過程に影響を与えることは、一向に神秘的ではなくなるのである。
しかし、機能主義もまた、問題を抱えている。特に、「質的な体験」(qualia)の問題は、機能主義においても完全には解決されない。例えば、私がコーヒーの苦味を体験することの質的な性格は、コーヒーに対する私の機能的な反応によって、完全に説明可能なのだろうか。もし、全く同じ機能的な反応をする存在があるが、コーヒーの苦味をまったく感じていないとしたら、その存在の精神状態は、私のそれと同じなのだろうか。この問題は、「逆転スペクトラム」として知られている。
汎心論
汎心論は、心身問題に対する、従来の枠組みを全く異なった方向に転換する立場である。汎心論によれば、心や意識は、物質的な事物全般に普遍的に存在する。つまり、すべての物質は、何らかの形の心を持っているのである。
この立場は、一見、非常識に見えるかもしれない。しかし、汎心論の支持者たちは、この立場が、実は、心身二元論の困難な問題と物理主義の説明的な不十分性を同時に解決する力を持っていると主張する。なぜなら、汎心論によれば、物質と意識の間の区別そのものが存在しないからである。
現代の汎心論は、単に素朴な立場ではなく、洗練された哲学的な議論に支えられている。例えば、フィリップ・ゴフなどの哲学者は、汎心論が、実は、物質科学と人間の自己理解の間のギャップを橋渡しする最も合理的な方法であると主張している。
意識のハードプロブレム
「ハード・プロブレム」という概念は、デビッド・チャーマーズによって提唱された。チャーマーズは、意識に関する二つの異なった問題を区別した。
「イージー・プロブレム」とは、意識に関する様々な機能的な特性を説明する問題である。なぜ我々は見ることができるのか、なぜ我々は学習できるのか、なぜ我々は反応できるのか。これらの問題は、原則的には、神経科学の発展によって説明可能な問題である。これらは、機能的な説明を求める問題なのである。
一方、「ハード・プロブレム」とは、なぜ物理的な過程が質的な経験を伴うのかということである。なぜ、光刺激が単なる神経活動の形態で脳に到達するだけでなく、「赤さ」というような質的な体験を伴うのか。この問題は、原則的には、物理的な説明では説明不可能であるようにも見える。物理的な説明は、「何がどのように起きているか」ということは説明できるが、「なぜそれが質的な体験を伴うのか」ということは説明しない。
チャーマーズのハード・プロブレムは、心身問題に関する現代の議論を深くした。この問題に対して、様々な答えが提唱されている。一部の哲学者は、ハード・プロブレムは実は偽りの問題であり、十分な物理的説明があれば解決可能であると主張する。一方、他の哲学者は、ハード・プロブレムは真の問題であり、物理主義を超える新しい枠組みを要求していると主張する。
因果性と決定論——原因と結果の本質
因果性とは何か。なぜ一つの事象が別の事象を起こすのか。これらの問いは、形而上学における基本的な問題の一つであると同時に、科学の基礎に関わる問題でもある。また、決定論と自由意志に関する議論とも深く関連している。
ヒュームの因果論
スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、因果性に関する現代的な議論の出発点を提供した。ヒュームは、自分たちが「因果関係」と呼ぶものは、実のところ、何であるのかを厳密に分析しようとした。
ヒュームによれば、我々が経験の中で観察するのは、一つの事象が別の事象に時間的に先行し、空間的に隣接しているということだけである。我々は、一つの球がもう一つの球に衝突して、もう一つの球が動く場面を見る。しかし、我々が観察するのは、球Aが動く、その直後に球Bが動くという時間的な関係だけである。我々は、球Aが球Bを「動かす」という関係そのものは観察しない。因果関係そのものは、感覚経験の対象ではないのである。
そこで、ヒュームは、因果関係は、恒常的な連接(constant conjunction)という習慣的な関連付けに基づいていると提唱した。我々が、事象Aが事象Bに常に先行し、常に隣接しているのを観察すると、我々の心は、この恒常的な連接に基づいて、AがBを「起こす」という因果関係を推測する。しかし、この因果関係は、客観的な現実に存在するのではなく、我々の心が、経験的に与えられた恒常的な連接に基づいて、形成する概念なのである。
