認識的不正義——知識と権力の交差

序論:証言と信頼の問題

人間の知識の大部分は、他人の証言に基づいている。歴史的事実は、歴史家の著作によって知られる。科学的知識は、科学者の報告によって知られる。日常的な情報は、友人や同僚の言葉によって知られる。しかし、すべての証言が等しく受け入れられるわけではない。ある人々の証言は、より重く扱われ、他の人々の証言は、軽視される。

なぜそのようなことが起こるのか。一部の場合、認識論的根拠がある。証言者は、より高い専門知識を持つかもしれない。しかし、多くの場合、証言への信用の差異は、認識論的根拠ではなく、社会的権力と偏見に基づいている。女性、少数民族、低社会階級出身者の証言は、しばしば、より懐疑的に扱われる。これは、単なる認識論的問題ではなく、不正義である。

キンバーレ・クレンショーの「認識的不正義」の概念は、この問題を正面から扱う。認識的不正義は、知識と理解の領域における、権力に基づいた不正義である。それは、個人を、認識的行為者として、社会的に排除する。

証言の認識論

認識論は、長く、証言を知識源として軽視していた。知識は、個人的な経験、理性的思考、科学的観察から得られると考えられた。証言は、他人の報告に基づいているため、二次的で、信頼性が低いと見なされた。

しかし、現代の認識論は、証言の本質的な重要性を再認識している。人間の知識の大部分は、実際には、証言に依存している。子ども時代、我々は、親や教師から、世界について学ぶ。成人としても、多くの知識は、証言から来ている。証言を軽視することは、知識の本質についての根本的な誤解である。

C・A・J・クックは、「証言による知識」の概念を発展させた。証言者が十分に信頼できるならば、聴き手は、証言から直接的に知識を獲得することができる。この知識は、証言者の証言に依存しているが、それでも、聴き手の知識である。このアプローチは、証言の認識論的価値を回復する。

証言的不正義

認識的不正義には、複数の形態がある。証言的不正義は、最初に識別された形態である。これは、聴き手が、証言者に対する偏見的な身元評価に基づいて、不当に証言に信用を拒む、ことである。

例えば、医学的相談において、女性患者の症状報告は、医師によってしばしば深刻性が低く評価される。医師の性的偏見は、女性患者の証言に対する不当な信用欠如につながる。同様に、黒人男性の証言は、警察官や陪審員によって、人種的偏見に基づいて、疑われることがある。

証言的不正義は、個人に対して、二つの害を与える。第一に、知識の獲得が妨げられる。聴き手は、重要な情報を失う。第二に、証言者は、認識的行為者として、貶められる。証言者は、知識の生産に貢献することができない存在として、扱われる。この第二の害は、より深刻である。それは、個人の自己尊重と社会的地位に影響を与える。

被黙認識的不正義

認識的不正義のもう一つの形態は、被黙認識的不正義である。これは、聴き手が、証言を受け入れるが、その証言を、文化的な解釈の枠組みに適合させる方法が欠如しているため、正当に理解できない、ことである。

例えば、被害者が、セクシャルハラスメントについて、その非倫理性と有害性を説明しようとするが、社会の支配的な枠組みでは、このような被害は、なぜ害悪であるかについて、適切な概念を持たないかもしれない。被害者は、聞かれるが、理解されない。メッセージは、聴き手の解釈枠組みによって、歪められる。

この形態の不正義は、より微妙であり、多くの場合、認識されない。聴き手は、正当に聴いていると考えるかもしれない。しかし、被害者は、依然として、理解と支援を受けられない。被黙認識的不正義は、個人の自己理解と経験の検証を拒否する。

証言的不公正と権力

証言的不正義の根底にあるのは、社会的権力の不均等な分配である。支配的グループのメンバーの証言は、より信頼できるものと見なされる傾向がある。周辺グループのメンバーの証言は、より懐疑的に扱われる。

このパターンは、特定の社会的カテゴリー(人種、ジェンダー、階級、障害)に沿って形成される。女性は、男性よりも証言的信用が低い。黒人は、白人よりも証言的信用が低い。低社会階級の人々は、高社会階級の人々よりも証言的信用が低い。これらのパターンは、単なる認識論的根拠によっては説明できない。むしろ、それらは、社会的権力と構造的な不平等を反映している。

権力は、証言的不正義をメカニズムの一つである。支配的グループは、自分たちの経験と解釈を「普遍的」で「客観的」なものとして設定する。周辺グループの経験は、「特殊」で「主観的」なものとして却下される。この権力的な枠組みは、証言的不正義を可能にし、正当化する。

