はじめに:解放の約束はなぜ裏切られたのか
啓蒙は人間を神話と迷信から解き放ち、理性による自律をもたらすはずだった。ところが二十世紀は、最も高度に合理化された社会のただなかで、産業的に組織された大量殺戮を生んだ。テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno, 1903-1969)の思考は、この一点から出発する。破局は理性の不足によって起きたのではない。理性そのものの構造のうちに、それを準備するものがあったのではないか。
この問いは、単なる反啓蒙主義には帰着しない。アドルノとマックス・ホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で書いたとおり、啓蒙批判はそれ自体啓蒙の営みである。理性を放棄すれば、残るのは神話への回帰にすぎない。求められるのは、理性が自らの支配的性格を自覚し、自己自身に批判を向けることである。この自己反省の遂行こそが、アドルノにとっての哲学の課題であった。
アドルノは体系を嫌い、断章とエッセイを好み、難解で反復を許さない文体で書いた。この難解さは韜晦ではなく、方法上の必然として選ばれている。すらすら読める文章は、既存の思考図式に沿っているからこそ読みやすいのであり、その図式こそが批判の対象だからだ。本稿では、生涯を確認したうえで、批判理論の枠組み、『啓蒙の弁証法』、文化産業論、否定弁証法、非同一なものと星座的布置、アウシュヴィッツ以後の問い、美学理論と音楽論、実証主義論争、そして現代への影響と批判を順に検討する。
生涯——フランクフルトから亡命へ、そして帰還
アドルノは1903年、フランクフルト・アム・マインに生まれた。父オスカー・ヴィーゼングルントは同化したユダヤ系のワイン商、母マリア・カルヴェッリ=アドルノはコルシカ系の家系に連なるカトリックの声楽家であり、同居する伯母もピアニストであった。芸術と音楽に浸された裕福な家庭環境は、後の彼の思考の質——概念的な厳密さと感覚的な繊細さの結合——を決定づけた。姓のアドルノは母方に由来し、亡命期に正式な名として採用されたものである。
フランクフルト大学で哲学・社会学・心理学・音楽学を学び、1924年にフッサール論で学位を得る。翌1925年にはウィーンに赴き、新ウィーン楽派のアルバン・ベルクに作曲を師事した。この経験は決定的である。アドルノは音楽について語る哲学者ではなく、作曲家としての訓練を受けた者として音楽を分析した。1931年、パウル・ティリッヒのもとで『キルケゴール——美的なものの構成』により教授資格を取得、就任講演「哲学の現実性」を行う。またこの時期、生涯にわたる知的友情の相手ヴァルター・ベンヤミンとの交流が始まっていた。両者の往復書簡は、二十世紀思想の最も重要な記録の一つである。
ナチス政権の成立により1933年に教授資格を剥奪され、オックスフォードに移ってフッサール研究を続ける。1938年にはニューヨークへ渡り、ホルクハイマーが率いる社会研究所に正式に加わった。ポール・ラザースフェルドのプリンストン・ラジオ研究プロジェクトへの参加は、アメリカ流の経験的社会調査との軋轢を生みながら、彼のメディア分析に素材を与えた。1941年にはロサンゼルス近郊に移り、亡命ドイツ人知識人の共同体のなかで暮らす。トーマス・マンは『ファウストゥス博士』の音楽記述についてアドルノの助言を仰いだ。『啓蒙の弁証法』はこの亡命地で書かれ、1947年にアムステルダムで刊行される。断章集『ミニマ・モラリア——傷ついた生活裡の省察』も同時期の産物であり、また『権威主義的パーソナリティ』(1950)に結実する共同研究にも従事した。
1949年、アドルノはフランクフルトに帰還する。社会研究所は1951年に再開され、彼は1958年に所長となった。戦後西ドイツにおいて、彼はラジオ講演や新聞論説を通じて公共的知識人としての役割を担い、「過去の総括とは何を意味するか」(1959)、「アウシュヴィッツ以後の教育」(1966)といったテクストで、ナチズムの反復を防ぐ教育の課題を論じた。しかし1968年前後の学生運動は、彼を苦境に立たせる。学生たちは批判理論を実践に移すことを要求し、アドルノは無媒介な行動主義を「疑似活動」として退けた。1969年1月、社会研究所を占拠した学生に対して彼は警察を呼び、多くの逮捕者が出る。同年4月には講義が学生の示威行動によって妨害され、彼は講義を中止した。同年8月6日、静養先のスイスで心筋梗塞により死去。六十五歳。主著となるはずだった『美学理論』は未完のまま、翌1970年に遺稿として刊行された。