ヒュームの分析は、革新的であった。彼は、因果性を、物理的な接触や力の作用という素朴な考え方ではなく、経験的な観察と心の働きという観点から理解しようとした。しかし、ヒュームの見方は、また、因果性を単なる習慣的な心理的関連付けに還元するもので、客観的な因果法則の実在性を否定するように見えた。この点は、その後の哲学における継続的な批判の対象となった。
反事実的因果論
ヒュームの因果論が直面する困難に対処するために、現代の哲学者たちは、「反事実的因果論」という立場を発展させた。特に、デイヴィッド・ルイスによる定式化が有力である。
反事実的因果論によれば、「AがBを起こす」という因果関係の成立は、「もしAがなかったなら、Bも起きなかったであろう」という反事実的条件文の真理によって決定される。つまり、因果性は、反事実的な可能性の構造に基づいているのである。
例えば、マッチが擦られて着火したという場合、「もしマッチが擦られなかったなら、着火しなかったであろう」ということが真であれば、マッチを擦ることが着火の原因である。一方、「マッチが擦られたが、既に気化したガソリンが燃えていた」という場合、「もしマッチが擦られなかったなら、それでもガソリンは燃えていたであろう」となり、この場合、マッチを擦ることは、ガソリンの燃焼の原因ではない。
反事実的因果論の利点は、それが、ヒュームの恒常的連接という概念よりも、より精密に因果関係を定義することである。単に時間的に先行し、常に共起するだけでは、因果関係を成立させない。反事実的な関係が必要なのである。しかし、反事実的因果論もまた、可能世界の本性に関する深い形而上学的な議論を要求する。反事実的条件文が真であるかどうかを判定するためには、どの可能世界が「現実世界に最も近い」のかを決定する必要がある。この判定は、時に困難である。
決定論と非決定論
決定論は、過去のすべての状態と自然法則が与えられれば、現在および未来のすべての状態が必然的に決定されるという立場である。つまり、すべての事象は、先行する事象と普遍的な因果法則によって完全に決定されているのである。
決定論は、古代からの形而上学的立場である。ラプラスの悪魔という思考実験は、決定論の意味を明確に示している。もし、ある知性が、宇宙のすべての粒子の位置と運動量、およびすべての自然法則を知ることができたなら、その知性は、過去と未来のすべてを完全に知ることができるであろう。このような完全な決定主義的な宇宙観は、科学革命以後、多くの科学者によって支持されてきた。
一方、非決定論は、すべての事象が先行する事象と法則によって完全に決定されるわけではないと主張する。現実には、真の偶然性、つまり、先行する条件からは決定されない出来事が存在するのであると。非決定論は、量子力学の出現によって、強い科学的支持を得るようになった。
量子力学と因果性
量子力学は、古典的な決定論的な物理学に対する根本的な転換をもたらした。量子力学によれば、素粒子の運動は、完全には決定されていない。むしろ、素粒子が特定の状態にある確率だけが、理論的に計算可能なのである。
ハイゼンベルクの不確定原理は、素粒子の位置と運動量を同時に任意の精度で測定することは不可能であることを示す。これは、単に測定技術の限界ではなく、現実そのものの特性であると理解されている。つまり、素粒子のレベルでは、確定的な位置と運動量を同時に持つということ自体が、意味を持たないのである。
この量子力学的な見方は、因果性に関する伝統的な理解に深刻な疑問を投じた。古典的な物理学では、原因が完全に決定されていれば、結果も完全に決定される。しかし、量子力学では、どれだけ原因を詳細に指定しても、結果は確率的にしか決定されない。つまり、真の偶然性が、物理的な世界の基本的な特性なのである。
この発見は、形而上学に対しても大きな影響を及ぼした。決定論的な世界観は、更新を迫られることになった。また、自由意志の問題も、新たな次元を持つようになったのである。
自由意志の問題
自由意志は存在するのか。この問いは、古代からの形而上学的問題であるとともに、倫理学、法学、あるいは一般的な人間の自己理解に関わる根本的な問題である。
決定論と自由意志の両立可能性
決定論が真であるとしても、自由意志が存在するのか。この問いに対して、様々な哲学的な立場が対立している。
決定論と自由意志の間に本質的な矛盾があると考える立場が存在する。その一つが、非両立論(incompatibilism)である。非両立論は、決定論が真であれば、自由意志は存在しないと考える。逆に、自由意志が存在するなら、決定論は偽でなければならないと考える。つまり、決定論と自由意志は相容れない(incompatible)のである。