認識的自治性と不正義

ミランダ・フリッカーは、認識的不正義は、個人の「認識的自治性」を損害させることを主張している。認識的自治性は、知識的行為者として、自分自身の思考能力と判断能力に信頼を持つ能力である。

証言的不正義にさらされるとき、個人は、自分たちの認識的判断への信頼を失う傾向がある。繰り返し、自分たちの証言が疑われたり、貶められたりするとき、個人は、自分たちが知識的に信頼できるかどうかについて、疑問を抱き始める。これは、長期的な「認識的損傷」をもたらす。

被害者は、自分たち自身の経験と判断を信頼しなくなる。彼らは、権力のあるグループの解釈をより信頼するようになる。これは、認識的自治性の喪失である。この喪失は、深刻な害を与える。なぜなら、知識的に自分自身に信頼を持つことは、人間の幸福と自己実現の基礎であるからである。

医療における認識的不正義

医療領域は、認識的不正義が特に明白な場所である。患者の報告は、医療専門家の専門知識と比較される。多くの場合、医師や看護師は、患者の報告よりも自分たちの診断を信頼する。

女性患者は、特に証言的不正義の対象である。彼女たちの症状報告は、より疑われる傾向がある。「女性は往々にして気をちらす」という固定観念が、女性患者の報告の信頼性を低下させる。これは、診断エラーにつながり、治療の遅延をもたらす。多くの場合、条件は悪化し、深刻な健康被害が発生する。

同様に、患者が社会的少数派である場合、認識的不正義は、より極端になる。黒人患者の痛みの報告は、白人患者よりも過小評価される。障害者の経験的報告は、医療専門家の「専門知識」によって却下される。これらの形態の認識的不正義は、医療における重大な不平等と有害な成果を生じさせる。

司法における認識的不正義

司法制度は、認識的不正義の別の主要な領域である。証人の証言は、司法的手続きにおいて重要である。しかし、証人の信頼性は、その社会的アイデンティティに基づいて、判断されることが多い。

被害者と証人は、その社会的背景に基づいて、信頼性が低いと見なされることがある。少数民族の被害者の陳述は、白人の被告人の陳述よりも懐疑的に扱われる傾向がある。貧困な背景を持つ人々の証言は、より裕福な人々の証言よりも値打ちが低いと見なされる。

この認識的不正義は、司法的不正義につながる。無罪の少数民族が有罪判決されることが多い。有罪の富裕層が有罪判決を避けることが多い。認識的不正義は、司法的不正義の重要な要因である。

科学における認識的不正義

科学は、客観的な知識の追求であると見なされるが、科学分野においても認識的不正義が存在する。女性科学者の研究は、しばしば、男性科学者の研究よりも低く評価される。少数民族の科学者の貢献は、過小評価される傾向がある。

科学的知識の構築は、認識論的に中立的なプロセスではない。支配的なグループの観点が、科学的「事実」の定義を形作る。周辺グループの研究領域と質問は、「科学的」と見なされない。この認識的不正義は、科学的知識の発展を制限し、その範囲と妥当性を制限する。

フェミニスト認識論は、科学における認識的不正義の様々な形態を明かしてきた。女性の経験と視点の排除は、科学的知識を不完全にしている。より包括的で民主的な認識論的実践は、より良い科学知識につながる。

認識的正義に向かって

認識的不正義に対処することは、単なる認識論的問題ではなく、道徳的・政治的課題である。より正義的な認識論的実践を構築するには、証言的信用の不均等な分配に対処する必要がある。

一つのアプローチは、「認識的謙虚さ」を養うことである。人々は、自分たちの認識的偏見と限界に気づく必要がある。すべての人が、証言的不公正にさらされるリスクがある。聴き手は、証言者の社会的アイデンティティが、証言の信頼性にバイアスをかける方法に注意する必要がある。

別のアプローチは、周辺グループの声を増幅し、支援することである。制度と実践を変更して、より多くの人々が認識的行為者として認識される必要がある。少数派グループの人々が、知識生産に参加し、貢献することが必要である。

結論:民主的認識論へ

認識的不正義の概念は、知識生産と理解が、純粋に認識論的な問題ではなく、権力の問題であることを明らかにする。より正義的で民主的な社会は、より包括的で民主的な認識論的実践を必要とする。

すべての人が、証言的信用に値する認識的行為者として認識される社会を構築することは、重要である。この社会では、権力は、知識生産を操作するために使用されない。代わりに、知識は、人々の多様な経験と視点から、共同で構築される。このような民主的な認識論は、より良い社会とより良い知識の両方につながるであろう。