フランクフルト学派と批判理論
1923年に設立された社会研究所は、当初マルクス主義の経済史・労働運動史の研究機関であった。1930年に所長となったホルクハイマーがこれを転換し、哲学・社会学・経済学・心理学・文化研究を統合する学際的な共同研究へと方向づける。この構想を定式化したのが、1937年の論文「伝統的理論と批判理論」である。
伝統的理論は、自らを社会の外部に立つ中立的な観察として理解する。事実を収集し、法則を定立し、予測する。批判理論はこの自己理解を疑う。理論もまた社会の産物であり、社会の再生産に組み込まれている。したがって理論は、自らが何に奉仕しているかを反省しなければならない。そして批判理論の目的は、社会を記述することではなく、人間の解放に寄与することである。ただし、その解放がどのような社会であるかを積極的に描くことは慎重に避けられる。未来像の描出は、現在の思考の限界を未来に投影する危険を伴うからだ。
アドルノとホルクハイマーの世代が直面したのは、古典的マルクス主義の予測の破綻であった。プロレタリアートは革命の主体とならず、ファシズムを支持しさえした。経済的搾取の分析だけでは、なぜ人々が自らを抑圧する体制に同意するのかが説明できない。ここから、精神分析の導入(権威主義的パーソナリティ研究)と文化領域の分析(文化産業論)という二つの方向が開かれる。同時に、ソ連の現実は、革命の実現がそれ自体新たな支配を生みうることを示していた。アドルノの否定性への傾斜は、この二重の失望を背景にしている。『否定弁証法』の冒頭の一文はそれを凝縮している——「哲学は、その実現の瞬間が逸せられたがゆえに、なお生き延びている」。
『啓蒙の弁証法』——理性の自己破壊
1944年に草稿が回覧され1947年に刊行された『啓蒙の弁証法』は、アドルノとホルクハイマーの共同作業である。その中心テーゼは冒頭近くに置かれている。「神話はすでに啓蒙であり、啓蒙は神話へと退化する」。
前半のテーゼはこうである。神話もまた、世界を説明し、恐怖を制御し、自然を人間に近づけようとする試みであった。それは原初の啓蒙である。後半のテーゼが本書の眼目である。啓蒙は、自然を支配可能な対象へと還元することによって進む。数量化できないもの、概念に収まらないものは、非合理として排除される。この過程で、理性は目的について問う力を失い、与えられた目的への最適な手段を計算する能力——道具的理性——へと痩せ細る。手段の合理性が極大化される一方で、何のために、という問いは合理的議論の外部へ追放される。
さらに重要なのは、自然支配が内的自然の支配を伴うという指摘である。統一的な自我は自然に対して自己を確立する過程で成立するが、その代償として自らの衝動と感覚を抑圧しなければならない。本書の補論はオデュッセウスをこの弁証法の原型として読む。セイレーンの歌を聞くために自らを帆柱に縛りつけ、漕ぎ手たちには耳を蝋で塞がせる英雄。彼は快楽を体験するが、それに従って行動する自由を放棄している。自己保存のための自己放棄という構造は、以後の市民的主体の原型である。
そしてナチズム。啓蒙が排除した自然は、抑圧された形で回帰し、反ユダヤ主義という暴力に転化する。「反ユダヤ主義の要素」の章が分析するのは、投影のメカニズムである。抑圧された衝動が他者へ投影され、その他者を破壊することで自らの不安を処理する。組織化された虐殺は、非合理の噴出であると同時に、官僚制・分類・輸送・記録という徹底して合理的な手続きの産物であった。この二重性こそ、アドルノとホルクハイマーが「啓蒙の弁証法」と呼んだものである。「完全に啓蒙された地上には、勝ち誇った災いの徴が輝いている」。
文化産業論——大衆文化ではなく産業
『啓蒙の弁証法』の一章「文化産業——大衆欺瞞としての啓蒙」は、アドルノの最も広く知られたテクストである。この「文化産業(Kulturindustrie)」という語の選択自体が主張を含んでいる。著者たちは当初「大衆文化」と書いていたが、それが大衆から自然発生的に生まれた文化という誤解を招くため、あえて産業という語に変えた。それは上から供給される商品なのだ。