これに対して、両立論(compatibilism)は、決定論が真であっても、自由意志は存在可能であると考える。両立論者は、「自由」の概念を、決定論と矛盾しないような方式で再定義する。例えば、自由意志とは、単に「他者の強制や外部からの拘束がない」という状態であると定義されるかもしれない。この定義によれば、たとえすべての行為が先行する原因によって決定されていても、その行為が行為者の欲望や意思によるものであり、外部からの強制がなければ、その行為は「自由な行為」なのである。
両立論——コンパティビリズム
両立論は、現代の哲学において、多くの支持者を持つ立場である。両立論者たちは、自由意志が決定論と両立可能であるだけでなく、実際には、我々が有するものは、決定論と両立する自由意志以外にはあり得ないと主張する。
両立論の基本的な考えは、「自由」を外部的な強制からの解放と定義することである。人間は、自分の欲望や信念、動機に基づいて行為するとき、その行為は自由である。たとえその欲望や信念が、神経系や過去の経験によって決定されているとしても、その人が「自分自身の欲望に基づいて行為している」限り、その行為は自由なのである。
例えば、私が朝、自分が飲みたいと思うコーヒーを飲む行為を考えてみよう。たとえこの欲望が、脳の神経化学的な過程によって完全に決定されているとしても、私がこの欲望に基づいて行為する限り、この行為は「私の自由な行為」である。もし、誰かが無理矢理に私を拘束して、コーヒーを飲むことを強制したなら、それは自由ではない。しかし、私自身の欲望に基づいた行為は、たとえそれが決定されていても、自由なのである。
非両立論——リバタリアニズムとハードデターミニズム
非両立論は、決定論と自由意志が両立不可能であると考える立場である。この立場は、さらに、二つの異なった方向に分岐する。
リバタリアニズムは、自由意志は実際に存在し、したがって、決定論は偽である主張する。つまり、世界は決定論的ではなく、真の偶然性や人間の自由な選択が存在するのだと。リバタリアニズムの支持者たちは、量子力学における不確定性を指摘しながら、この不確定性が、人間の自由意志の余地を提供していると主張する。また、人間の道徳的責任や法的責任の可能性に基づいて、自由意志が必ず存在しなければならないと主張する者もいる。
一方、ハードデターミニズムは、決定論が真であり、したがって、自由意志は存在しないと主張する。ハードデターミニズムは、我々の常識的な自由意志についての理解が、深刻な誤りであると考えている。人間の行為は、すべて先行する原因によって決定されているのであり、人間が何か「自由に選択」しているという感覚は、単なる幻想なのである。
ハードデターミニズムにとって、最も困難な問題は、道徳的責任と法的責任の問題である。もし人間の行為が完全に決定されているなら、人間に対して道徳的に責任を問うことは、正当化されるのか。人間を犯罪に対して罰することは、正当化されるのか。ハードデターミニストの多くは、我々は、道徳的責任と法的責任に関する我々の概念を根本的に見直す必要があると考えている。
フランクファートの階層的欲求理論
ハリー・フランクファートは、自由意志に関する興味深い理論を提唱した。フランクファートによれば、自由意志とは、単に、行為者の欲望に基づいて行為することではない。むしろ、自由意志は、行為者が自分の欲望に対して持つ「第二階の欲望」(second-order volitions)に関連しているのである。
フランクファートの理論を説明するために、例を挙げよう。ある人が、麻薬中毒を克服したいと思っているが、同時に、麻薬を使いたいという欲望も持っているとしよう。この場合、この人は、二つの相反する欲望を持っている。しかし、自由意志の観点からして重要なのは、この人が、自分の欲望のどちらを「自分の真の意思」と見なしているかということである。
もし、この人が、麻薬中毒を克服したいという欲望を、自分の本当の欲望と見なし、麻薬を使いたいという欲望を、自分の真の自己の表現ではないと見なすなら、その人は、たとえ麻薬を使う欲望に駆られていても、自由意志を有しているのである。逆に、もし、その人が、麻薬を使いたいという欲望を、自分の本当の欲望と見なしているが、その欲望に反して、麻薬を使わないでいるとしたら、その人は、不自由な状態にいるのである。
フランクファートの理論によれば、自由意志とは、行為者が自分の第一階の欲望と一致した第二階の欲望を有することなのである。つまり、自由とは、自分自身の欲望の階層構造が統一されている状態なのである。
道徳的責任との関係
