導入:物質と精神の二項対立への道
古代ギリシア初期哲学の展開を追うと、自然界の究極的根源について、様々な仮説が提出されてきたことが明らかになる。タレスの水、アナクシマンドロスのアペイロン、ヘラクレイトスの火、そしてエンペドクレスの四元素。これらはすべて、物質的な基本要素を根源として想定している。
しかし、5世紀半ばに活動した、アナクサゴラス(Ἀναξαγόρας)という思想家は、この純粋な物質主義的アプローチに対して、根本的な疑問を呈した。彼は、物質的要素だけでは、自然界の秩序と目的性を説明することができないと考えたのである。
アナクサゴラスが導入した革新的概念が、「ヌース(nous)」、つまり「精神」または「知性」である。この概念は、古代ギリシア哲学に新たな問題領域を開き、物質と精神、機械的因果関係と目的論的説明の対立という、後代の全西洋哲学をも支配する問題を提起することになったのである。
アナクサゴラスの人生と活動
時代と場所
アナクサゴラスは、紀元前500年から紀元前428年の間を生きたと推定されている。彼はイオニアのクラゾメナイ(Clazomenae)という都市から、当時のギリシア最大都市アテナイへと移住したとされている。
アテナイ滞在中、彼はペリクレスという著名な政治家の友人であり、アテナイの知的活動に大きな影響を与えたと伝えられている。しかし、彼の急進的な思想は、やがて宗教的な反発を招き、彼はアテナイから追放されることになった。その理由は、彼が「太陽は石である」と主張し、天体の神聖さを否定したためであると記録されている。
この出来事は、古代ギリシアにおいて、急進的な哲学思想がいかに宗教的・政治的抵抗に直面したかを示す重要な例なのである。
哲学的背景
アナクサゴラスは、イオニア学派の伝統に属しながらも、同時にそれを批判する立場にあった。彼はエンペドクレスの四元素説に関心を持ち、それと対話する形で自分の理論を展開した。同時に、彼はパルメニデスの存在論の影響も受けており、その「存在するものは生成しない」という原理を尊重していた。
しかし、これらの先行する理論のいずれもが、自然界の秩序と知性的なデザインを十分に説明していないと考えたのである。
ホモイオメレス理論:無限の微細性
アナクサゴラスの最初の革新的貢献は、「ホモイオメレス」(homoiomereia)という概念の導入である。この概念は、古代ギリシア哲学において最も複雑で、最も議論の多いものの一つである。
ホモイオメレスの基本的意味
「ホモイオメレス」とは、「同じ部分を持つもの」という意味である。この概念は、物質の本質的な性質について、エンペドクレスの考え方に対する批判から生まれた。
エンペドクレスは、四元素(土、水、空気、火)が基本であり、すべての物質は、これら四つ元素の混合によって成立していると主張していた。しかし、アナクサゴラスは、この説に重大な問題があると指摘した。
もし血液が、単に四つの元素の混合に過ぎないなら、血液の各部分(例えば、小さな滴)は、その部分ごとに、やはり四つの元素の混合であるはずである。ところが、実際には、血液をどんなに小さく分割しても、その部分はなおも「血液」であり、他の物質ではない。
無限分割可能性
この観察から、アナクサゴラスは、以下の革新的な結論に至った:
物質の各部分は、全体の部分ではなく、全体と同じ性質を持つものであり、これは無限に分割可能であるということである。言い換えれば、「無限に分割可能な無限に多くの部分(ホモイオメレス)から、すべての物質は構成されている」というのである。
この理論は、古代原子論者レウキッポスやデモクリトスの「原子」という概念とは根本的に異なる。アナクサゴラスのホモイオメレスは、決して最小の不可分的単位ではなく、むしろ無限に分割可能な部分であるのである。
質的多様性と定性的物質
さらに重要なのは、アナクサゴラスが、無限に多くの異なる「ホモイオメレス」の存在を主張していることである。血液のホモイオメレス、肉のホモイオメレス、骨のホモイオメレス、金のホモイオメレスなど、異なる物質ごとに、異なる種類のホモイオメレスが存在するのである。
つまり、自然界には無限に多くの本質的に異なる物質的要素が存在し、それぞれが無限に分割可能でありながら、その部分はいつもなおも同じ種類の物質であるというのである。
この理論は、対パルメニデスのための重要な工夫である。パルメニデスは、「存在するものは不変で、単一で、分割不可能である」と主張したが、アナクサゴラスは、「存在するものは複数であり、本質的に異なる無限多くの要素から成立しており、無限に分割可能である」と反論しているのである。