分析の核心は「標準化」と「疑似個性化」の二重構造である。映画も流行歌もラジオ番組も、あらかじめ確立された図式に従って生産される。だが商品として売るためには、それぞれが唯一無二であるかのように差異化されねばならない。ヒット曲は同一の和声構造を持ちながら、細部の装飾によって「新しさ」を演出する。消費者は選択しているつもりで、あらかじめ用意された選択肢の内部を移動している。「文化産業は消費者に対して、絶えず約束するものを絶えず欺く」。娯楽は解放をほのめかしながら、その充足を無限に先送りする。
さらにアドルノは、娯楽が労働からの逃避ではなく「後期資本主義における労働の延長」であると論じる。消耗した労働者が求めるのは、努力を要しない刺激である。文化産業はまさにそれを供給し、結果として次の労働への適応を再生産する。批判的な緊張を含む作品は、集中を要求するがゆえに市場から排除される。こうして文化は、支配的秩序への同意を絶えず作り直す装置となる。占星術欄の分析(『地上に落ちてきた星』)では、擬似的な合理性が読者の依存を強化する仕組みが、実証的な内容分析を通じて示された。
この理論には強い批判がある。とりわけジャズをめぐるアドルノの論述は、繰り返し攻撃されてきた。彼が実際に接したのはワイマール期からアメリカ亡命初期の商業的ダンス音楽が中心であり、アフリカ系アメリカ人の音楽的伝統やビバップ以後の展開への理解は乏しかった。「即興は事前に決められている」という彼の断定は、対象の実態を捉え損ねている。より一般的には、受け手を一様に受動的な存在として描く点が、後の文化研究から異議を受けた。それでも、コンテンツが工業的に生産され、注意が商品として売買される現代において、彼の設問——文化の形式そのものが意識をどう形づくるか——が失効したとは言い難い。
『否定弁証法』——同一性思考の批判
1966年の『否定弁証法』は、アドルノが自らの哲学的立場を最も体系的に——彼自身が体系を拒みつつ——展開した著作である。標的は「同一性思考(Identitätsdenken)」と呼ばれる思考の様式である。
概念は、個々の事物を一般的な規定のもとに包摂することで機能する。この操作は不可避であり、それなしに思考は成り立たない。問題は、概念が対象を汲み尽くしたと思い込むときに生じる。対象のうち概念に収まらない部分は、思考の失敗としてではなく、対象の側の非本質的な残余として切り捨てられる。アドルノはこの構造を、思考における支配の形式と見る。そして彼はここに、交換価値の社会的形式との相同性を読み取る。市場において質的に異なる労働と生産物が量的な等価物へ還元されるのと同じ操作が、概念の水準でも起きているのだ。
ヘーゲル弁証法は、この批判の主要な対象であると同時に、批判の道具でもある。アドルノはヘーゲルから、矛盾を思考の駆動力とする発想を継承する。だがヘーゲルにおいて、否定は「規定的否定」を経て、より高次の総合へと止揚される。否定の否定は肯定になる。アドルノはこの最後の一歩を拒む。和解は現実には達成されていないのに、思考のうちで達成されたと語ることは、現実の苦痛を概念的に正当化することだからである。『ミニマ・モラリア』の一句がこの反転を示す。ヘーゲルの「真なるものは全体である」に対し、「全体こそが非真理である」。
したがって否定弁証法とは、否定を貫き、和解を先取りしない弁証法である。それは矛盾に留まる思考であり、結論に到達しない思考である。ここで生じる自己言及的な困難を、アドルノは自覚していた。概念によって概念の限界を語ること——彼はこれを避けられない矛盾として引き受け、「概念によって概念を超え出る」努力として定式化した。この不安定さゆえに、彼の哲学は誤解されやすく、また模倣が難しい。
非同一なものと星座的布置
同一性思考が排除するものを、アドルノは「非同一なもの(das Nichtidentische)」と呼ぶ。それは概念の網目からこぼれ落ちる個別的なもの、質的なもの、還元されえないものである。哲学の課題は、非同一なものを新たな概念で捕らえ直すことではない。それでは同じ操作の反復になる。むしろ、非同一なものが排除されているという事実そのものを、概念の側から可視化することである。