自由意志と道徳的責任の関係は、形而上学と倫理学を結ぶ橋である。我々は、一般的に、人間が自由意志を持つ場合にのみ、道徳的責任を持つと考える。もし人間の行為が完全に強制されているなら、その人は道徳的に責任を負わないだろう。
しかし、自由意志の問題が形而上学的に複雑であるのと同様に、道徳的責任との関係も複雑である。例えば、決定論が真であるとして、我々は、依然として人間を道徳的に責任を持つ存在として扱うべきか。あるいは、自由意志が実際には存在しないという事実は、我々の道徳的責任についての概念を根本的に変更すべきなのか。
多くの哲学者は、たとえ決定論が真であっても、道徳的責任の制度は、実践的に正当化されると考える。つまり、人間が道徳的に責任を持つ存在として扱われることは、個人と社会の福祉を増進するために機能しているのである。もし我々が、道徳的責任についての概念を放棄すれば、倫理的な動機付けが失われ、社会的な秩序が崩壊するかもしれないのである。
時間と空間の形而上学
時間と空間は、我々が経験する世界の最も基本的な構造である。しかし、時間と空間の形而上学的な本性は、古代からの哲学においても、また現代の物理学においても、深刻な議論の対象である。
時間の本性——A理論とB理論
時間に関する形而上学的な見方は、大きく二つの対立する立場に分けられる。一つがA理論であり、もう一つがB理論である。
A理論は、時間的特性(temporal properties)、特に「現在」という概念に基本的な形而上学的な意義を与える立場である。A理論によれば、過去、現在、未来は、本質的に異なった存在のモードを持つ。現在は、リアルで、実在的であり、過去は、もはや存在しないが、かつては実在的であり、未来は、まだ存在しないが、やがて実在的になるであろう。
このA理論的な見方は、私たちの直感的な時間経験に対応している。我たちは、現在を、特別な存在的地位を持つものとして経験する。過去は永遠に去ったものであり、未来はまだやって来ていない。この非対称性は、A理論によって説明されるのである。
一方、B理論は、過去、現在、未来の区別には、本質的な形而上学的意義がないと主張する。むしろ、時間は、空間と類似した方式で、すべての時間的位置(time-slices)が等しい実在的地位を持つ四次元の構造体なのである。「現在」という概念は、単に、観察者の視点からの相対的な位置づけに過ぎない。ちょうど、「ここ」という概念が、異なった場所にいる観察者にとって、異なった意味を持つように。
B理論の利点は、それが相対性理論の時間観と調和していることである。相対性理論によれば、同時性は相対的である。異なった基準系において、同時と見なされる事象が、別の基準系では同時ではないのである。この事実は、「現在」が客観的な普遍的な現象ではなく、観察者の相対的な視点に依存していることを示唆しているかもしれない。
現在主義と永久主義
時間の本性に関する別の対立が、現在主義と永久主義の間に存在する。
現在主義は、現在だけが実在し、過去と未来は存在しないと主張する。現在主義は、言語的に表現すると、「今、存在しているものだけが、厳密には存在する」ということになる。この見方は、A理論と関連しているが、より強い主張を含む。現在主義によれば、過去や未来への言及は、すべて、現在の事実によって解釈されなければならない。例えば、「恐竜が地球に生息していた」という文が真であるのは、その文が、現在存在する物質的・心理的な痕跡(化石など)や、現在における真実である法則に基づいているからなのである。
一方、永久主義は、過去、現在、未来のすべてが、等しい現実性を持つと主張する。永久主義によれば、過去の出来事は、今も、確かに起こったのであり、未来の出来事は、やがて起こるであろう。すべての時間的位置における事象は、B理論において、同じレベルで現実的なのである。永久主義は、時間を、四次元の時空連続体として見なす立場である。
空間の実在性——関係説と絶対説
空間が何であるのかについても、古代からの形而上学的な対立が存在する。特に重要な対立が、関係説と絶対説の間にある。
絶対説は、空間は、物体とは独立した、自存的な容器(container)として実在するという立場である。ニュートンは、この立場の代表的な支持者である。ニュートンによれば、空間は、神の属性の一つであり、普遍的で不動の容器として存在する。物体は、この絶対的な空間の中に存在し、動く。