ヌース(精神)の導入と目的論的宇宙観
アナクサゴラスの理論において、ホモイオメレスと同じほど、あるいはそれ以上に重要な概念が、「ヌース(nous)」である。
ヌースの本質と特性
ヌースは、通常「精神」「知性」「心」などと訳される。しかし、この訳語は完全に正確ではない。より正確には、ヌースは「認識的な知的原理」「意識と意図を持つ力」「秩序と目的を与える原理」を意味する。
古代の記録によれば、アナクサゴラスは次のように述べたとされている:
「他のすべてのものが無秩序で、混沌としているのに対して、ヌースのみが秩序が正しく、すべてのものの中に存在し、また、すべてを支配する最も細微で最も純粋な物質である。」
この記述から明らかなように、ヌースは、単なる抽象的な原理ではなく、きわめて微細な「物質」として概念化されているのである。
ヌースの主な属性
アナクサゴラスが帰しているヌースの属性は、以下の通りである:
第一に、自己同一性:ヌースのみが、完全に純粋で、他の物質と混合していない。他のすべての物質は混合しているが、ヌースは決して混合しない。
第二に、無限性と遍在性:ヌースは無限であり、すべての場所に存在する。それはすべての物質の中に浸透し、すべてを支配する。
第三に、活動性:ヌースは活動的であり、惰性的ではない。それは目的意識を持って作用し、秩序を与える。
第四に、知識的性質:ヌースは知識を持ち、認識的である。それは過去、現在、未来を知り、それに応じて行動する。
目的論的因果関係
古代ギリシア哲学においてヌースの導入が革新的であった理由は、それが古代自然哲学に「目的論的説明」を導入したからである。
それまでの自然哲学者たちは、自然界の現象を、機械的な「効率因」(efficient cause)によってのみ説明していた。つまり、「Aが原因で、Bという結果が生じる」という種の説明である。
ところが、アナクサゴラスは、「自然界の秩序は、知的で目的意識を持つ原理(ヌース)によって造られた」と主張した。つまり、「自然界の事物や現象は、何らかの目的を達成するために、知的に組織されている」という目的論的説明を導入したのである。
この発想は、古代ギリシアの他のどの自然哲学者にも見出されない独特のものであり、後代のプラトンやアリストテレスの思想に大きな影響を与えることになるのである。
宇宙の形成とヌースの役割
アナクサゴラスは、ホモイオメレスとヌースの概念を用いて、宇宙がいかにして現在の秩序を獲得したのかについて、説明を試みた。
初期の混沌状態
アナクサゴラスによれば、宇宙の最初は、すべてのホモイオメレスが一つに混ざり合った、完全な混沌の状態であった。すべてのもの——血液、肉、骨、金、その他あらゆる物質——が、分け隔てなく、相互に混合していたのである。
この状態における各ホモイオメレスは、それぞれ無限に多く存在していたが、その個別性は、混沌の中に没収されていた。この初期の混沌状態は、パルメニデスの「スフェロス」やエンペドクレスの「完全な混合」の状態に類似しているが、同時にそれとは異なっている。
ヌースの分別の活動
その後、ヌースが作用し始めた。ヌースは、この混沌を秩序立てるために、回転運動(dine)を引き起こした。この回転運動によって、ホモイオメレスは次第に分別され、同じ種類のホモイオメレスが集積されるようになったのである。
血液のホモイオメレスは血液へと集積し、肉のホモイオメレスは肉へと集積し、骨のホモイオメレスは骨へと集積したのである。このようにして、多くの異なる物質が、混沌の中から分化し、現在見るような、秩序ある自然界が形成されたというのである。
継続的な秩序維持
特に重要なのは、アナクサゴラスが、ヌースの作用を単一の創造行為としてではなく、継続的で現在進行形の活動として理解していることである。ヌースは、現在でも宇宙全体に浸透し、すべてのものの秩序と調和を維持しているのである。
知識論と方法論的革新
アナクサゴラスの自然哲学は、同時に新たな知識論をも導入した。
経験的観察と知的推理の結合
アナクサゴラスは、自然について知識を得るための方法として、経験的観察と知的推理の両方を重視していた。彼は、目に見えないもの(ホモイオメレスやヌース)を理解するために、目に見えるもの(現象)を観察し、そこから論理的に推論することが必要であると考えていた。
古代の記録によれば、彼は次のような言葉を残したとされている:
「現象は、目に見えないもの(隠れたもの)への眺望である。」
この方法論的宣言は、古代ギリシア初期哲学における、最初の本格的な科学的方法の定式化と見なしうるものなのである。
感覚の限界と理性的推論の必要性