この課題に応える方法として提示されるのが「星座的布置(Konstellation)」である。この着想はベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』の認識批判序説に由来する。ひとつの対象を上位概念のもとに包摂するのではなく、複数の概念を対象のまわりに配置し、それらの相互関係のうちに対象を浮かび上がらせる。夜空の個々の星が、そのあいだの関係によって星座という形を描き出すように。定義は対象を閉じるが、布置は対象を開く。アドルノのエッセイ的な書き方——結論に向かって直進せず、同じ対象を異なる角度から反復して照射する叙述——は、この方法の実演である。
あわせて重要なのが「客体の優位(Vorrang des Objekts)」というテーゼである。観念論は主体を構成の中心に据えた。実証主義は主体を排除した客観性を装いつつ、実は所与の枠組みへの主体の順応を要求する。アドルノはそのいずれとも異なり、認識に主体の契機が不可欠であることを認めつつ、それでも客体が主体に還元されないことを強調する。認識は対象に「身を委ねる」ことを含む。ここには、支配ではない自然との関係の可能性——彼が「ミメーシス」と呼ぶ、対象に似ようとする働き——への手がかりが置かれている。
「アウシュヴィッツ以後に詩を書くことは野蛮である」
アドルノの最も有名な一句は、1949年に書かれ1951年に『プリズメン』に収められた論文「文化批判と社会」の末尾に現れる。しばしば引かれるのは前半だけだが、原文は続きを持つ。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことは、今日詩を書くことがなぜ不可能になったのかを語る認識をも蝕む」。
この一文は、詩作の禁止令として読まれてきた。だがそれは誤読である。文脈は文化批判の可能性をめぐる議論であり、要点は次のところにある。ジェノサイドを生み出した社会の文化が、その破局の後も何ごともなかったかのように美的享受を提供し続けるとき、その文化は破局への加担を隠蔽する。芸術は苦しみを形式化することによって、それを鑑賞可能なものにし、意味を与えてしまう。そこには、殺された者たちを美的満足の材料にするという暴力が潜む。そして最後の一節が示すとおり、この批判は批判自身にも及ぶ。批判もまた文化の一部であり、無傷ではありえない。
アドルノ自身、後にこの定式を修正している。『否定弁証法』の一節はこう述べる。「持続する苦しみは、拷問される者が叫ぶのと同じだけの表現の権利を持つ。それゆえ、アウシュヴィッツ以後にはもはや詩は書けない、という言葉は誤りであったかもしれない」。苦痛の表現を封じることは、苦痛を沈黙させることになる。彼が真に問うたのは、詩を書いてよいかではなく、破局の後にいかなる形式が可能かであった。実際、アドルノはパウル・ツェランの詩に、この問いへの一つの応答を見いだしている。あらゆる叙情的な自明性を破壊し、言語自体を吃らせるツェランの詩法は、意味づけの拒否によってのみ、語りえぬものに接近する。
同じ関心から、彼は「アウシュヴィッツ以後の教育」を語った。「教育の最も重要な要求は、アウシュヴィッツが二度と繰り返されないことである」。そして彼は、この要求のために「新しい定言命法」を定式化する——ヒトラーは不自由の状態にある人間に対し、アウシュヴィッツが反復されないよう思考と行動を組織せよという命法を強制した、と。この命法は理性によって基礎づけられるものではない。それは身体に触れる、耐えがたさの直接的な感覚に根ざしている。
美学理論と前衛芸術
アドルノにとって、芸術は文化産業の対極にある。だが芸術が救済の場となるわけではない。『美学理論』の冒頭は宣言する。「芸術に関わるいかなることも、もはや自明ではなくなったということが、自明となった」。芸術の存在理由そのものが問いに付されている状況から、彼の美学は出発する。
芸術作品は二重の性格を持つ。それは自律的な形式であると同時に「社会的事実(fait social)」である。この二重性は矛盾ではなく、まさに自律的であることによって芸術は社会的なのだ。有用性の要求を拒み、交換価値に還元されない形で存在することによって、作品は、すべてが交換可能である社会に対する異議申し立てとなる。「芸術は社会の社会的アンチテーゼである」。逆に、社会的メッセージを直接に語る芸術は、既存のコミュニケーション形式に順応することで、批判の力を失う。