一方、関係説は、空間は、物体同士の関係の集合に過ぎないと主張する。ライプニッツは、この立場の代表的な支持者である。ライプニッツによれば、「空間」という概念は、物体間の距離や位置関係を表現するための便宜的な方法に過ぎない。独立した空間そのものは存在しない。物体が存在し、その物体同士の空間的な位置関係が定義されるとき、初めて「空間」という概念が意味を持つのである。
現代の物理学の発展は、この議論に新しい光を投じた。相対性理論によれば、空間と時間は、「時空」という統一された概念にまとめられる。そして、物質やエネルギーの存在が、この時空の幾何学的構造を決定する。この観点からすると、空間は、物質から完全に独立した容器ではなく、物質の存在と相互に関連した構造体なのである。この見方は、関係説に近いものであるかもしれない。
時間旅行の形而上学
時間旅行は、科学フィクションにおける人気のあるテーマであるが、形而上学的には極めて興味深い問題である。時間旅行は、形而上学的に可能なのか。また、時間旅行が可能であったとすれば、それは時間の本性についての何を意味するのか。
時間旅行が形而上学的に可能であるためには、いくつかの条件が必要である。第一に、時間が四次元的な構造を持つ必要がある。つまり、B理論が真であり、永久主義が成立している必要がある。現在主義やA理論的な時間観では、過去や未来は存在しないので、それらへの旅行は不可能である。
第二に、因果的な閉路(closed timelike curves)の存在が必要である。つまり、因果的な過程が時間的に閉じた経路をたどることが可能でなければならない。一般相対性理論によれば、特殊な時空の幾何学的構造では、このような閉じた経路が物理的に可能である。
しかし、時間旅行は、深刻なパラドックスをもたらす。最も有名なのが、「祖父のパラドックス」である。もし、人間が時間を遡って、自分の祖父に会う前に祖父を殺すことができたなら、その人は存在しないはずである。しかし、その人は、祖父を殺すために時間旅行したのである。このパラドックスは、因果的な矛盾を示している。
このパラドックスに対して、様々な解決方法が提案されている。一つは、時間旅行は物理的に不可能であるという立場。別の一つは、時間旅行が可能であるが、因果的なパラドックスは、並行宇宙(parallel universes)の形成によって回避されるという立場。また別の一つは、因果的な前決定によって、パラドックスの発生が原理的に不可能であるという立場。これらの議論は、時間の本性についての深い形而上学的な思索を要求するのである。
同一性と変化
何かが「同じ」であるということは、一見、きわめて明白な事実に見える。しかし、形而上学的に厳密に分析すると、同一性は、複雑で困難な概念なのである。特に、時間を通じての同一性は、形而上学における中心的な問題である。
通時的同一性——テセウスの船
テセウスの船は、古代ギリシャから引き継がれてきた有名な思考実験である。伝説によれば、テセウスが乗船した船は、アテナイ人によって保存された。しかし、時間の経過とともに、船の木が腐り、新しい木で置き換えられていった。最終的には、もともとの木は一枚も残されなかった。この場合、この船は、元のテセウスの船と同じ船なのか、それとも、別の船なのか。
さらに複雑なバージョンとしては、置き換えられた古い木を集めて、もう一隻の船を再組み立てたとしよう。この再組み立てされた船は、元のテセウスの船なのか。それとも、時間の経過とともに部分的に置き換えられてきた船が、元のテセウスの船なのか。
このパラドックスは、同一性の本性に関する深い問題を指摘している。物体の同一性は、その物質的な成分によって決定されるのか、それとも、別の基準によって決定されるのか。また、空間的な連続性や因果的な連続性は、同一性を決定するのか。
形而上学における様々な立場は、このパラドックスに対して異なった答えを提供する。一つの立場は、元の木が全て置き換えられた船は、もはや元の船ではないと考える。別の立場は、時間的な連続性と因果的な連続性があれば、物質的な成分が全て置き換わっても、同じ船であると考える。さらに別の立場は、このパラドックスは、我々の同一性についての概念に本質的な曖昧性があることを示唆していると考える。
人格の同一性
人間の同一性は、特に複雑である。人間は、時間とともに、身体的にも精神的にも変化する。しかし、それでも、私たちは、現在の自分は、子どものときの自分と「同じ人間」であると考える。この人格同一性の基礎は何か。
ジョン・ロックは、人格同一性は、記憶の連続性に基づいていると主張した。ロックの見方によれば、人格は、個体の記憶によって定義される。つまり、私が過去の出来事を記憶していれば、その出来事を経験した存在と、私は同じ人格なのである。このアプローチは、直感的に理解しやすく、人格の実際の経験に符合するように見える。