同時に、アナクサゴラスは、感覚的知覚の限界も認識していた。感覚は、微細で目に見えないものを直接に知覚することはできない。したがって、知識を獲得するには、理性による推論が必要なのである。
これは、パルメニデスが強調した「感覚的知覚の欺瞞性」という批判を、部分的に受け入れるとともに、同時にそれを超克しようとするアプローチなのである。
エンペドクレスとの理論的対比
アナクサゴラスの理論を理解するには、彼の同時代人エンペドクレスとの比較が有用である。
要素の数の問題
エンペドクレスは、四つの根本的要素を提唱した。一方、アナクサゴラスは、無限に多くの異なる要素を主張した。
この相違は、単なる数の問題ではなく、自然界の本質についての根本的に異なる見方を反映している。エンペドクレスにとって、四つの要素の異なる混合比が、自然界の多様性を説明する。一方、アナクサゴラスにとっては、それぞれの異なる物質は、独自の本質的ホモイオメレスを有しており、これが自然界の根本的多様性を保証するのである。
動力因としての力
エンペドクレスは、愛と憎という二つの宇宙的力を導入し、これを四要素の混合と分離の動力として機能させた。一方、アナクサゴラスは、知的で目的意識を持つ単一の原理(ヌース)を導入した。
この相違は、機械的因果関係(愛と憎)と目的論的因果関係(ヌース)の対比を示すものであり、古代ギリシア哲学における重要な対立なのである。
アナクサゴラスの批判者たちと理論的限界
それでも、アナクサゴラスの理論は、多くの批判と限界を含んでいた。
パルメニデスへの応答の不完全性
アナクサゴラスのホモイオメレス理論は、パルメニデスの「存在するものは生成しない」という原理に対する一つの答えではある。しかし、その答えは必ずしも完全ではない。
パルメニデスは、さらに「もし複数のものが存在するなら、その間に空隙が存在しなければならず、空隙は非存在であり、非存在は存在しない」と主張するであろう。アナクサゴラスがこの難問にどのように答えるのか、その答えは必ずしも明確ではない。
ヌースの説明の曖昧性
さらに深刻な問題として、ヌースの本質と機能についての説明が曖昧であることがある。ヌースは本当に「最も微細で最も純粋な物質」なのか、それとも非物質的な原理なのか。古代の記録からは、この点が完全に明確ではない。
また、ヌースがいかにして回転運動を引き起こすのか、その機構についての説明も不十分である。
無限性の問題
ホモイオメレスの無限分割可能性という概念は、古代ギリシアの思想家たちに多くの困難をもたらした。無限に分割可能であるなら、ものの有限な大きさをどのように説明するのか。この「無限分割可能性と有限性の両立」という問題は、後代のアリストテレスによっても厳しく批判された。
後代の哲学者たちによる評価
アナクサゴラスの思想は、古代から現代に至るまで、様々に評価されてきた。
プラトンの評価
プラトンは、『パイドン』という対話篇で、アナクサゴラスを高く評価している。プラトンは、アナクサゴラスがヌースを導入したことに深い関心を示し、それを自分のイデア論の先駆けと見なしている。
しかし同時に、プラトンはアナクサゴラスを批判している。なぜなら、アナクサゴラスがヌースを導入しておきながら、その後の説明では、物質的・機械的な原因に依存しているからであると、プラトンは指摘するのである。
アリストテレスの批判
アリストテレスは、アナクサゴラスのホモイオメレス理論に対して、厳しい批判を加えた。アリストテレスにとって、無限分割可能性の概念は、形而上学的に矛盾しており、論理的に成立しない。
しかし同時に、アリストテレスは、アナクサゴラスがヌースを導入したことの意義を認識していた。アリストテレスは、後に自分の「第一動因(unmoved mover)」の概念を導入する際に、アナクサゴラスのヌースの理論から多くの示唆を得たのである。
結論:物質主義から目的論への転換点
アナクサゴラスは、古代ギリシア初期自然哲学の最後の重要な人物であり、同時に新たな時代の先駆けである。
彼のホモイオメレス理論は、エンペドクレスの四元素説に対する有力な代案となり、無限に多くの本質的に異なる物質的基本要素の存在を示唆した。この理論は、確かに多くの理論的困難を含んでいるが、自然界の根本的多様性を保証しようとする試みとしては、きわめて創造的なものなのである。
さらに重要なのは、彼がヌースという概念を導入し、自然界に知識的で目的意識を持つ原理が存在することを主張したことである。この発想は、古代ギリシア初期の機械的自然観から、目的論的な宇宙観への転換を示すものであり、プラトン、アリストテレス、そしてその後の西洋思想全体に深刻な影響を与えることになるのである。