この立場から、アドルノは1962年の論文「コミットメント」において、サルトルのアンガージュマン文学とブレヒトの教育劇の双方を批判した。彼が対置したのはカフカとベケットである。ベケットの『勝負の終わり』についての長大な論考が示すように、意味を拒む作品こそが、意味の崩壊という現実を裏切らずに提示する。『美学理論』はベケットに献呈されるはずであった。芸術の「謎めいた性格(Rätselcharakter)」——作品が何かを語っているのは明らかだが、それが何かは言えないという構造——は、非同一なものの居場所を示す。またアドルノは、ヘーゲル以後の美学が軽んじてきた「自然美」を復権させる。自然美とは、人間の意図によって作られていないものが美しく現れる経験であり、支配されない自然の予兆である。
音楽論——新音楽の哲学とシェーンベルク
アドルノの美学が最も具体的に展開されるのは音楽である。1949年の『新音楽の哲学』は、二十世紀音楽をシェーンベルクとストラヴィンスキーという二つの極として構成した。シェーンベルクの無調から十二音技法への歩みは、音楽素材が内在的に要求する必然的な進歩として評価される。調性という「第二の自然」——歴史的に形成されながら自然のように見える秩序——を解体し、和声的緊張を偽りの解決へ導かないこと。それは音楽における「和解の拒否」である。
だが評価は無条件ではない。ここにも弁証法が働く。調性の支配から解放するために導入された十二音技法は、音列という新たな規則の体系となり、作曲家をふたたび拘束しかねない。素材の解放が新たな全体的組織化に転化するというこの指摘は、『啓蒙の弁証法』のテーゼの音楽的変奏である。後年、ダルムシュタットの前衛作曲家たちを前に行った講演「非形式的音楽に向けて」(1961)で、アドルノは全面的なセリー主義への懸念を語り、規則の外部で構成される音楽の可能性を模索した。
他方でストラヴィンスキーは、新古典主義への転回を過去の様式の引用として遂行したがゆえに、「復古」として厳しく退けられた。この評価はしばしば不当だと批判されており、アドルノ自身も後年やや態度を和らげている。彼の音楽論の射程はこの二極対立に尽きない。『ヴァーグナー試論』は楽劇の技法と虚偽意識の関係を分析し、『マーラー——音楽人相学』は破綻や不揃いを含むマーラーの音楽に、統合を拒む真実性を読み取った。『音楽社会学序説』は聴取の類型論を提示している。作曲家としての訓練を受けた耳が、社会の構造を音の組織のうちに聴き取る——この独自の批評は、音楽学と社会理論の双方に影響を残した。
実証主義論争——ポパーとの対決
1961年、テュービンゲンで開かれたドイツ社会学会の会合で、カール・ポパーとアドルノがそれぞれ「社会科学の論理」について報告した。この討議に端を発する一連の応酬は「実証主義論争」と呼ばれ、後にハーバーマスとハンス・アルバートの激しい論戦へと引き継がれて、1969年に論集にまとめられた。
争点は複数ある。第一に、科学の統一性。ポパーは、自然科学も社会科学も、大胆な仮説を立て反証を試みるという同一の方法に従うと主張した。アドルノは、社会が研究対象であると同時に研究者を規定する場である以上、対象と主体の関係が自然科学とは異なると論じる。第二に、全体性の概念。アドルノにとって社会は個別的な事実の集積ではなく、それらを可能にしている構造的な総体である。総体は直接観察されないが、個別の事実はそれによってのみ理解可能となる。ポパーの側からすれば、これは反証不可能な形而上学的思弁にほかならない。第三に、価値自由。アドルノは、事実の記述にすでに価値判断が織り込まれており、その隠蔽こそが既存秩序の追認になると批判した。
この論争にはすれ違いも多かった。「実証主義者」という呼称をポパー自身は断固として拒否している。彼は論理実証主義の検証主義を批判した張本人であり、自らを批判的合理主義者と称した。両者は「批判」という語の意味を共有しなかった。ポパーにとって批判とは仮説を反証にさらす手続きであり、アドルノにとって批判とは社会の全体的構造とその虚偽性を暴くことである。とはいえ論争は無益ではなかった。社会科学の方法論的自己理解をめぐる問題設定は、以後の議論の枠組みを長く規定し、批判理論の側では、規範的基準をどこに求めるかという課題を鮮明にした。