しかし、ロックの記憶説は、問題を抱えている。記憶は、脆弱である。多くの過去の出来事を、私たちは忘れている。しかし、それでも、我々は、忘れた出来事を経験した存在と同じ人格であると考える。さらに、記憶は誤るかもしれない。もし、偽りの記憶を持つ場合、その人格同一性は、どのようにして決定されるのか。
パレフィットは、人格同一性に関して、より洗練された理論を提唱した。パレフィットによれば、人格同一性は、それほど重要ではない。むしろ重要なのは、「心理的連続性」(psychological continuity)である。心理的連続性とは、過去の心理状態から、現在の心理状態への一連の連続的な変化である。この連続性があれば、たとえ完全な同一性がなくても、道徳的な関心と責任の基礎が存在するのである。
四次元主義と三次元主義
物体の同一性に関して、重要な形而上学的な立場の対立がある。四次元主義と三次元主義の間の対立である。
三次元主義は、物体は三次元的な存在であり、時間的な持続(duration)を持つと考える立場である。この立場では、物体は、各々の時間において存在し、異なった時間における物体の部分は、その物体の「時間的部分」である。例えば、昨日の私と今日の私は、同じ人間の異なった時間的な状態であるのである。この見方は、日常的な物体に関する我々の考え方に対応している。
一方、四次元主義は、物体は四次元的な「時空体」(spacetime worm)であると考える立場である。物体は、時間的な広がりを持つ四次元的な総体として存在する。この四次元的な総体の各々の三次元的な「スライス」は、その物体の「時間的部分」(temporal part)である。例えば、私という人間は、実は、時間的に拡張された四次元的な存在であり、昨日の私、今日の私、明日の私は、その大きな四次元的な人間という総体の異なった部分なのである。
これらの二つの立場は、物体の時間的な構造に対する根本的に異なった見方を提供する。四次元主義は、B理論的な時間観と自然に結合し、永久主義と相容れやすい。一方、三次元主義は、A理論的な時間観との親和性が高い。また、人格の同一性に関しても、これらの立場は異なった帰結をもたらす。
曖昧性と同一性
最終的に、同一性に関する多くの問題は、本来的な曖昧性(vagueness)に由来しているかもしれない。テセウスの船の問題は、解決可能な問題ではなく、むしろ、同一性という概念そのものが、本来的に曖昧であることを示唆しているのである。
例えば、禿頭のパラドックスを考えてみよう。一本の毛を持つ人は、禿頭ではない。二本の毛を持つ人も禿頭ではない。では、どの段階で、人は禿頭になるのか。このパラドックスは、「禿頭」という述語が、本来的に曖昧であることを示している。
同様に、同一性も、本来的に曖昧かもしれない。テセウスの船は、ある意味では同じ船であり、別の意味では異なった船である。この曖昧性は、我々の概念の不完全性を示しているのである。形而上学は、このような曖昧性に直面して、それにどのように対処するかを問うているのである。
東洋の形而上学
形而上学は、西洋哲学に限定される営みではない。東洋、特にアジアの哲学伝統においても、存在と実在についての深い思索が展開されてきた。西洋の形而上学と異なった視点から、東洋の形而上学は、独特の洞察を提供している。
仏教の空と縁起
仏教の形而上学は、「空」(sunyata)と「縁起」(pratityasamutpada)という二つの中心的な概念に基づいている。これらの概念は、西洋の形而上学における実在論や本質主義とは、根本的に異なった存在観を提供するものである。
仏教の「空」とは、すべての現象が、本質的な自性(svabhava)を持たないという教えである。西洋の形而上学では、物体や性質は、何らかの本質的な属性を持つと考えられることが多い。例えば、机であれば、机らしい本質的な属性を持つと考えられる。しかし、仏教の見方では、机も、机という本質的な属性を持たない。机とは、様々な要素が一時的に結合した現象に過ぎず、その結合は常に変化し、究極的には分解する。
縁起の教えは、すべての現象が、原因と条件の相互依存的な関係のネットワークの中で生じると主張する。何かが存在するのは、それ自体の本質的な力によってではなく、他の現象との関係の中においてのみなのである。この見方は、西洋の実体概念と対立する。西洋では、物体は、他の物体から独立した実体として理解されることが多い。しかし、仏教では、そのような独立した実体の存在は否定される。
仏教の空と縁起の教えは、形而上学的には、一種の関係主義(relationalism)を構成している。存在するのは、相互に関連した現象の流れであり、それ以外の何ものでもない。この見方は、20世紀の現代物理学、特にプロセス哲学と一定の親和性を持つようになった。
道家の道と無
道家の形而上学は、「道」(Tao)という概念に中心を置いている。『老子』において説かれる道とは、宇宙の根本的な原理であり、すべての存在の源である。しかし、この道は、西洋の形而上学における「存在」(being)や「実在」(reality)とは、本質的に異なった性格を持つ。
道は、名付けられることはない。『老子』の冒頭は、「道可道非常道、名可名非常名」(道を道として語ることができるならば、それは常の道ではない)と述べている。これは、道の根本的な特性が、概念化と言語化の彼岸にあることを示唆している。道は、言語や概念によって捕捉されるべき対象ではなく、むしろ、言語と概念の源となるもの無なのである。
道家の形而上学における「無」(wu)は、西洋における「無」(nothingness)とは異なった意味を持つ。道家の「無」は、相対的な無ではなく、すべての有の源となる創造的な無である。この創造的な無は、逆説的ながら、最も豊かで、最も生産的な原理なのである。道は、無の形で存在し、この無の中から、あらゆる有が生じるのである。
道家の思想は、存在と非存在、有と無の二項対立を超える形而上学を提供する。この見方は、西洋の二元論的な思考様式との対比において、現代の形而上学に新しい視点をもたらしている。
儒教の気と理
儒教は、倫理学と政治哲学を中心とした伝統として知られているが、その背後には、独特の形而上学がある。特に、「気」(qi)と「理」(li)という概念は、儒教的な世界観の形而上学的な基礎を形成している。
「気」は、宇宙を満たす根本的な物質的なエネルギー、あるいは力である。すべての現象は、気の様々な状態と変化の表現である。気は、物質的であると同時に、精神的である。この二元性の超越は、気の概念の独特な特徴である。西洋の形而上学では、物質と精神は、通常、厳密に区別されるが、儒教では、気を通じて、この二者は統一されるのである。
「理」は、気の背後に存在する根本的な原理、あるいは秩序である。理は、すべての現象に内在する本質的な秩序である。朱熹などの新儒教の哲学者たちは、理を、プラトン的なイデアに類似した普遍的な原理として理解した。気と理の関係は、物質と形相、あるいは現象と本質の関係として理解される。
しかし、儒教における気と理の関係は、西洋的な形而上学の二元論とは異なる。気と理は、決して分離し得ない。気がなければ、理も顕現することができない。理がなければ、気も秩序のない無意味な混沌に過ぎない。この相互依存的な関係性は、形而上学的には、極めて洗練された見方を提示しているのである。
日本の「もののあはれ」と存在
日本の伝統的思想における「もののあはれ」(mono no aware)という概念は、東洋の形而上学における独特の貢献である。もののあはれとは、物事の本質的な哀しみや無常性に対する深い感受性と理解である。これは、単なる感情的な応答ではなく、存在そのものの本性に対する形而上学的な洞察を含むものである。
もののあはれの形而上学は、次のように理解することができる。あらゆる現象、あらゆる存在は、本来的に無常であり、移ろい行き、最終的には消滅する。この無常性は、不幸や欠陥ではなく、むしろ、存在そのものの本質的な特性である。美しさも、愛も、生命も、すべて移ろい行く無常の中に存在している。
もののあはれの美学的・形而上学的意義は、この無常性を悲しむのではなく、むしろ、それを深く受け入れ、その中に深い美しさと意味を見出すことにある。例えば、桜の花は、その短い開花期間の中にこそ、最も深い美しさを持つ。桜が散る時の哀しみ、移ろい行く季節への感受性、これらは、存在の無常性に対する形而上学的な応答なのである。
もののあはれの思想は、西洋の形而上学における永遠と不変への執着とは対照的である。西洋では、最高の存在は、不変で、永遠で、完全であると考えられることが多い。しかし、もののあはれは、無常性自体の中に深い価値と美しさを見出す。この視点は、形而上学的には、西洋的な永遠性の価値観に対する根本的な挑戦である。
結論——形而上学の現代的意義