現代への影響と批判
アドルノへの最も重要な批判は、彼の後継者から来た。ユルゲン・ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』において、『啓蒙の弁証法』の議論を「遂行的矛盾」として批判する。理性のすべてを道具的理性として告発するなら、その告発を行う理性はどこに立脚するのか。批判が可能であるためには、批判が依拠しうる合理性の契機が理性のうちに残されていなければならない。ハーバーマスはそれを、主体と客体の関係ではなく、主体間の了解志向的な言語使用のうちに見いだし、「コミュニケーション的合理性」として定式化した。批判理論の第二世代は、この転回によって規範的基礎づけの問題に応答したのである。
政治的な批判もある。ゲオルク・ルカーチは、フランクフルト学派の知識人たちが深淵を見晴らす快適なホテルに滞在していると揶揄した。実践への回路を持たない批判は、洗練された諦念にすぎないのではないか。1968年の学生たちが投げつけたのも、形を変えた同じ問いである。アドルノの応答は晩年の論文「レジグナツィオン(諦念)」に残されている。実践への圧力に屈して思考を停止することこそが真の諦念であり、思考は「屈しない者たちの実践」である、と。この応答に納得するかは読者によって分かれるだろう。
文化研究の側からの批判も大きい。スチュアート・ホールらのバーミンガム学派は、受け手が文化商品を送り手の意図どおりに受け取るとは限らず、対抗的・交渉的な読解を行うことを示した。文化産業論は受動的な大衆という像を前提していると批判されたのである。他方で、フレドリック・ジェイムソンらは、後期資本主義の文化分析においてアドルノの枠組みの有効性を擁護し続けてきた。
そして今日、アドルノの読み直しは新たな局面を迎えている。推薦アルゴリズムがコンテンツの供給と嗜好の形成を同時に担い、注意そのものが取引される環境において、標準化と疑似個性化の分析は不気味な現実味を帯びる。生態系の危機は、自然支配という『啓蒙の弁証法』の主題を、比喩ではない切迫として読み直させている。アクセル・ホネットによる物象化と承認の理論、記憶と歴史認識をめぐる議論、そして測定可能なものだけを価値とみなす合理性への批判——アドルノの問題設定は、その悲観の色調ごと、現在の議論のなかで生き続けている。
結論
アドルノの哲学は、解決を提示しない。彼は望ましい社会の像を描かず、実践の綱領を示さず、読者に安心を与えない。この徹底した否定性は、しばしば無力さの表明として受け取られてきた。だがそれは彼の側から見れば、方法上の一貫性である。和解を語ることが和解の不在を覆い隠すなら、和解を語らないことこそが、和解への唯一誠実な関わり方だからである。
彼が守り抜こうとしたのは、概念に回収されないものへの感受性であった。数値化され、交換され、管理される世界のなかで、そこに収まらない何かがあるという感覚。それは理論的な主張である以前に、苦痛に対する身体的な応答である。「苦しみを表現することへの欲求こそが、あらゆる真理の条件である」。この一文が示すとおり、アドルノの認識論の根には倫理があり、その倫理の根には破局の記憶がある。
同時に、彼の思考が抱える困難を軽く見るべきではない。全面的に管理された社会という診断は、実際の社会に存在する亀裂と抵抗を過小評価する。エリート主義という非難には、認めるべき部分がある。ハーバーマスの提起した基礎づけの問題は、依然として未決である。だがアドルノは、自分の思考が矛盾を含むことを隠さなかった。彼にとって矛盾は、思考の失敗ではなく、矛盾した現実に対する思考の忠実さの証しだったのである。『ミニマ・モラリア』の最後の断章が求めたのは、絶望に直面してなお可能な唯一の哲学、すなわち「世界を、いつか救済の光のうちに現れるであろう姿から見る」ことであった。その光を彼は約束しない。ただ、その光のもとで現在がいかに歪んでいるかを、生涯にわたって描き続けたのである。
アドルノが属した知的共同体の全体像についてはフランクフルト学派を、彼の思考に最も深い影響を与えた友人についてはベンヤミンを、そして彼を批判的に継承した第二世代の理論についてはハーバーマスを参照されたい。