形而上学は、20世紀の多くの期間において、衰退の危機に直面していた。論理実証主義の哲学者たちは、形而上学的な問いの多くは、意味のない疑似問題であると主張した。科学の方法論に従わない形而上学的な思索は、学問的には価値がないと考えられたのである。しかし、20世紀の後半から現在に至るまで、形而上学は、顕著な復興を遂行している。この復興の意義を理解することは、現代の哲学と知的文化を理解するために不可欠である。
形而上学の現代的復興の理由は、多岐にわたる。第一に、論理実証主義自体が、その内部的な矛盾によって、衰退したことである。科学の厳密な記述という目標そのものが、形而上学的な前提を含んでいることが明らかになった。科学が客観的に存在する世界を記述しているという仮定、あるいは、帰納法が知識を生み出すという仮定。これらはすべて、純粋に科学的な方法論からは導出できない形而上学的な前提なのである。
第二に、科学の発展そのものが、新しい形而上学的な問題を生み出したことである。量子力学は、決定論と因果性に関する従来の形而上学的理解を根本的に挑戦した。相対性理論は、時間と空間の本性に関する新しい形而上学的な思索を要求した。宇宙論の発展は、宇宙全体の存在と起源に関する形而上学的な問いを新たに活性化させた。つまり、科学の進展は、形而上学を不可欠なものにしたのである。
第三に、分析系哲学の発展が、形而上学的な問題に対して、より厳密で説得力のある答えを提供する可能性を示したことである。形而上学は、もはや、単なる思弁的で恣意的な営みではなく、論理的な厳密性と経験的な制約の両者を尊重する学問的な営みとなったのである。
形而上学の現代的意義は、多方面にわたる。第一に、認識論的な意義として、形而上学は、我々が世界を理解する際の基本的な枠組みを提供する。存在とは何か、因果関係とは何か、時間と空間とは何か。これらの問いに対する答えなくしては、科学も常識的な知識も、成立しない。
第二に、倫理学的な意義として、形而上学は、人間の自由と責任の基礎を明確にする。決定論と自由意志の問題、心身問題、人格の同一性。これらの問題に対する形而上学的な答えは、我々の道徳的な自己理解に直結しているのである。
第三に、実践的な意義として、形而上学は、技術開発と科学政策に対して、重要な指針を提供する。人工知能の倫理、生命倫理、環境倫理。これらの現代的な問題は、その根底において、存在と価値に関する形而上学的な問いを含んでいるのである。
第四に、精神的な意義として、形而上学は、人間が自己と世界の関係について根本的に思索する営みである。人間は何か、宇宙における人間の位置づけは何か、人間の存在の意味は何か。これらの問いに対する真摯な思索なくしては、充実した人間的生活は成立しない。形而上学は、このような根本的な問いに対して、様々な答えの可能性を提示するのである。
また、東洋と西洋の形而上学的伝統の対話も、現代の知的文化において、ますます重要になっている。西洋的な実体主義と東洋的な関係主義、西洋的な存在論と東洋的な無の思想、これらの異なった伝統間の相互作用は、新しい形而上学的な洞察をもたらす可能性を持っている。仏教の空と縁起、道家の道と無、儒教の気と理、日本のもののあはれ。これらの東洋的な概念は、西洋的な形而上学の視点を相対化し、人間の存在理解の新たな次元を開く。
最後に、形而上学の現代的復興は、人類の知的活動における根本的な反省的転回を示唆している。形而上学は、科学の後塵を拝する、劣位の学問ではない。むしろ、形而上学は、科学を含むあらゆる知識活動の基礎を形成する、本来的に不可欠な営みなのである。形而上学的な思索を放棄することは、人間の理性的な自律性を放棄することに等しい。
形而上学の問いは、古代から現在まで、人類と共に歩んできた。そして、将来においても、形而上学の問いは、人間の知的活動の中心に位置し続けるであろう。なぜなら、存在することとは何か、実在することとは何か、この根本的な問いは、人間が存在する限り、永遠に人間に問いかけ続けるのであるから。
形而上学の学習は、単なる知識の習得ではなく、自己と世界に関する深い思索への招待である。形而上学の歴史における様々な立場を学ぶことを通じて、私たちは、自らの常識的な世界観を相対化し、より広い視点から、存在と実在について思索する能力を獲得する。この能力は、科学的な思考力と同様に、あるいはそれ以上に、現代人にとって必要とされる本質的な知的能力なのである。
形而上学への旅は、無限である。なぜなら、存在についての究極的な答えは、決して確定的に与えられるものではなく、常に新たな問いと新たな思索を生み出し続けるからである。この無限の思索の過程そのものが、人間の理性的で自律的な生を構成しているのである。